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旧ナテュルグラード王国

真実の愛は海を染める

 痛いくらいに突き刺さる数多の視線。それは、むしろ好都合だと思っていたはずなのに。


「ビルギッタ侯爵令嬢、そなたとの婚約を――」


――破棄する!


 高らかに宣言するべきだった言葉は、舌の上から転がり出てこない。鈍器で殴られたような酷い頭痛がして、顔をしかめる。

 豪奢に飾り付けられた部屋は瞳孔を刺激し、本来なら食欲をそそるはずの料理の香りが鼻を苛む。視界がぶれて、思わず頭を抱えて跪いていた。獣のような呻き声が漏れた。俺の立場からすれば、あり得ない姿だろう。どよめきが耳に届いた。

 名指しされたビルギッタ侯爵令嬢の顔にも戸惑いが浮かんでいることを、片目で確認する。

 ふと隣の存在感を思い出し視線を上げれば、冷淡な瞳が俺を捉えていた。普段の愛らしさの欠片もない。恋する少女はいなかった。

 視線が交わった瞬間、一際鋭い頭痛に襲われて、俺は意識を手放していた。


「殿下!」


 目を閉じる間際、懐かしい声が聞こえた気がした。



◇◆◇◆◇



 目が覚めると、見知らぬ部屋だった。

 いや、たぶん、見知らぬ部屋だった。どうにも頭が重くて、確かな記憶だと自信を持てなかった。


「ここは……?」


 漏れた声は掠れていた。喉に微かな痛みを感じる。思わず首回りに手が触れたところで、そっとガラスのコップが差し出された。水が入っている。

 視線を上げれば生真面目な瞳を向ける男の顔。


「フィリップ?」


「私のことが分かりますか?」


 変なことを聞くな、と思いながら素直に頷いていた。

 フィリップ・アルムストレーム。伯爵家の生まれではあるが次男のため家を継ぐことはなく、俺の「ご学友」を選んだ男だ。「ご学友」は他にもたくさんいたが、学園卒業後も侍従として傍に仕えられたのはフィリップだけだ。そんなフィリップを分からないはずがないだろうに。

 受け取ったコップから水を一口飲む。


「不用心ですね。毒杯だったらどうするのですか」


「どっ!」


 ちょうど喉を通った水が気管に入って、咳き込んでしまう。決して毒だったからじゃない。断じて!


「えっと、フィリップ、だよな?」


 目の前にいるフィリップは記憶の中の姿と違わない。実は双子、ということもないはず。だけど、俺の知らない態度を見せるのは何故なのか。

 フィリップは一度小さく頷いてから、やや躊躇うように口を開いた。


「……殿下はご自身の状況をどの程度、理解されていますか?」


 俺の状況。

 言われて、改めて周囲を見渡してみる。俺の自室ではない部屋だと、今度は断定できた。普段の部屋に比べれば大分狭いだろう。けれど、物が少ないせいか、そこまで圧迫感はない。その数少ない机や本棚も華美さはなく、質素な雰囲気が漂う。

 確か……昨晩は夜会に出ていたはず。王宮で開かれる、今年のシーズン開始を告げる舞踏会で、下位貴族も含めて多くの者が参席していた。その場で俺は……っ!

 唐突に突き刺さるような痛みが頭に走った。


「ぐっ、ううぅ……」


「殿下!」


 慌てたような声が聞こえるが、返事するようなゆとりもない。そう、あの時も酷い頭痛に襲われて、俺は気を失った?


「フィリップ、俺はどれくらい眠っていたんだ?」


 痛みが治まってきたところで尋ねる。先ほどは昨晩のことだと思っていたが、今窓から差し込んでいる日差しは何日も後のものなのかもしれない。


「三日です」


 思ったよりも短い。

 けれども俺は、ランヴァルド・フォン・ハーヴェニア。このハーヴェニア王国の第一王子だ。三日ぶりに目覚めたとなれば、すぐさま侍医が呼ばれるだろう。だがフィリップは従僕を手配する様子がない。新しい水を用意してくれてはいるが……。水を断って、耳を澄ます。

 静かだ。

 王城に勤める使用人たちは、元々バタバタと忙しない音を立てることはない。しかし、それでも声や足音、息遣いといった人の気配を完全に消すことはできない。なのに、それらが一切ない。


「フィリップ、ここはどこだ?」


「離れの塔です」


 静謐な声音に、俺は失態を犯したのだと悟った。



◇◆◇◆◇



 フィリップの話を端的にまとめると、俺は蟄居された。

 舞踏会での俺の醜態は狂気を孕んだもので、精神を病んだと判断されたようだ。

 俺はどういう訳だか、婚約者であるビルギッタ・ブロムシュテット侯爵令嬢を舞踏会で糾弾し始め、そのまま婚約破棄を突き付ける様子だったが、その寸前で頭を抱えて咆哮を上げた。

 そう、どういう訳だか、だ。舞踏会があったことは覚えているのに、ところどころ靄がかかったように判然としない。舞踏会、というよりこの半年ほどの間のことだろうか? そんな昔のことではないはずなのに、上手く思い出せないことが点々とある感じだ。


 ……ビルギッタは息災だろうか。いや、婚約破棄の宣言はかろうじてしていないものの、今の俺は蟄居された身だ。確認する権利はないだろう。ぐっとこらえる。

 そもそも俺は何故ビルギッタとの婚約を破棄しようとしたのか?


