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熾火  作者: 須藤彦壱
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1.

 

 

「――そらさん、とおっしゃるのかな?」

 男の呼びかけにそらは顔を上げた。

 レファレンスカウンターの前に立っていたのは和服姿の痩身の老人だった。やや心もとない量の白髪を丁寧に後ろに撫で付けて、同じ色の口ひげを申し訳程度に蓄えている。年季の入った指物職人を思わせる浅黒い顔の中でひときわ目立つ厳しい眼差しは、若かりし頃の彼がさぞ苛烈な人物だったことを思わせるものだった。だが、目許に深く刻み込まれた皺がほんの少し垂れ下がっているせいで、その印象も幾分は和らいでいる。

「そうですけど――?」

 そらは答えた。同時に眼鏡の蔓を手でつまんで持ち上げる。怜悧な顔立ちの彼女がやると取っつき難そうに見えるとよく注意されているが、長年の癖なのでなかなか直らない。

「漢字で? それとも、ひらがな?」

「ひらがなです。最近は漢字の子も多いみたいですけどね」

「たとえば?」

 そらは指で空中に”宙”という字を書いてみせた。他にも”蒼空”や”想良”などと書く場合もあるが、戸籍の字は基本的に何と読んでもいいので、極論を言えば”海”と書いて”そら”でも構わないことになる。

「わたしの頃は当て字は好まれなかったみたいです。普通に読めない字を当てられるよりは、ひらがなで良かったかなって思ってますけど」

「そのようですな。いや、いいお名前だ」

「いえ、そんな……」

 愛想笑いを返しながら、そらはこの老人が何故、自分の名前の字面を不思議がったのだろうと訝った。

 答えは胸元にぶら下がっている名札だ。そらがパートタイムで勤めている岡崎市立中央図書館の司書の名札は普通に漢字表記なのだが、併設の児童図書館が本来の部署である彼女の名札はひらがなで〈ひぐちそら〉と表記してあるのだ。

「どうかなさいました? お捜しの本でも?」

 そらは自分の仕事を思い出したような顔で話を変えた。老人は少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた。

「実は新聞の縮刷版を見せて戴こうと思ったんですが、捜している年のものが書架から抜けていましてね。それで、どこにあるのか伺おうと思いまして」

「それは申し訳ありません。いつのものを?」

「昭和57年の2月です」

 老人は目当ての地方紙の1年分だけがなく、他の年のものは書架にあったと言った。

「だとすると、おそらく、どなたかがまとめて持っていかれてるんでしょうね」

「なるほど、そうですか……」

 老人の表情が曇った。

「縮刷版は貸し出しをされているんですか?」

「いえ、縮刷版は館内での閲覧のみで、貸し出しはお断りしております。ですから、そのうちに戻されるとは思いますが……」

 新聞社がインターネットで過去の記事のデータベースを公開するようになってから、新聞の縮刷版を見るために図書館に足を運ぶ人間は明らかに減っている。少し離れたところにあるもう一つの市立図書館よりは調べ物のための来館者が多いはずだが、閲覧室が無人の日はそうでない日よりも明らかに多い。

 それでも、データベースでは公開されていない昔の記事に用があったり、或いはインターネットを上手く利用できない世代の利用者というのはいる。

 縮刷版の書架はカウンターの目の前だ。そらはレファレンスカウンターから見える範囲の閲覧席を見渡した。


(……やっぱりいた)


 窓際の閲覧席に週に2回ほど縮刷版を読みに来る常連がいた。しかも、この男は一度に読めもしない縮刷版を山のように積み上げるだけでなく、まともに元の位置に戻したこともないという司書課の天敵だった。


 ――1度に読まないのでしたら、その分だけでも棚に戻して戴けませんか?


 以前、課長がそう直談判したことがある、とそらは聞いている。しかし、そのときは男が注意されたことに激昂して大騒ぎになったはずだった。「俺はちゃんと税金を払っているのに、なんで県の施設を自由に使えないんだ!!」と怒鳴り散らしたのだ。

 税金を払うことと公共のルールを守らないことに何の関係があるのか、そらにはまったく理解できない。持ち前の正義感がムクムクと頭をもたげ始めていることにそらは気づいた。

「なんでしたら、持ち出されている方に返して戴くように言いましょうか?」

 その声音に含まれる憤りを感じたのか、老人は宥めるような柔らかい笑みを浮かべた。

「それには及びませんよ。仕方ない、出直すとしましょう」

 老人はそう言って踵を返そうとした。

「ちょっと待ってください!!」

 それまで座って応対していたそらがバネ仕掛けの人形のような勢いで立ち上がった。驚いた老人は激しく目を瞬かせた。

「ど、どうされましたかな?」

「あの……縮刷版でなくちゃいけないんですか?」

「……はい?」

「その、ここには書籍の縮刷版だけじゃなくて、マイクロフィルムもあるんです。通常は閉架書庫にあって、一般の閲覧は受け付けてないんですが。でも、もし――」

 そらはそこで言いよどんだ。老人の名前を知らなかったからだ。

「ご入用でしたら、出してきますけど」

「あ、いや……」老人の顔に困惑の表情が浮かんだ。「いや、やはりそれは。貴女だってお忙しいのに、ご迷惑をかけるわけには――」

「迷惑だなんて、そんな。それがわたしの仕事ですから」

「しかし……」

 言葉を探すような短い沈黙をそらは遠慮だと思った。なので、それ以上の議論を打ち切るように微笑んでカウンターから回り出た。ちょうど受付に戻ってきた同僚の尾崎さつきに後を頼むと合図を送ると、そらは恐縮する老人を伴って閉架書庫に向かった。

