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07.1945年(春和元年)8月 上海②

 月もなく、風もない。


 灯火管制された午後十時の上海の街は暗く、そこに蠢く住人も皆、息を潜める。


 時折鳴る空襲警報のサイレンが不気味に響く。


 生ぬるい空気が全身に纏わりつく。


 纏わりつく闇の中、マコトは左手で睦子(ちかこ)の右手を握る。

 

絶対に(Never )離さないで(let go of )ください(my hand)

 

 英語で話しかける。


 イエス、と硬い声音で短く返ってくる。


 右手にはトランク、左手には睦子、両手が塞がってしまったが仕方がない。


 攻撃に一瞬反応が遅れるだろうが、こうするしかなかった。


 三日ぶりに外に出た睦子は、足が竦んでいる。


 手を引いてやらないと、こちらが先に行ってしまいかねない。


「先に話した通り、上海海軍特別陸戦隊と出くわさないように最短経路ではなく、少し遠回りをして虹口の川港へ向かいます」

「わかったわ」


 小さく手短に睦子は応える。


 彼らは今、血眼で睦子を探している。


 だが、面子を守ることが優先で、市中警備の憲兵隊やその影響下にある中国人警察組織である上海市特別市政府警察との連携は出来ていない。


 だから、検問所でもマコトが軍に協力する商人を装って取得した軍用通行証を見せれば、何の警戒もせず、通してもらえる。


 そして、連れの女が、誰も女帝だとは気づかない。


 気づかない━━が、妙にジロジロと見られている。


 ━━派手だけど、『花街の女』ならこれぐらいで普通のはずが。


 長い睫毛が影を作る目元が、憂いを帯びていて、得も言えぬ色気を醸し出していた。


 つまり、変装が『出来すぎ』ていた。

 その上━━。

 

「憲兵に流し目を送るの、やめてください」

「あら、『らしい』かと思ったのだけど?」

「やりすぎです。悪ふざけはやめてください。印象に残ってしまうので、なるべく下を向いていてください」 


 本人が、存外『役』に乗り気なのが逆効果になっていた。


 ━━勘弁してくれよ。


 マコトは小さく、ため息を吐く。


 なるべく憲兵などにも出くわさないように、サーチライトや懐中電灯の明かりをさけて、右へ左へと角を曲がる。

 

「次、曲がるぞ」

「ええ」


 睦子はもうどちらを向いて歩いているか、わかっていないだろう。


「女帝はまだ見つからないのか!」


 少し先から大宮寺に似た、怒鳴り声が聞こえた。

 睦子が一瞬、怯えるように震えた。

 

「大丈夫よ」


 自分に言い聞かせるように呟く彼女の手を、マコトは、そっと握り直した。

 

「こっちへ」


 マコトは小声で囁く。

 見つかるわけにはいかない。

 細い路地へ入る。


「こちらから、抜けられる」


 この路地は、本来の目的に向かう道へ繋がっているはずだった。

 だが、マコトも、方向感覚をやや狂わされているのか、バラック街に入ったあたりで、行き止まりに突き当たった。

 否、方向感覚は合っているが、知らない間に新しいバラックが出来ていたのだろう。


「戻ろ……」


 戻ろうと言おうとしたところで、背後から軍靴の足音がした。

 二人、いや三人分の足音。

 懐中電灯の明かりが見えた。

 身を隠す場所はない。

 憲兵隊や上海警察ならいいが、大宮寺や上海海軍特別陸戦隊なら、万事休すだ。


 ━━少々騒ぎになってもバラックを蹴破り、突っ切って逃げるか?


 それとも、射殺して正面突破か。


 マコトは拳銃を取り出すために、右手のトランクから手を離し地面に捨てる。


「マコト」


 睦子が震えた声で呼ぶ。


 帝の眼前での流血沙汰は、本来は避けるべきで、御法度だとは認識している。

 血や死は、穢れにあたり、帝は常に清浄であらねばならないという慣習から避けるべきものとされている。

 血の穢れは月のものがある女帝だから無視しても支障ないが、死の穢れはいかがなものか?

