10.
「そら、元気ないけど、どうしたんだい?」
喬生が心配そうにそらの顔を覗き込む。
走り去る銀色のアストンマーチンDB5を見送って、そらはいつものようにバスに揺られて街中まで帰ってきた。その途中で喬生から電話が入り「たまには外で食事でも」という話になって、バスセンターの前で待ち合わせていたのだ。
何でもない、と笑おうとした。しかし、そらの表情は強張ったままだった。
「ちょっとね――」
「お義母さんのこと?」
「えっ?」
そらは反射的に喬生を見返す。
「……違うのかい?」
「あ、うん、そうなんだけど……」
そらは慌ててかぶりを振る。
脳裏に浮かぶのは草薙の後ろ姿だった。もとより小柄な草薙だが、静かに歩き去る背中は今まで以上にひどく小さく見えた。
――私は敗残者なのですよ。
自虐的というわけではない。それはむしろ、自らの過ちを認めて重荷を背負い続ける覚悟のように聞こえた。
草薙の妻と娘が今どうしているのか、そらは知らない。けれど、2人が苛烈な一面を持つ老人の下を去っていった原因の一端を知った今では、その重荷を自分も抱えてしまったような気持ちになっていた。
「具合が悪いなら帰ってもいいよ?」
優しい夫の声に、そらは鳩尾辺りにわだかまる感触をひとまず忘れることにした。
「――ううん、大丈夫。ねぇ、何食べに行く?」
「僕は何でもいいけど」
「またぁ、喬生さんってばいつもそうやってあたしに決めさせるよね」
「そりゃそうだよ。僕は一人で食べるときに好きなものを食べてるから、こういうときはそらの好きなものにしないと」
「あ、そんなに好きなものばっかり食べてるんだ? 道理でウォーキングしてもお腹のお肉が減らないわけだよ」
「うわぁ、ヤブヘビ」
喬生が大袈裟に顔をしかめる。そらは横目で睨むが口許は笑いに緩んでいる。
「いい加減にしないと、せっかく作ったばかりのスーツがぜんぶ入らなくなっちゃうよ?」
「それは困るなぁ。コレ、かなり気に入ってるんだよ」
喬生は開いたコートの中のスーツに目をやる。
サラリーマンにとってスーツは仕事着なのでいちいち贅沢はできないが、そんな中でも喬生が着ているのは、清水の舞台から飛び降りて両脚骨折するくらいの意気込みで買ったブルックス・ブラザーズだった。そらはもうちょっとタイトなシルエット――たとえばバーバリー・ブラックレーベルやポール・スミスが格好良いんじゃないかと漠然と思っていたが、肩幅の広いがっしりした体格の喬生にブルックスのボックス・シルエットは良く似合っていた。
「だったら痩せないとね~」
そらが意地悪に言う。喬生は小さく鼻を鳴らした。
「ごもっともだね。駅前に流行りの雑穀料理の店ができたって事務の女の子が言ってたけど、そこにするかい?」
「あたしはいいけど?」
そらが澄まして言うと喬生はいかにも落胆したような顔になる。一回りも歳上なのに子供っぽい仕草をしてみせる夫が可愛く見えて、そらはほんのりとした柔らかい微笑みを浮かべた。
「久しぶりにあそこがいいな。ほら、喬生さんが前に連れてってくれてたベトナム料理の店。コムディアが復活したって言ってたじゃない」
「オッケー、そこにしよう」
そうと決まれば喬生の行動は早い。コートの裾を翻して路肩に駆け寄ると、片手を大きく掲げてタクシーを停める。もう片方の手は携帯電話を開いて店に予約の電話を入れている。
(そんなに急がなくていいのに)
忙しない夫の様子に苦笑しながら、そらは自分を呼び寄せる声に笑みを浮かべて駆け寄った。
喬生の馴染みのベトナム料理屋は市内からは少し外れたところにある。
その店で出されるコムディアという名のワンプレート料理はそらのお気に入りだったのだが、牛肉価格の高騰などを理由に長らくメニューから外されていた。それがいつの間にか復活していたという話を、喬生は偶然に店を訪れた部下から聞かされていたのだ。
トマトベースの味付けがされた牛肉と玉ねぎとパインの炒め物をパラリと炊き上げたインディカ米にぶっかけた、お世辞にも上品とは言い難い見た目の料理をそらは喬生が驚くほど猛烈な勢いで平らげた。
「うーん、美味しいっ!」
「……喜んでくれて良かった。これがなくなったときのそらの落胆振りはなかったからね」
「そりゃそうよ。だってコレ、他所じゃ食べられないんだもん。自分で作ろうにもレシピが分かんないし」
「とてもじゃないけど、教えてくれそうにないもんな」