 はっきりとせずもどかしい。しかし、思い出そうと努めると途端に頭痛に襲われることを繰り返したため、フィリップに止められてしまった。侍医も呼べない状況で、また倒れるわけにはいかない。まだ目覚めたばかりなのだし、自然に思い出すことを期待しよう。


「殿下、場所のご案内を致します」


「場所の……?」


「ええ、私も以前のように四六時中、傍にいられるとは限りませんので」


 主人である俺が蟄居された身では大した仕事もないだろうし、他の仕事を割り当てられているのだろうか。侍従の任を解かれた訳ではない、と思いたい。


「分かった。では、案内を頼む」


 迷惑をかけないためにも、しっかりと覚えなくては! と気合いを入れた。

 基本はベッドが置かれているこの部屋。間近に見ても質素さに変わりはないが、机も本棚もあるのだから私室としては充分とも言える。クローゼットを開ければ、服もきちんとある。大分、心許ない量だが……。公務や社交どころか、人と会うこともそうそうないのだろうし大丈夫なのだと思う。たぶん。

 廊下を挟んだ向かいの部屋は、応接室らしい。ソファとローテーブルだけの簡素なものだ。壁に飾られた物は何もなく、暖炉がやけに大きく見える。いや、まぁ、人と会うことも、ほとんどないんだろう、本当に。

 応接室の隣は書斎だった。壁一面が本棚だったが、ざっと見た所、政の類のものはないようだった。それでも暇つぶしに読書は最適だ。

 廊下の奥には風呂とトイレ、そしてダイニングに併設された厨房があった。


「ミーケルでございます」


 料理長と名乗る男が挨拶してくれた。しかし、長と付いているが、ミーケルの他には誰もいなかった。さして広くもない厨房にわらわらと人がいても手狭だろうが、一人は少なくない? え? 大丈夫? あぁ、そう、俺一人だもんね。多くを語らない孤高の戦士のような雰囲気のミーケルの瞳は、とても雄弁だった。

 厨房を出て更に奥へと進めば、小さめの部屋が三つ。使用人用の部屋らしい……?


「フィリップとミーケル以外にも誰かいるのか?」


「侍女が一人、います」


 答えたフィリップの顔は、窓から差した逆光でよく見えなかった。微笑を浮かべている、ような気はした。

 それにしても侍従がいるのに侍女までいるのか。メイドの役割も担っているのだろうか。そんな微かな疑問が浮かんだが、フィリップがさっさとノックをしてドアが開いたので頭の隅に追いやっていた。


「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。ブリッタにございます」


 見事なカーテシーを披露する彼女は、相反するように印象の薄い顔立ちだった。蟄居以前には接したことはなかったはずだ。ミーケルもそうだが、家名を名乗らないのは蟄居された者に対する対応ということだろうか。まぁ解放の手助けになるような有力家門はそもそも手を貸さないだろうから、関係ないか。

 ちらり、とブリッタの視線が動いたのを見て、黙ったままだったことに気付く。


「俺も目覚めたばかりだから気にすることはない。ランヴァルド・フォン・ハーヴェニアだ。よろしく頼む」


 ブリッタは、再び美しいカーテシーをして応えてくれた。

 しかし、俺の名乗りはこれでよかったんだろうか。蟄居はされたが廃嫡された訳ではないってことだろうか。その辺の確認も必要だな。

 そうして場所の案内は終わった。俺が自由に行き来できるのは、このフロアのみ。外に出るのはもちろん、下の階に下りることも許されていなかった。確認に二十分とかからない。気合いの無駄遣いだった。


「殿下、こちらもお渡ししておきます」


 応接室にまで戻ってくると、手のひらサイズの箱を渡される。


「何だ?」


 箱をぱかりと開けてみれば、腸詰されていないソーセージのようなものが、たくさん入っている。ふむ、ソーセージ職人にでもなれってことなのか?


「殿下もまだまだお若いですからね。劣情を催すこともおありでしょう。処理される際にはこちらにお願いします」


「え?」


「まだ現役ですよね?」


 ちらりと股間に視線を向けられる。つまり、これにアレをソレしろってことなのん?


「できるか!」


 思わず大声を出したら、何だか残念な目をされた。


「では、仕方ないですね、切りましょう」


「え、何を?」


「ナニを、です」


 ひゅん、と股間が縮こまった。


「大丈夫です。とある国では後宮で勤める役職のために切り落とすことがあると聞きますから。死にはしません」


「大丈夫じゃない! 大丈夫じゃない!」


 俺は涙目で、空っぽの腸詰の入った箱を抱きしめた。ますます残念な目を向けられたけど、気にしている場合じゃない!


「分かりました。では、出したものは、ちゃんと提出してくださいね」


「ち、ちなみに提出した後はどうなるので……?」


 侍従は無言で腸詰を一つ手に取ると、暖炉に放り投げた。


「粛清します」


 怖。うちの侍従、怖すぎるんだけど!

 まだ見ぬ未来の息子と娘に心の中で祈りを捧げた。そしてこんな仕事を任されるくらいなら、フィリップに別の仕事を斡旋すべきでは、と権力のない手のひらを見て溜め息をついた。



◇◆◇◆◇



 蟄居は罰則の一種。その認識がこの三日程の間で揺らいでいる。


 まず、俺は廃嫡されていない。第一王子としての地位が足枷になっているのだろうか。王族は国の次代、未来を繋いでいく存在だ。第二王子はまだ十歳と幼いこともあり、俺が実質王太子と目されていたせいもあるかもしれない。八歳の差というのは存外大きい。陛下はまだまだ健在とはいえ、国の統治計画は大きく変わることになる。その影響は計り知れない。

 それは国母になる可能性の高い第一王子の婚約者にも言えることなのだが、破棄を宣言する前に意識を失ったので、俺は越権寸前で踏み止まった状態。多くの貴族の前での行為なのだから、実質宣言したと見なして即廃嫡されてもおかしくないはずなのだが……。

 意識を失っていた俺は、細かい経緯を把握していないので、何とも言えない。


 次に、この離れの塔での生活が意外と快適なのだ。

 食事は三食きちんと用意されるし、トイレや風呂を使うのも自由だ。執務に就くことはできないものの、三日では到底読破できない物量の書物もある。お陰で今の所、暇を持て余すことなく健康的な日々を送っている。


 ずっと屋内にいたら息が詰まりそうではあるが、全く外に出られないわけでもなかったりする。というのも俺がいるフロアは塔の最上階。応接室の窓を開ければバルコニー、ではなく屋上庭園が広がっているのだ。離れの塔と言っても王家の建造物であることに変わりはない。敷地面積は十二分にある。