 それを一応懸念したから、上海萬陽ホテル脱出時も目眩ましと威嚇で、『直接』人間を撃たなかった。

 

 いや、それ以前に人として『人が撃たれる』場面を見るのは……あまり気分の良いものではない。


 そんなことを考えて、脇に吊った拳銃に手を伸ばすのが僅かに遅れた隙に、睦子の手が、マコトの左手からするりと抜ける。


「手を離さないでと……」

「黙って」


 英語ではなく帝国の言葉の『黙って』。

 それは、ゾッとするような凄みと艶のある声音だった。

 睦子はマコトの肩に腕を絡める。


「おい! そこで何をしている!」


 懐中電灯を向けてくるのは、上海海軍特別陸戦隊だ。

 大宮寺はいなかったが、上海萬陽ホテルで見た兵士がいた。

 マコトは慌てて顔を伏せ、拳銃を取り出そうとしたが、睦子が抱きついているから動けない。


 だが━━。


「邪魔しないでくれる? 今いいところなの」


 吐息混じりの甘ったるい声とともに、切り揃えられた黒髪の隙間で、紅を引いた唇が歪む。


 絡まる手は艶めかしく肩を撫でる。 


 妖艶な雰囲気に呑まれて、肌が粟立つ。


 兵士たちも、美しく妖しい女を惚けるような目で見る。


 そして、そのうちの、上海萬陽ホテルに出入りしていた一人が、我に返って言った。


「背格好は似ているが、違う」


 この女が、上海萬陽ホテルにいた、世間知らずの女帝には見えないのだろう。

 あの気位の高い小娘が、こんな、ふしだらな女であるはずがない。

 女帝としての彼女の先入観があればあるほど。

 纏う空気が。

 声が。

 表情が。

 普段の彼女とは懸け離れていて、まるで別人に見える。


「ねえ、まだ何か?」


 気怠げで甘ったるいのに、どこか冷ややかな声に、他の兵士たちも我に返る。

 

「そ、そういうことは、家の中でやれ! 空襲警報発令中だ!」


 少し慌てたようにそれだけ言い捨て、顔を赤くした彼らは去っていく。

 

 彼らの目的は、帝と同行しているソ連外交官をなるべく早く始末することだ。

 だからきっと、他に構ってる暇がない。

 女帝に『見えないもの』をこれ以上追求しても仕方がない。

 足音が遠のいていく。

 安堵と苦いものが綯い交ぜになったため息を、マコトは吐いた。


 そのとき━━。


「よかったわ、行ったみたい……」


 いつもの涼やかな声で睦子が言う。


 長い睫毛を上げて澄んだ黒曜石の瞳がマコトを見上げる。

 瞳はマコトの姿をそのまま映す。

 何もかもを見透かすような、いつもの女帝の目をしている。


 マコトは睦子の、そのあまりにもの落差に、思わず寒気がして、震え上がりそうになった。


 瞬間、マコトは睦子を両手で引き剥がした。


 地面に落ちたトランクを拾う。


「……あなたは(Are you )馬鹿ですか(stupid)?」


 マコトは英語で吐き捨てるように言って、睦子の腕を掴み、歩く。


「空襲警報のサイレンが鳴っているから、少しぐらいの銃声は掻き消される。射殺しても問題なかった」


 死の穢れなんて迷信的な慣習や、人殺しを目の当たりにしてしまう衝撃なんて、身の安全と天秤にかけたら、どちらが重いかなんて明白なのに。

 一瞬、躊躇したことをマコトは後悔した。


「案外、別人みたいな声って出せるのね。撃つなら、私が失敗した後で良かったと思うわ」


 睦子は、悪びれず、飄々としている。

 危険にさらした自分にも、無茶をする睦子にも、反吐が出る、とマコトは苛立つ。


「見逃してもらえたから良かったが、ああいうことは二度とするな」


 戦場では殺される前に殺さないと、死ぬのに。


 苛立ちながら、足早に歩く。


「ちょっと、腕、痛いわ、もう少しゆっくり歩いて」

「あんな仕草、高貴なあんたがどこで覚えてきたんだよ、まったく」

待って(Wait)痛い(hurt)


 睦子が英語で痛いと言ったが、マコトは立ち止まらず、少しだけ速度を落とし、そのまま進む。

 小型船の持ち主との待ち合わせ場所はすぐそこだ。


 早く逃げなくては。


 立ち止まってる時間はない。


 ━━さっきのあれは、一体、何だ?