店のマスターは強面の痩身の男性で、包丁を持った姿は料理人というよりは熟練の刀鍛冶のようにすら見える。洋装のコックコートを纏っているからまだマシなのだが、これが和装であったり作務衣でも着ていようものなら目を合わせることすら躊躇うに違いなかった。
「でも、そらとデートも久しぶりだね」
喬生は食後のベトナムコーヒーを口に運ぶ。
店のメニューにはカフェ・シュアと記されている所謂ミルクコーヒーだが、牛乳や生クリームではなくコンデンスミルクを使うのがベトナムコーヒーの特徴だ。あらかじめカップの底に注いでおいたどろりとしたミルクにコーヒーを注ぎ、飲むときにゆっくりと掻き混ぜる。
カフェ・シュア・ダーという同じもののアイスを猫舌のそらは注文していた。元々のコーヒーがかなり濃く抽出されているせいで全体的に濃くドロリとした舌触りで、それが冷やされていると液体のコーヒーキャンディを舐めているような感じになる。
そらはふーっと深い溜め息をついた。
「この頃、いろいろ忙しかったし、それどころじゃなかったもんね」
「そうだね。でも、少しは元気が出たみたいだし、誘った甲斐はあったわけだ」
喬生は安堵したように目を細めた。
「……うん、まぁね。でも、まだ何も前に進んでないんだよね」
「そうだよなぁ」
――宮下と早く手を切れ。
そらは夕子にそう言いたくて仕方なかった。喬生から聞かされた話だけでも気が気ではないのに、草薙からも早く手を打つべきだと進言されている。家庭人の資質は大きく欠けているとしても、草薙の人を見る目はそらの及ぶところではない。その老人が言うのだから間違いはあるまい。
「帰りにお店に寄ってもいい?」
「ああ。僕もいっしょにいた方がいいかな?」
「どうかな。2人がかりだと意固地になるかもしれないから、そのときに考えるよ」
ちょうどカップに口をつけた喬生は返事の代わりに小さくうなずいた。そのとき、そらの携帯電話が鳴った。
「……噂をすればママから」
時刻はとっくに店の営業時間に入っている。普段、夕子はよほど急ぎの用事がない限りは営業中には電話はかけてこない。
何事かと思いつつ、そらは通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしたのママ?」
「……あぁ?」
擦り合わせたヤスリを連想させるザラザラした声。
一瞬、酔った母親の悪ふざけかと思った。けれど、どちらかと言えば華のある高い声の夕子にこんな声が出せるはずはなかった。
次に浮かんだのは宮下収が母親の携帯電話に勝手に触れた可能性だ。しかし、宮下も中途半端にドスの利いた声を出すことはあっても、ここまで低い声ではない。
「……誰?」
「あんた、河合夕子さんのお嬢さんか?」
「そうですけど。あなたは?」
「俺か? 俺は小料理屋の客だよ。ただし、ちょっとばかり招かれざる方の部類に入るかもな。申し訳ないが、すぐにお母さんの店まで来てくれないか。店の中がとっ散らかってるもんでね」
男が言っていることだけでは事情は飲み込めない。但し、些細なことを話すような淡々とした口調がそらの記憶のある部分を激しく刺激していた。
渋面の喬生がしてみせた頬に線を引く仕草。一刻も早く宮下収を母親から遠ざけなくてはならない理由。
「……ちょっとあんたたち、そこで何やってんのよ」
そらの声が冷える。意識から追いやったはずの鳩尾のわだかまりが違う理由で戻ってきていた。
短い沈黙の後、電話の向こうの男は小さく笑った。
「何もしちゃいないよ。あんたのお袋さんの彼氏にちょいとお説教をしてただけだ。ウチの若い衆は気が短いんでつい周りのものに当たっちまったが、心配すんな、あんたのお袋さんには指一本触れちゃいない」
当たり前だ。そう吐き捨てたくなるのをそらは堪えた。男は「じゃあな、早く来てくれよ」と言い残して電話を切った。
「そら?」
いつの間にか喬生が席を立ち、隣から中腰で肩を抱きながらそらの横顔を覗き込んでいた。そらは泣き出しそうな顔で夫の顔を見返した。
「喬生さん、ママが、ママが……」
「――分かった、急ごう」
話は読めなくても只事ではないのはそらの形相がしっかりと伝えていた。喬生はひったくるような手つきで伝票を掴むと大股でレジに向かった。
そらは気付けの一杯のような勢いでミネラルウォーターのグラスをあおった。口許からこぼれる水を乱暴に袖で拭うと、喬生の後を追って立ち上がろうとした。
そらはそのとき初めて、自分の脚がガクガクと震えていたことに気づいた。