 つまり、散歩ができる。剣の類はないので鍛錬はできないけれど、走り込みするぐらいはできるかもしれない。それだけ広い。いや、走りはしないが。


「殿下、本日も散歩ですか?」


 屋上庭園に一歩踏み出すと、落ち着いた声がした。


「そうだが……」


 何か問題があるか、と問いかけて止めた。ブリッタの瞳は咎めてはいなかったから。するりと傍に寄ると、慣れた手つきで日傘を広げて俺に日陰を作る。


「では、ご一緒致しますわ」


「……ご令嬢ではないのだから、俺に日傘は不要だ」


 昨日も同じことを言ったはずなのに、学習してくれていないのだろうか。


「本日の日傘は黒色ですしレースもありませんわ。男性でも大丈夫でしょう?」


「いや、そういう話ではない」


 確かに昨日の白地に優美なレースで縁取られた日傘よりは、男性向けだろうけれども。俺は一度小さく息を吐く。


「日傘はそなたが使うと良い」


 家名こそ分からないが、王城で侍女を務めている以上、ブリッタは確実に貴族令嬢だ。顔に覚えは全くないので、下位貴族の、それも三女や四女なのかと思う。一方で所作は上位貴族に引けを取らない洗練さがあった。


「ご配慮、痛み入りますわ」


 おまけに蟄居されているとはいえ、一応まだ王族に籍を置く俺に対して臆する様子がまるでない。高位にも下位にも思えるちぐはぐさがある。

 そう言えばフィリップも俺に対して割と容赦ないよな……。ブリッタはフィリップの遠縁だったりするんだろうか。いや、フィリップの態度は幼少時から一緒に過ごした故だろう。出会った頃は、もう少し可愛げがあった気がする。俺に遠慮ない態度を取るのは、後は両親ぐらいか。弟のマティアスは兄に対する敬意めいたものを感じたしな。今はないかもしれんが。

 ビルギッタはどうだったろうか。この半年のことは、三日経ってもやはり判然としない。それ以前なら近い距離感だったはずだ。フィリップと同じくらい容赦ないところもあった気がする。

 そんな気安い関係なのに、何故婚約破棄を……?


 そうだ、彼女に会ったのだ。可憐な微笑。子爵令嬢でありながら、隣にと望んだ女性。何故忘れていたのだ。彼女は……シリアンヌ?


「うぐっ!」


 途端に脳天に剣が突き刺さった。激痛とも言える頭痛。そして、言い知れぬ恐れが、心を埋めていく。まるで忘却を責めるように。

 立ってなどいられなくて、こめかみを押さえて蹲る。


「殿下!」


 日傘が落ちるのを視界の端に捉えると、そっと背中に触れる温もりに気付いた。ゆっくりと撫でられると、頭の中を波打つように刺激していた痛みが徐々に和らいでいく。


「殿下、ゆっくりと深呼吸をなさってください」


 一度、二度と大きく息を吐くと、瞳から一滴、涙がこぼれ落ちた。それと共に心が落ち着くのを感じた。

 だけど、体は動かず、ブリッタの心配そうな瞳を映した時、世界は暗転した。



◇◆◇◆◇



 もはや見慣れた感のある質素な部屋の天井。変わらない景色に、不思議と安堵している自分がいた。


「良かった」


「いえ、良くないですよ」


 間髪入れずに否定された言葉に、視線を横に向けると、眉間に皺を寄せたフィリップがいた。


「……今回はどれくらい眠っていた?」


「ご安心ください。まだ一日も経っていないですよ」


 ちらりと窓の外を見遣れば、日も落ちていない。それでも日傘が必要な強い日差しは感じられなかった。一つ息を吐いてから上半身を起こす。ベッドの軋む音は、以前ならしなかった音だと思う。


「何か思い出そうとするたびに倒れるのは困ったな」


「ご気分はいかがですか」


「今は問題ない。頭痛もしない。ただモヤモヤした気持ちになる」


「……思い出すのは辛いですか」


 ためらいがちに問われた言葉に、すぐには頷けなかった。正直、ひどい頭痛に苛まれるのは勘弁してもらいたい。けど、思い出さないといけないと感じる自分がいる。


「分からないな」


 返事は、とても小さな声になってしまった。

 その時、控えめなノックの音が響いた。ブリッタだろうか。目の前で倒れてしまったのだ。驚かせてしまっただろう。変な気を遣っていなければ良いのだが。


「入れ」


 静かに入室したブリッタは、水差しとコップを盆に載せていた。普段と変わらない所作に見えた。そのことに安堵する一方で、わずかに気落ちしている自分に違和感を覚える。


「お水をお持ちしました」


「ああ、ありがとう」


 コップを受け取り、喉を潤せば違和感も流せたように思う。

 そうして改めてブリッタを見遣れば、紫の瞳が美しかった。珍しい色合いに、思い出が刺激されるような、けれどまた頭痛で倒れるわけにもいかずに頭を振りかぶる。


「まだお加減が?」


「いや、大事ない。時にブリッタ。そなたの瞳の色は珍しいが、どちらの家門と繋がりがあるのだろうか?」


「それは……契約違反になりますわ」


「……そうか」


 契約。王族に仕えるにあたって家門や家名を明かせないのは余程のことだ。やはり、まだ廃嫡されていないだけで、いずれは、ということだろうか。

 一つ息をついて、気持ちを整える。


「余計なことを聞いてしまったな」


 すまなかった、と謝罪はできないが気持ちはのせて告げる。まだ王族だというなら安易には謝れない。かと言って強権を使って口を割らせるようなことはしたくなかった。


「殿下は、やはりお優しいのですね」


 思わずこぼれたといった風なつぶやきは、胸の奥の柔らかい部分をつく。

 優しいというのは為政者としては、微妙な評価だろう。けれど、気分がふわりと上昇するのを感じる。


――まぁ、殿下はお優しいのね。


 あれは、いつだったか。いつの記憶だろうか。

 微笑む顔は、普段の淑女の鑑然とした薄い表層の感情ではなかった。わずかに動揺したのを覚えている。


――優しいのとは違うだろう。


――あら、仮に別に思惑があったとして、行動に移されたのは事実でしょう?


――それはそうだが……。


 運営に困窮している孤児院を、たまたま知った。その孤児院を抱える領主は叩けば埃が出る、いや、出まくる貴族の心を持たぬ者だと、たまたま知った。だから税が正しく領民に還元されるよう、是正しただけだ。王子の実績の一つに過ぎない。


――であるならば、優しいのだと自惚れてもよろしいのでは?


――いや、自惚れは駄目だろう。


 苦笑で返せば、ころころと楽しげに笑う。彼女の笑顔は眩しかった。

 彼女……?

