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06.1945年(春和元年)8月 上海①

「誰かさんがよく飲み食いするので水と食料は残り僅かです。ですので、今夜ここから脱出したいと思います。もう倍の日数分はあったはずなんですが」

「毒殺の心配がなくなったら、やけにお腹が減ってきたのよ」

「俺が毒を仕込むとか考えないんですか?」

「一つのものを私に割らせて、あなたが先に食べているんだから、考えないわよ」

「それでも出来ないわけじゃないですよ?」

「そこまで手の込んだことしなくても殺せるじゃないの。か弱い私を(くび)り殺すぐらい、あなたは腕一本で十分でしょう。鉛玉さえいらないわ」

「そうですねえ。鉛玉は使いたくありませんね。貴重な鉛玉と手榴弾も残り僅かですよ。誰かさんのせいで」

「それは、今度は穏便に脱出しないとね。曲芸はもう勘弁してほしいもの」


 皮肉たっぷりのマコトに、睦子(ちかこ)は少しも悪びれずに優雅に微笑む。


 ━━この女狐。


 女帝に対して不敬上等で心の中で呟いた。



 ━━1945年(春和元年)8月上旬



 上海萬陽ホテルからの逃走劇から三日。

 潜伏中の虹口上海ゲットー近くのアパートの蒸し暑い隠し部屋。


 マコトはベッドの上に地図を二枚広げた。

 一枚は大陸沿岸部の広域、もう一枚は上海虹口地区の地図だ。


 睦子はベッドに腰掛けて、神妙な顔でそれらを覗き込む。

 神妙に覗き込んでいるが、団扇をパタパタと動かすのはやめない。

 足の爪先は盥に張られた水を弄んでいる。


 暑い、どうにかならないの、と散々文句を言うのでマコトが渋々用意した。


 一応、臣下としては仰いで差し上げるべきなのでは? と頭の片隅に過ったが、何とも腹立たしいので、やらない、絶対に。

 

「上海海軍特別陸戦隊のクーデターは組織全体のものではなく、侍従武官大宮寺と共謀した若手将校による暴走だと思われます。しかし、あなたが逃亡したことにより大本営から責任を問われる前に不慮の事故に見せかけて始末してしまおうという動きもあります」


「ずいぶん身勝手な人たちねえ」


 睦子は呆れたように言って、盥の水を軽く蹴飛ばす。

 細い足首から爪先へ水滴がしたたる様子が、なんとも艶めかしい。 


「上海海軍特別陸戦隊の勢力圏から、陸軍の勢力圏へ脱出する。この場合、北の満州に向かうか、南の華南に向かうか、になるのですが」


「じゃあ、満州へ行くの?」


 睦子はちょこんと小首をかしげる。

 可愛らしい、だが、しかし、妙にあざとい仕草なのが癪に障る。


「いえ、満州の陸軍は俺とは派閥が違うから、味方になる保証がない。出来れば避けたいです。それに上海海軍特別陸戦隊は俺がソ連関係者だと思い込んだままだと推定できます。ならば普通は北へ逃げると勝手に思い込みます。北へ向かう鉄道の警備を一番に固めているはずです。南に向かう鉄道や道路、港湾施設のほうが警備が手薄になっているはずです」


 北を避けるのは派閥違いや敵の裏をかく、という意図もあるが、満州はソ連が攻めてくると見て間違いない。

 傍受した無線の暗号を解読しているが、日に日に情勢がきな臭くなっている。

 もう開戦間近だ。

 だが、不確実なことは言わない。


「それから、牧原侍従長と綾小路の行方ですが、南東部の厦門(アモイ)へ向かう中立国の貨物船まで、彼らをそれぞれ運んだ、という小型船の持ち主が掴めまして」

「え、本当に調べてくれたの?」


 嬉しそうに口の近くで手を合わせる仕草も可愛らしいが、やはり、なんだか、あざとさが拭えない。

 

 ━━わざとやっている。


 睦子はこの三日間、終始この調子でマコトの反応を窺って、揶揄って遊んでいる。

 退屈しのぎにしては悪質だ。


「ええ。陛下のボンボニエールは売れないので、私財から合計二〇ポンドほど出しました。お陰でこのクソ暑いのに俺の財布はとっても寒いです」

 

 だからマコトは、ほんの少しの意趣返しとばかりに、チクリと皮肉で刺した。

 すると、睦子はわざとらしい流し目をマコトに送る。

 

「それは悪いことをしたわね。でも、今は金品の持ち合わせがないの。首飾りも指輪も身につけていなかったし。他にお礼に差し出せるものは、この身体しかないけれど、どうする?」

「俺の純情を弄ぶのやめてくれませんか、陛下。Don't (色気)act(づいてん) all(じゃ) sexy, (ねえよ)you(この) little(クソ) bratガキが