 手を引き、可能な限り急いで別の路地を抜けながら、マコトは先程の睦子の様子を反芻する。


 一瞬で毒婦と女帝が入れ替わった。


 あれは、並の芸当ではない。

 日頃から演じることに慣れている人間のやることだ。

 睦子は、おそらく相手や自分の立場に合わせて日常的に『演技』をしている。

 相手に合わせて『自分の魅せ方』を瞬時に変えられる。

 完璧ではないが、それが出来る。


 ━━だとすると、この三日間、俺を揶揄(からか)って、遊んでいただけじゃない。

 

 感情を揺さぶって、心の内側に入り込もうとしていた、かもしれない。


 揶揄と皮肉の応酬、そのときに本音が滲んでしまっている。

 いつもは取り繕っている感情が、そのまま出ている。

 少しずつ、心を許しそうになっている。


 睦子の『演技』のどこまで意識的でどこから無意識か、わからない。


 皇女、そして女帝として生きるために、身につけたであろう『演技』 


 その上、この高貴さと色香が不均衡で印象がころころ変わる美貌。


 この女帝は、人を(たぶら)かす才能に恵まれすぎている。


 この才能を、彼女がこの先、生存戦略的に武器にすれば、どれだけ厄介なことになるか、少し考えただけで頭が痛い。


 ━━毒婦なんて生易しいモノで終われない。


 国を傾けかねない。


 すでに敗戦間近で国が傾いているのに、頭が痛いことこの上ない。


 ━━この女帝は危うい。


 マコト個人としては帝国が傾こうが、実はあまり愛国心がないので、気にしないが、出来ればその前に経費は全て精算したい。

 実は今回の任務、情報料の二〇ポンド以外にも私費から立て替えが、かなり多い。

 精算できないのは、キツイ、心の底から切実にマコトは思った。



   *



 小型船の主の中国人の指示に従い二人は木箱に入った。

 ここからは貨物になりすまし、黄浦江の河口に停泊している中立国船籍のパナマ貨物船に積み込んでもらい、厦門(アモイ)まで行く。


 船のモーターが唸り声を上げて河を下っていく。


 揺れる木箱の中で睦子と密着した体勢で、マコトは英語で呟く。


「白粉くせえ……」

「あなたが塗ったんでしょうが」


 睦子は帝国の言葉で言い返した。


「ハル、帝国の言葉に戻ってるぞ。英語で話せ。英語で言ってる意味はわかってるくせに、喋る方はからっきしかよ。もう少し勉強しろ。これから困るぞ」


 ハル、と、ここから先、呼び名とする名前で睦子を呼ぶ。


「必要なときは通訳、つくわよ」


 ここは辛うじて英語だ。


「米国英国と戦後処理のために直接交渉するなら話せたほうが、絶対にいい」


 船の主には聞こえないように声を潜める。

 モーターが激しい唸り声を上げているから、この程度なら大丈夫だろう。


「……私はたぶん交渉させてもらえないわよ」


 睦子は小さく呟く。


「交渉させてもらえるかもらえないかは一旦置いても、誤解を生まないためにもあんたは話せたほうがいい」


 マコトは顔をしかめて盛大にため息をつく。


 この女が帝という立場で、言葉を上手く使えず、生き延びるための『演技』をいたずらに繰り返したら、いつか人が死ぬ。

 きっと、いつかたくさん人が死ぬ。

 別の戦争を引き起こしかねない。


 ━━冗談じゃない。


「最低限、英会話は不自由しない程度までは覚えろ」


 マコトが苦言を呈すと睦子は愉しげに言う。


「あら、じゃあ、教えてくれるのかしら?」


 クスクスと笑う。


 ━━そうだ、こうやって懐に入ってくるんだ。


 油断も隙もあったもんじゃない。


「……仕方がないから教えてやるけど、今から帝国の言葉を一回喋るたびに、デコピン一回。額が嫌ならしっぺも選べますが?」

「え、どっちも嫌よ」

「はい、一回」


 デコピンなど、女帝に対して不敬極まりない。


 そして、いつ『終わり』か、わからないから、覚えるまで教えられるか、わからない、という注釈もつくが、それは言わない。


 パナマ船籍の貨物船に木箱入りの骨董品として引き揚げられ、丁重に積み込まれた。


 ようやく甲板に脱出した頃、空には月が浮かんでいた。


 二人は並んで下弦の月を見上げて、遠ざかる上海に別れを告げた。


次回8話は、2025年8月11日(月・祝)23時頃更新予定です。

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― 新着の感想 ―
前回の、臣下を憂う姿や名前のくだり(文章のリズムが好き過ぎて声に出して読んでいました!)、そして今回の板に付きすぎた女優さなからの姿、何枚もの仮面を持つ睦子様に惹き込まれてしまいます…! 傾国の美女に…
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