 俺に笑いかけるのは、シリアンヌだろうか。頭痛は、しなかった。ただ靄にかかったような気持ちが残る。倒れる前にも考えた彼女は、いつから隣にいたのか? 以前はときめきを覚えていたはずの名前は、今は漠然とした不安を与える。


「殿下、いかがされましたか?」


 思案に暮れるあまり、沈黙してしまっていた。俺は何でもないと言うように笑みを浮かべた。



◇◆◇◆◇



 屋上庭園の一角が茶色くなった。

 室内にいると、つい考え事をしてしまう。だから体を動かすために、作物を育ててみることにしたのだ。


――一ヶ月やそこらで作物は育ちませんよ?


 とフィリップは渋い顔をした。どうせすぐに飽きると思われているらしい。

 それでも、結局は苗や肥料などを手配してくれた。そんなフィリップも俺と同様に、作物を育てるなんて今までしたことはない。

 しかし、目の前には屋上庭園が広がっている。そう、離れの塔と言っても放置されている訳ではない。俺が目覚めてから侍女のブリッタとは別に、清掃や洗濯をする下男はちゃんと手配されたし、もちろん庭師もいたのだ。

 蟄居って何なんだろうな。これといった不便がないよう扱われている。身支度は自分で整える必要があるものの、そもそも凝った装飾のある服を着る必要性がないから、問題がないのだ。正式に廃嫡されれば、また変わるのだろうか。

 ともかく、庭師は通ってきているので、俺は教えを請うことにした。


「畝とは、こんな感じで良いのだろうか?」


「は、はい。そんくれぇの間隔で良いかと思います」


 庭師は緊張している様子はあるものの、指示に惑いはないようだ。フィリップに庭師と農民は別物だと指摘されたが、大丈夫そうだ。


「しかし、何故じゃがいもなんです?」


 一緒に土に汚れてくれているフィリップが、首を傾げる。


「じゃがいもは民の主食だからな。まずはそこから知っていきたいのだ」


 だからこそ、庭師でも問題なく教えられるということもあるかもしれない。


「まぁ、殿下は慈善と慈愛の道を突き進んでいらっしゃるのですね」


「……ブリッタ、そなたまでする必要はないのだが」


 本来は乗馬服だろう恰好で農作業をするブリッタは、土に汚れる忌避感はないようだった。しかし貴族令嬢はもちろん、侍女の仕事でもない。


「人手が多いに越したことはないのでは? 慈愛の君」


 庭師の指導のもと、じゃがいもの種いもを植えていくフィリップは諫めるどころか受け入れている。倒れている間に貴族の価値観は変わったのだろうか?


「いや、というか慈愛の君ってなんだ」


 思わず流しそうになってしまったじゃないか。しかし、フィリップはもちろん、ブリッタもきょとんとした顔をする。


「じゃがいもの花言葉は慈善、慈愛、それから恩恵ですわ」


「それは俺も知っているが、何故俺が慈愛の君になるのだ」


「あら、殿下を知る者なら、皆同意してくださいますよ?」


 疑いもなく返されると照れるような困惑するような。瞬時に返すことができない。大体どれのことを指して慈愛だの慈悲だの言われることになるのだ。後ろ盾となる令嬢との婚約を破棄し、身分差のある令嬢と婚姻を結ぼうとしたことを揶揄している……雰囲気もないな。なんか生温かい眼差しをしている。うん、一応、まだ破棄を宣言していないしな。関係ないな。

 しかし、何故シリアンヌとの婚姻を望んだのだろう。ビルギッタという婚約者がいるにも関わらず。

 恋焦がれた記憶はあるのに、目を覚ましてからというもの気持ちがついていかない。幻か、まるで蜃気楼のようだ。

 自分の気持ちなのに掴み切れない。また漠然とした不安が押し寄せる。


「殿下?」


 ブリッタの眼差しに気遣いが浮かんでいる。沈黙が長過ぎたようだ。


「何でもない。作業を続けよう」


 視線はしばらく外れなかったが、一緒に作業をする内に不安が少し和らいだような気がした。



◇◆◇◆◇



 離れの塔と言いながらも、書籍は本当に豊富にある。政関連が増えることはないが。もともと三百年ほど前の時の王女が静養するために建てられたのが始まりだったと聞くし、その趣が強い書斎なのかもしれない。

 物語も多いが、それに関する伝説や神話の類も多い。


「セイレーンか」


 その美しい歌声と容姿で漁師を魅了し船を沈める妖精であり、航海の守護を司る精霊でもある。海を擁するハーヴェニア王国にとって、所縁のある精霊だ。緑豊かな花の国とされる隣国ブロンミニア王国と異なり、限られた穀倉地帯でやりくりしなければならないハーヴェニア王国は、漁業が国内需要においても貿易業においても命綱と言えた。故にセイレーンを女神のように信仰する者たちもいる。

 それは崇高であり、とても不安定なことだった。

 神話と歴史書を読み耽っていると、ノックの音がした。


「マティアス殿下が明日いらっしゃいます」


 入室の許可をして開口一番、ブリッタが告げた名前に虚をつかれる。


「マティアスが?」


「はい、昼餐を共にすることを希望されています」


「それは、良いのか?」


 蟄居されている身なのに。言外の気持ちを汲み取ったブリッタは、それでも大きく頷いた。


「はい。昼餐を御受けしてよろしいですか」


「ああ、構わない」


 肯定されるのであれば父上、陛下の許可はすでに得ているのだろうし。せっかく会えるのなら昼餐を共にするのも良いだろう。


「ただミーケル一人で用意は間に合うだろうか」


「大丈夫かと」


 王宮で腕を振るっていた頃に比べれば作る料理も減っただろうし、平気か。食材にゆとりがあるなら、今から料理のリクエストをしても間に合うかな。俺はウキウキした気分になって、ミーケルに話をつけに行った。

 ……何だかすごく微笑ましい瞳を向けられた。相変わらず口数は少なかったけど。


「服は……まぁ普段着でも良いか」


 壁際に控えるブリッタが一瞬残念そうな顔をした気がする。もしかして着飾りたかった? いや、でも蟄居されている身で豪奢な出で立ちも違うと思うし。何より装飾品の類は、必要最低限にも足りないくらいしかないのだ。無理をしても仕方ない。

 しかし、マティアスは落ちぶれたように感じるだろうか。がっかりさせてしまうだろうか。

 ちらりと自身の出で立ちに目を落とす。

 あ、セイレーンの話が載った本を手に持ったままだった。そんな無頓着さも許されるような服装だが、マティアスなら笑ってくれるはずだ、と思おう。

 ただシリアンヌならば目を背けるだろうな、不意に確信が過った。頭痛を覚える暇もなく。何故か腑に落ちてしまった。

 ふとブリッタの瞳が俺の手元を見遣っていることに気付く。


「どうかしたか?」


 せめて宝石のついたカフリンクスだけでもつけたいのだろうか?