 そらは女性にしては長身で、並んで歩くと2人の身長差はほとんどなかった。どちらも165センチを少し越えた程度だろう。老人は鉄紺色の袴姿の上から漆黒の天鵞絨のインヴァネス・コートを羽織っている。足腰に不自由のある歩き方ではなかったが、黒檀のような素材で出来た太い杖を手にしていた。ただし、老人の杖には普通の杖にはあるT字型の握りの部分がないため、見た目はやや太目の真っ直ぐな木の棒なのだが。老人がそれを左手に収めて歩く姿を、そらはまるでタイムスリップしてきた三河のお侍さんみたいだなと思った。

 職員しか出入りしない奥まった一画にある書庫の扉を開けると、唐突に図書館の匂い――或いは古本屋の匂い――としか形容しようのない埃と黴臭さの入り混じった匂いが鼻をついた。同時に思わず身体が縮み上がるような冷気が吹き付けてくる。


(うっわ、カーディガンくらい着てくればよかった)


 そらは声に出さずに呟いた。

 市立図書館を中核施設に持つ岡崎市図書館交流プラザは真新しい建物で、館内は空調が行き届いている。だが、それは図書館や同居する市民センターなどの人が出入りするスペースとオフィスだけで、倉庫にまで暖房が入っているはずはなかった。

 だが、わざわざ着るために帰るほどのことでもない。そう意を決して、そらは閉架書庫に足を踏み入れた。

 広々としたスペースに整然と書架が並ぶ館内とは裏腹に、閉架書庫は古くから営業している古書店のように雑然としている。旧図書館からの引っ越しで持ち込まれた書籍や資料の中には「どうせ公開しないものだから」という理由でダンボールに入れっ放しで“保管”されているものまである。

「ほう、これが図書館の裏側ですか。何と言うか、想像していたとおりですな」

 老人は感心したように言った。

 そらは適当に「……ええ、蔵書の数が多いですから」とごまかしたが、子供のように興味深そうに辺りを見回す老人の仕草に恥ずかしさを押し殺すのに必死だった。倉庫がゴチャゴチャな理由は単に職員の手が回らないというだけだからだ。

 先日、行われた会議では休日に職員総出で整理をするべきだという声も上がった。勿論、公務員が半数以上を占める職場でそんな意見が通るはずもなかったが。

「ええっと、確かこっちのほうのはずなんですが――」

 そらは課長が「せめてどこに何があるかの目星くらいつけておこう」と言って作った見取り図を片手に、スチール製のキャビネットの間を歩いた。

「ああ、ありました。これですね」

 目当ての地方紙のマイクロフィルムが見つかった。

 マイクロフィルムというと非常に小さなものが想像されることが多い。だが、それはあくまでも言葉からの印象にすぎない。縮刷版でいうところの1ページを1枚のフィルムに収めるのだが、それでも単純計算で月にして1488ページ――朝刊32ページ、夕刊16ページで31日分――にも及ぶ。

 従って、そのケースはそれなりの大きさになる。そらが捜していた地方紙のフィルムも百科事典ほどの分厚さのケースに収められていた。それが棚の最上段にかなり力任せに押し込んである。

 そらは踏み台を持ってきてケースに手を掛けた。しかし、引っ張り出そうとして「あれっ?」っと素っ頓狂な声をあげる。

「どうされましたかな?」

「い、いえ。引っ掛かってるんですかね……」

 引っ掛かってるわけではなかった。無理やり押し込んであるのと、湿気のせいでケース同士が貼り付いているのだ。

 それでも何度か押したり引いたりしているうちに動くようになってきた。学生時代は陸上選手で身体は鍛えていたし、今は夫の実家の農作業を手伝いに行く関係で、そのスレンダーな体格とは裏腹にそらの腕力はそれなりのものだった。さらに前後に揺すっているうちに張り付いていたケース同士が剥がれる手ごたえを感じた。

「よっし、せーのっ――」

 そらは殊更大きな掛け声をかけた。――その刹那。

「危ないッ!!」

 老人の声がそらの耳をつんざいた。

 何が起こったか分からないまま、そらは床に薙ぎ倒されていた。それと同時にドスンという重い音が立て続けにした。

「……えっ?」

 プラスチックタイルの感触がそらの背中と尻に冷気を伝えてくる。自分が立っている状態から、今は横になって倒れていることは理解できたが、その割には床に叩きつけられたような痛みはほとんどなかった。代わりにあったのは力強い腕に抱き寄せられている感触だった。

 そらは反射的に固く瞑っていた瞼を開いた。最初に目に入ったのは自分の身体に覆い被さるインヴァネス・コートの黒い生地だった。

「大丈夫ですかな?」

 錆を含んだ声がそらの耳朶を打った。

 そらはようやく何が起こったのかを理解した。力任せにケースを動かしたせいでキャビネットが揺れて、上に乗っていた段ボールが落ちてきたのだ。この老人が身体ごとぶつかって自分を押し退けてくれなかったら、そらは頭のてっぺんでそれを受け止める羽目になっていたところだった。

 老人は身体を起こしてそらをゆっくりと抱き起こした。

「す、すいません!! あの……お怪我は?」

「私は何も。貴女は?」

 そらは自分の身体を点検した。固い床に押し倒されたので背中や尻に少しくらい打ち身があるかもしれないが、それは怪我のうちには入らないだろう。

「大丈夫みたいです。結構クッション効いてるんで」

 そらは尻をさすりながら言った。ずれた眼鏡を慌てて戻すと自然と照れ笑いが浮かぶ。

 老人はそんなそらをじっと見つめていたが、やがて、皺の間に消えてしまうほど優しく目を細めて「それはよかった」と言った。

 

 

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