 しかし、紫の瞳は伏せられ、明確な言葉を伝えられることはなかった。



◇◆◇◆◇



「マティアス殿下、とアグネス・ヴァーデンフェ公爵令嬢がいらっしゃいました」


 翌日、フィリップから掛けられた言葉に、一度瞬きを返してしまう。


「アグネス?」


 ヴァーデンフェ公爵家は、父上の姉君が嫁いだ家だ。アグネスはその娘であり、俺の従姉妹でもあるので当然面識はあるし、何だったら同い年の気安さで軽口も叩き合う仲だ。だが、何故前触れもなくマティアスと一緒に?


「昼餐のご用意はできています」


「……そうか」


 敢えて伏せられていたのか。気安すぎて邪見に扱うこともあるせいか。


「もっと嬉しそうな顔をしてもよろしくってよ?」


 挨拶もそこそこに、そんなことを宣う令嬢を邪見にする気持ちも理解してほしい。きつく巻かれた銀髪は、何だかとても威圧感がある。


「離れの塔までよく参ったな。楽にせよ」


「何だか適当ではなくて?」


「気のせいだ」


 何やら言いたげだが、俺の視線はすぐ隣で畏まるマティアスへと移る。


「マティアス、息災であったか」


「はい。兄様もお変わりないでしょうか」


 にこにこの笑顔。言葉以上に表情が雄弁だ。王族としては憂慮すべきところかもしれない。けれども、まだ十歳だ。甘やかすことがあったって良いはずだ。


「そうだな。以前よりも健康なくらいかもしれないな」


 蟄居されるまでの半年の記憶は、依然判然としない部分がある。だが、どうにも常に疲れていたような、不安に駆られていたような、そんな焦燥感に苛まれていた気がする。

 それに比べれば朝に農業、昼に読書、夕に農業、合間に散歩と走り込みと随分と規則正しく健康的な日々を送っている。ちょっと肌艶も良くなったような?


「良かったです。もう大丈夫なのですね」


 安堵の息をこぼすマティアスの瞳は少し潤んでいる。思いの外、心配をかけていたらしい。これでは兄として面目が立たない。何も持たない身だが、せめて精一杯歓待することにしよう。


「マティアス、今日は料理長が腕によりをかけた料理を用意してくれている。楽しんでくれると嬉しい」


「はい、兄様」


「あ、アグネスもな」


「ついで感をもう少し隠しなさいよ……」


 愚痴をこぼしつつも、アグネスはマティアスにエスコートされてついてくる。十歳にしてきちんと紳士だ。素晴らしい。頭を撫でてあげたくなったが、ここは我慢だ。八歳も離れているせいか、どうにも可愛がってしまうな。


「今回はスモーガスボードだ。何分、この離れの塔には晩餐室がないのでな」


 厨房に併設されているダイニングしかないのだ。更に侍従と侍女は一人ずつしかいないし、料理の配膳に適したメイドもいない。何故なら普段は俺一人だから。

 苦肉の策でもあるのだけど、温冷様々な各種料理が並ぶテーブルを囲んで食べるスモーガスボードの形式は、家族団らんの雰囲気があって、今日の昼餐に合っているとも思う。


「マティアスの分は俺が取り分けようか?」


「いえ! 自分でできます!」


「そうか? まずはグラブラックスはどうだ?」


 ミーケルは普段から保存食としてサーモンの塩漬けを常備しているらしく、いつでも良い塩梅にグラブラックスを提供してくれる。何よりマティアスの好物である。ついつい多めに取り分けそうになって悩んでいる姿が可愛い。


「ここは俺たちしかいないのだ。マナーは脇に置いて好きに食べると良い」


 満面の弟の笑顔プライスレス。後で母上から苦情が来るかもしれないが、今は気にしないでおこう。

 それからも料理を取り分けていく。皿を運ぶ足腰も安定するくらいに成長していて、少し驚く。席に座れば、美味しそうに食べてくれている。じゃがいもを使ったハッセルバックポテトやクロップカーカも口に合うようだ。手配した甲斐があるというものだ。いつか俺の育てたじゃがいもも食卓に並べたいが、その頃、まだ王城内に居られるのだろうか。


「兄様? どうかしましたか?」


 眺めすぎたらしい。眺めつつきちんと食事もこなしていたが。


「いや、子の成長とは早いものだな、と。背丈も随分と伸びたのではないか」


「兄様は父様ではないですよ?」


 困惑させてしまった。実際、身長は伸びたと思うのだ。蟄居されてからも、その半年前からも。今更に気付いた、その違和感。

 半年前、俺は何をしたのか?


「そうだ、デザートにはプリンセストルタもあるのだぞ? どうだ?」


「本当ですか! でも最後の楽しみにします!」


 誤魔化すように告げた言葉にも、嬉しそうな笑顔。今日はマティアスの好物ばかり用意してあるから当然だろう。まぁ、この離れの塔に静養をしていたという王女のために考案されたのが始まりという経緯を考えると、ここで提供するのは皮肉だろうか。しかし、この緑のスポンジケーキは美味しく俺も好物だったりする。だから仕方ない。


 ……ビルギッタの好物でもあった。

 視線が壁際に控えるブリッタの方へ向いてしまう。その先ではアグネスが、ブリッタと意味深なアイコンタクトをしている。何をしているのだ。仮にも一応まだ王族の昼餐の場で。

 問いかけようとして、でも言葉にはならなかった。ブリッタの瞳は柔らかく、淑女の仮面を取った眼差しに似ていたから。



◇◆◇◆◇



 ブリッタは何者なのか。

 家門を明かさない侍女。本来なら不審者として排除されるようなことだ。蟄居された身と考えても。けれど、今にして思えば不思議なくらいに受け入れてしまっていた。

 その姿勢に。その瞳に。俺は誰を重ねていたのか。

 いや、しかし、顔の造作まるで別人ではないか。あり得ないことだ。そう納得しようとするのに、じわりと違和感が忍び寄ってくる。


「殿下? いかがされました?」


 たとえば彼女が今のように農作業をすることなどなかったはずだ。だのに、その気遣う表情は確かに彼女に重なるのだ。何故だ?


「……ブリッタはここに来る以前は何をしていたのだ?」


「貴族令嬢として教養と社交を積むために学園に通っておりましたわ」


 何でもないことのように語るのは、侍女の多くがそうだからだろう。具体的な過去には触れていない。農作業の片手間の会話ということもある。王族に対する対応としては不敬かもしれないが、ここでの生活を思えば普段通りとも言える。


「フィリップとも顔見知りだったのか?」


「まぁ、そうですね、お会いすることもありました」


「では、俺とは?」


 ブリッタの手が止まる。指先から土の塊が一つ落ちた。


「突然、どうされたのです?」


 困惑は素なのか演技なのか。彼女であるのならば、教育の範囲内だろう。


「そなたを見ていると、その、違和感があるのだ」


「何か御不快な思いをさせてしまいましたでしょうか」


「違う」


 違うのに。いざ、言葉にしようとすると何故か口にできない。ぐっと喉元で押し留まってしまう。こんなにも鼓動は熱く脈打っているというのに。

 俺とブリッタの視線が絡み合う。その紫の瞳に、俺は。


――半年前、何を、誓ったのか。


 想いが言葉になる前に、慌ただしい足音が耳についた。途端に緊張感から放たれるように俺たちはそろって息をついていた。

 けれども、すぐに新たな緊張が生まれた。


「シリアンヌ様がいらっしゃいました」


 前触れなく。先触れもなく。唐突に告げられたフィリップの言葉に、俺は動けなくなる。それは愛しい者に会える感激ではなかった。

 先に動き出したのはブリッタだった。


「お召し替えの手配をして参ります」


 対して曖昧に頷くだけで精一杯で。こめかみの奥を刺激しだす頭痛を逸らすように、ぐっと抑えてから俺も立ち上がった。



◇◆◇◆◇



 着替えを済まして応接室に向かえば、鼻をくすぐるような蠱惑の気配がした。途端に足が鈍く重くなる。


「まぁ、ランヴァルド様、お会いしたかったのよ」


 可憐で華奢なのに妖艶。シリアンヌは鈴を転がしたような声で、俺の耳朶をかき乱すようだった。


「……よく離れの塔に入れたな」


「私、ランヴァルド様のことを、とても心配しましたのよ」


 噛み合わない返答。なのに、声が、何も問題ないと告げてくる。

 第二王子であるマティアスでさえ陛下の許可がいる場所。そこへ、ただの貴族令嬢でしかないシリアンヌが先触れもなく当たり前にいることに、強烈な違和感を覚えるべきなのに。当然なのだと感じる自分がいた。

 だが、確認しないわけにはいかなかった。重く鈍く波のように刺激してくる頭痛を振り払うように口を開いた。


「シリアンヌ、どうやってここに?」


「まぁ、ひどいわ。私、ランヴァルド様にお会いしたくて必死だったのよ?」


「俺に?」


「ええ、とっても、とっても、会いたかったの!」


 愛らしいと思うには蠱惑が過ぎた。


「貴様は何者だ」


「ひどいわ! 貴方の愛しのシリアンヌよ?」


 言葉は呪いのように頭を刺激し、俺は膝に力が入らなくなり蹲ってしまう。


「殿下!」


 ブリッタが駆け寄ろうとするのが見えた。

 そうだ。この部屋は俺とシリアンヌだけではない。だのに誰も彼も動けなかった?


「不調法よ、侍女ごときが」


 唯一動いたブリッタの手も俺に届くことはなく、シリアンヌが広げた扇に遮られた。だが、瞬間、俺の足は惑うこともなく動き出していた。


「侍女ごとき、ではない!」


 守るようにブリッタを抱え込む。え、と驚きの声が耳に届いたが、今は許してほしい。シリアンヌは、危険だ。


「私、哀しいわ。こんなにもランヴァルド様のことを想っているのに。ねぇ、貴方も悲しいでしょう?」


 警戒する俺との距離を瞬く間に詰め、憐憫の表情を向けるその瞳は、慈悲とは程遠く、頬に触れた右手はとても冷たかった。あぁ、俺はこの右手を知っている。


「シリアンヌ」


 右手を握りこめば、俺の体温が伝わるように、シリアンヌに笑みが広がる。とても、獰猛な、笑みが。


「貴様は何者だ」


 頭痛をこらえて発した言葉は、途端に笑みを奪った。しかし、次にはいっそおかしいと言わんばかりに口角を吊り上げる。


シリアンヌ(Siren-nu)ですわ」


 途端に、世界は真っ暗になった。


――信じていますわ。


 優しい声音を耳に残して。



◇◆◇◆◇



 波が寄せては返す音。

 ハーヴェニア王国に生まれた者であれば慣れ親しんだ音。子守歌のように優しく包み込む音。

 そして共鳴し合うように美しく響く歌声。

 俺はゆっくりとまぶたを開いた。絶好の航海日和だと思える青空。穏やかな風が頬に触れる。身体を起こせば、砂がこぼれ落ちていく。

 いつの間に砂浜に来たのだろう?

 しかし、知っている。覚えている。思い出したのだ。


――では、王位継承のためには、そなたと賭けをせよ、と?


 半年前、海岸の洞窟の奥にある祭壇をビルギッタと共に訪れていた。国王陛下と王妃殿下に見守られながら。神殿というには小さいが、確かに祀られるべき神聖さがある場所だった。

 神職の者はおらず、王族と準王族、そしてセイレーンがいた。


――そうよ。私は美しい魂が大好物なの。大切なものを守るために行動する清廉な心を持った魂がね。


 少女のような純真な瞳と美しい(かんばせ)。しかし、その背には猛禽類を想起させるような翼があり、貴族令嬢のようなドレスが、いっそ滑稽に見える。


――でも、困ったことに、美しい魂は大切に守りたいとも思ってしまうのよ。


 セイレーンの長い爪が、俺の心臓の辺りを指差す。


――あなたの魂、とても、美味しそう。


 獲物を狙うような目に鳥肌が立つ。でも唾を飲み込み、挑むように睨みつける。


――その瞳も抉り出したくなっちゃう。けど、いいわ。清廉であり続けるのなら、引き続き守りましょう、この海を、この国を、貴方ごと。


 歌うような声が、耳に響きだす。鼓膜を反響し、視界が揺れ、頭を刺激する。


――でも、心が醜くなるのなら、穢れる前に食べてあげるわ。そんな魂、王にふさわしくないもの、ね? 貴方は私の声を受け入れるかしら? 抗うかしら?


 くるりくるりと踊るように回り、再び長い爪が俺を捉える。


――どちらかしら?


 誘惑するような指先。歌声が俺の魂を縛ろうとする。

 けれど、俺は知っている。半年間、抗い続けた心が誰を求め続けていたのかを。

 誓ったのだ。そなたの手を必ず再び取る、と。


「セイレーンよ。俺の魂をそなたにくれてやることはできない」


 俺は隣に並び立つビルギッタの手を握りしめた。

 途端に蠱惑の香りは霧散し、波がひくように、目が覚めるよう、カーテンを開けるように世界が広がっていく。そこは、もはや見慣れた離れの塔の天井で。

 視線の先には瞳に涙をためたブリッタがいる。

 印象の薄い顔立ちではない。ビルギッタ・プロムシュテット侯爵令嬢、その人だ。俺は愛情を込めて、彼女の愛称を囁く。


「ブリッタ、待たせてすまない」


 言葉とともに、握りしめたままだった手を引き寄せるように抱きしめた。ベッドの軋む音にまぎれてブリッタの声が耳を撫でる。


「随分なお寝坊さんですね」


 心配を多分に染み込ませた声に、申し訳なさとともに嬉しさも込み上げてしまう。そのままに口づけ、となった所で視線を感じた。

 横を向けば、当然いるよな、フィリップが。婚約者とはいえ令嬢と二人きりにする訳がない。ものすごい笑顔だ。

 その隣には、ニヤニヤしているセイレーンことシリアンヌがいる。


「そのままブチュっとしてもいいわよ?」


 途端に俺はブリッタに突き飛ばされていた。ひどい。ベッドに倒れこんだだけなので、痛くはないが。視線を向ければ赤い耳がある。くすり、と笑みが落ちてしまう。


「あーあ、つまんないの!」


 そんな俺たちを見てシリアンヌがドレスを翻すように、近くのソファに勢いよく座る。とてもお上品とは言えず、外見に見合わず随分と幼く見えてしまう。解けた今となっては、恋情を抱く相手ではないと断言できる。セイレーンの魅了の力とは、恐ろしいものだと実感する。


「あともう一息で美味しい魂を食べられたのになー」


 何か明るく怖いことを言ってくれる。

 無事に賭けに勝てたものの、半年もの時間が過ぎていることを考えれば、思う所もある。そばで思案してしまえば、ブリッタはすぐに気付いてしまう。


「どうされましたの?」


「いや、賭けには勝ったものの、この半年の体たらくを思うとな」


 果たして王位に相応しいと言えるのかどうか。ハーヴェニア王国を守護するセイレーンの魅了に打ち勝つ魂の清廉さがあるかどうか、その結果としては微妙ではないだろうか。父上も王位に就いている以上、同じ賭けをしたはずだ。どう思われているのか。


「大丈夫だと思いますわ。陛下はこの賭けを終えるのに一年近くかかったそうですし。王妃殿下から婚約解消を持ちかけたこともあったそうですわ」


 慰めるためなのか、父上のすごい黒歴史を暴露されている気がする。


「どこからその話を?」


「王妃殿下からですわ」


 何故その話題になったのか。その経緯をあえて確認してはいけないだろう。いつか、母上のように笑い話にできるようにブリッタを大切にしなくてはいけない。


「それにねー、今回はすっごく美味しそうな魂だったから、私も頑張っちゃったからね。優秀だよ、優秀」


 シリアンヌまでとんでもないことを言い出しているが、あまり慰められている気がしない。


「まぁ、どういうことですの、シリアンヌ様」


 ブリッタの綺麗な眉が憂いに垂れる。


「いやぁ、それね、三百年前の魂と近かったから、恋しくなっちゃってね。あの手この手をね、ちょちょいと」


「ほう、あの手この手とは?」


 何だろう、話すほどに精霊として、守護者として敬う気持ちが消えていく気がする。


「恋人気取りで心操ろうとしたのはやり過ぎだったよねー、婚約破棄騒動になったら王位継げても意味ないじゃんって言われちゃったよ。でもね、だからって塔に匿ったりするのは違反だと思うの! で、ビルギッタの顔認識させなくしたんだけどさー、まぁ、徒労だったよねー」


「もしかして、わたくしの本名を告げても問題ありませんでしたの?」


 ブリッタの指摘に、あはは、と笑って誤魔化している。全く誤魔化せていないぞ。


「本来の賭けって、どんな内容だったんだ?」


 今、言われた内容を削ると、何もない気がするんだが。


「どんなって、私の歌声を跳ね返せるかどうか……おっと、そろそろお暇するね!」


 シリアンヌは下手なウィンクをするとソファから勢いよく立ち上がる。


「じゃあね! 賭けは貴方の勝ちってことで、おめでとー!」


 問い詰めるよりも早く翼をはためかせ、窓から飛び立ってしまった。

 幼い子供ではなく、ちゃんと精霊だと見せつけたかったのか。いや、何も考えていないかもしれない。きっと、海上ではとても気高いのだ、たぶん。

 しかし、賭けの内容が魅了耐性だけだったとは。父上の名誉のためにも深く考えないことにした。

 俺とブリッタは、どちらからともなく見つめ合い、笑みをこぼした。


「王宮への報告は、本日参りますか?」


 そばに黙して控えていたフィリップの提案に、俺は一瞬思案する。


「そうだな、うん、報告は早い方が良いだろう」


 何せ王位継承に関わることなのだ。後回しにすることはできない。ブリッタと手のひらを重ねた。



◇◆◇◆◇



 離れの塔から王宮への帰還。

 城内が騒然するかと思いきや、そんなことはなく、むしろ今までにないくらいに静謐に、敬意をもって迎えられた。廊下を歩けば、使用人も貴族も分け隔てなく跪く。王子としてもなかなかない光景だ。第一王子ではない。王太子として、次期王位継承者として迎えられている。

 重圧が、期待なのだと実感する。

 謁見の間は、当然のように陛下と王妃殿下が着座していた。プロムシュテット侯爵家をはじめとした高位貴族たちも控えている。離れの塔で、登城できる恰好に着替える間に、よく招集に応えられたものだと感心する。


「ランヴァルドよ、よくぞ精霊の儀を終えたな。大儀であった」


「はっ。無事にセイレーン、シリアンヌに認められたことを、ここに報告致します」


 真面目に返事したものの、セイレーンとの会話を思い返すと、何とも言えない気持ちになった。

 うん、報告は日を置いた方が良かったかもしれない。

 王の権威を守るためという訳ではないが、王太子指名を拍手を持って承認された後は、謁見の間は早々に解散となった。


 もちろん、それだけで全て終わるわけではない。俺とブリッタ、それから何故かフィリップも連れて、陛下の応接室へと案内される。

 室内にはプロムシュテット侯爵夫妻に加えて、マティアスとアグネスもいた。今回の精霊の儀に関わった者たちということだろうか。


「ランヴァルド、改めて大儀であった」


「はい、父上も」


「我も?」


 おっと、セイレーンの言葉は魅了抜きにして力があるのかもしれない。


「いえ、精霊は、シリアンヌはなかなか良い性格をしているようですね」


「そうだな」


 父上には充分伝わったようで、苦笑いだ。母上の笑顔は瞳が笑っていない気がする。隣を見遣れば、ブリッタはまだ笑みを見せてくれているが……。この笑顔から温度が抜け落ちないようにしていくことが大切なのだと肝に銘じる。

 応接室での会話は謁見の間ではできなかった、細かい婚儀への話し合いが中心となった。


「今回、セイレーンは随分と殿下に執着しておいででしたが、大丈夫なのでしょうか」


 大枠がまとまったところで、プロムシュテット侯爵が、懸念の声を上げる。

 大勢の前で婚約破棄を宣言しかけたのだ。貴族としてはともかく、やはり父親としては一言申したくなる気持ちも分からないではない。


「はい、私心の想いはビルギッタ嬢のみに、そして無私の心は国のためにのみあります」


 まっすぐに見据える。そんな俺の手にブリッタの手のひらが触れる。ぬくもりが優しい。

 侯爵夫人の瞳が柔らかく和む。しかし、侯爵本人の顔から深い皺がなかなか取れない。父親としての想いが深い故だろう。義父に対しては温かな気持ちになるが、義息子の立場に立てば、何とか笑顔で受け入れて頂きたい。

 どうしたものか、と悩んだところで、壁際に控えていたフィリップがそっと発言の許可を求める。


「どうした、フィリップよ」


 父上も慣れたもので、気軽に発言を許可する。一礼したフィリップは生真面目な声を出す。


「侯爵閣下の懸念も御尤もかと愚考致します。しかし、殿下は清廉かつ一途な方。ビルギッタ様の他に心預ける方がいないことは、離れの塔において暖炉番を遂行した私が、命を賭して保証致します」


「フィリップ……」


 深く頭を下げるフィリップの忠臣に胸が熱くなる。が、変な単語がなかったか?


「暖炉番?」


 思わず呟いた言葉に、父上が豪快な笑い声を上げる。え? つまり?


「侯爵よ、安心めされよ。我が息子は清廉なだけでなく純粋なようだ」


 えぇと、バレてます?

 離れの塔には料理長や通いの庭師や下男はいてもメイドはいなかった。女性はブリッタだけだった。


「ええ、加えてとても健康な男性であることも申し上げます」


 もう黙れ! フィリップ! きょとんとしているマティアスが救いか?

 俺は反論することもできず、俯いて生温かい視線を避けるしかなかった。頬も耳も熱い。


「わたくしは嬉しいですわ」


 照れる声音で囁かれた言葉に、俺はもう顔を上げることはできなくなった。



◇◆◇◆◇



 国の繁栄において、世界の根源を司る精霊の力の存在は絶大だ。

 王位を継いでからは、その想いもますます確固たるものとなっていく。


――あの子も喜んでくれているかしらね。


 ある時、シリアンヌが普段にない穏やかな、それでいて寂しい声音で呟いた。国が繁栄するのはあの子の願いだったから、と。

 精霊は本来、自由気ままな存在。一つの一族に関わり続けることなど、そうそうあることではない。シリアンヌは病弱であるが故に本懐を果たせそうにない彼女の願いを叶えるため、魂を喰らい命の盟約をしたのだ、と。

 だから、プリンセストルタを彼女たちのために用意するようにした。

 それももう十何年も前のことだ。


「今回の精霊の儀は大丈夫かしら」


 執務室に来てまで心配そうな声をこぼすブリッタも、もう充分に王妃としての風格がある。

 シリアンヌはあれこれ言っても盟約を破棄することはないだろう、と理解している。それでも、だからこそ、国と愛する人を守る覚悟を試す儀なのだ。


「大丈夫さ。もう十八歳。子の気持ちを俺たちが信じなくてどうする」


「そうですわね」


 頷いたのに、少し思案する。そして、イタズラな笑みを覗かせる。


「でも、侍女服も用意しておこうかしら」


「……公爵令嬢の意志を確認してからな」


「割と乗り気になってくれるかもしれませんわ」


 それは自身の経験からか? まぁ、確かに苦にしている様子はなかった。あの時は薄い表情で見えなかった感情。その答えをもらった気がした。彼女の献身は深い愛情故か。


「俺の最愛はブリッタ、ただ一人だけのために」


 誓いは今も昔も変わらない。

 そっと指先に唇を落とせば、一瞬驚いて、でも柔らかな笑みを返してくれる。変わらず俺の胸を焦がす優しい笑顔。

 真実の愛は永遠だ。


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