「それはわかるわよ」

「陛下のようなやんごとなき御方にこんな俗語がご理解いただけるとは夢にも思いませんでした」


 閑話休題。


 北四川路の古本屋の店主が牧原と綾小路の行方についての情報をあっさりと掴み連絡を寄越したのは上海萬陽ホテルからの逃走の日の朝だった。

 だからその日は午後からの訪問となった。

 あまりにも拍子抜けするほど簡単に掴めたので、餌として撒かれた情報だろうとは推定できるが。


「……牧原侍従長と綾小路のルートは、陸軍の特務機関の連絡ルートと同じなんです。俺も使えるルートです」

「つまり彼らと合流できるのかしら?」

「確実なことは言えないが……それから厦門はこのルートでは中継地で、そこでマカオ行きの貨客船に乗り換える。貨客船は香港にも寄港する」

「帝国の香港占領地総督部があるわね」

「彼らは香港へ向かった可能性が高い。亡命先がどこか、不明だが、帝国を出る経由地になるかもしれない」

「そうなの?」

「とりあえず、俺の伝手があるから、一旦は香港で身を隠すのが最良だと思います」

 

 あまりにも出来すぎている。

 マコトがソ連外交官として送り込まれた時点で、誰かがこの絵を描いていたと見て間違いない。

  

 ━━あのおっさんが描いた絵か。それとももっと上の連中か。


 だが、ここに至っても機関の応援人員などというものは寄越されていない。


 符丁を打電したが、反応がない。


 帝の護衛がたった一人っきりなんて、前代未聞に違いない。


 一人でもやれると信用されているのか、ただの人員不足か。

 いや、たぶん、後者だろう。

 この戦争はもはや、末期も末期。

 人員も不足しているが、おそらく資金も不足している。

 人員不足と資金不足で、人を送りたくても、送れない、そう、思いたい。

 ただの放置だったらどうしよう、と一瞬不安になるが、ここまで来たら、一人でやり遂げるしかないので、腹を括ろう、と苦い気持ちを飲み込む。


 それから━━。


『滅びた帝国の都で、また会いまひょ』


 綾小路が去り際に残した言葉、こっちは一体何の符丁か。


 厦門からは台湾、そこから本土へのルートもあったが、今は行けるのはせいぜい台湾まで。

 そこから先の本土までは米国が海上封鎖をしている。

 帝都には届かない。


 ━━いや、でも、香港のほうが都合がいい。


 睦子に伝えるべきではない情報は割愛して、脱出のルート説明を細かく詰めた。


 それが終われば、次は変装だ。


 後ろを向いているから着替えてください、とマコトは睦子に服を渡す。



「それで、私は中国人に変装するって聞いたけど、これ、派手すぎない?」


 睦子が着替えたのは紺地の旗袍(チャイナドレス)

 地の色は闇夜に紛れる色ではあるが、銀糸で花模様の刺繍が施されているので本当に紛れられるかは疑わしい。


「上の階の住民のタンスから少しばかり拝借したんですが、普段着だと無くなっているのがすぐに発覚するので、奥に仕舞われた一張羅にしました」

「盗んできたのね。背に腹は代えられないけど関心はしないわね。あと、お尻のあたりと胸が少しきついのだけど、これ」

「ここ数日で太りましたか?」

「失礼ね。もともと着痩せするのよ、私」

「まあ、破れないように気をつけてください。スリットが入っているから、歩行には問題ないかと思いますが」

「それは大丈夫だと思うけど、こんなに派手で大丈夫なの?」

「陛下はお顔が少々派手というか、目の印象が強過ぎるんです。商売女風のほうが馴染むんです。肌も日焼けしておらず爪も桜貝のように綺麗です。下手に庶民の格好をすると違和感が拭えません。逆に怪しい。眉を整えて化粧しますから、じっとしててください」

「ちょっと、変にしないでよ? ちゃんと出来るの? というか、あなた私のこと褒めてるの? 貶してるの?」

「はいはい、市井に紛れられないぐらい美しいって褒めてるだけですよ。じっとして」


 眉のいらない部分を少し剃刀で整えて、ついでに少し、顔や襟足の産毛を剃る。

 それから白粉をはたき、目の縁と唇に紅を引く。


「陛下は付け睫毛いらずで助かります」

「まあ、悪くはないけど、厚化粧ね」


 手鏡を覗き込み、睦子は少し不服そうに言う。


「これくらいしないと、陛下だってわかりますから」

「でも、目立つわね」

「俺もこの目の色のせいで純東洋人には化けられません。だから場所によっては目立ちます」


 帝都にある陸軍の教育機関にいた頃は、髪は短く刈り込むか黒く染めていた。

 でも、顔立ちと目の色があまりに目立つものだから、学校と寮の往復ばかりで、ほとんど外出していなかったな、と思い出したが、これもまた、睦子に話すことではない。


「青、というか灰色だものね。綺麗だけど」

「ただ厄介なだけです。せめて茶色ぐらいならよかったけど。まあ、それは仕方がないので。だから、あまり地味だと俺と並んだときに釣り合いが取れない。ユダヤ系イタリア人商人と中国人の愛人、上海脱出まではそういう設定でいきますから協力してください」

「わかったわ。剃刀、ちょっと借りていいかしら?」

「眉、気に入りませんでしたか? 髪を結った後に直しましょうか?」

「そうじゃなくてね」


 睦子はまだ結っていない髪の一房を取って、剃刀でざっくり切る。

 迷いなく切られた長く美しい黒髪が、睦子の掌からはらはらと落ちた。


「短くしたほうが、変装になるでしょ? 髪形は違うほうがいいと思うの」

「……切っていいなら、言ってください。勝手に切らないでください。それから髪を床に捨てるな」


 マコトは結ったほうが絶対良かったのに、髪は女の命じゃねえのかよ、あーもう、とぶつくさ言いながら、睦子の髪を肩より少し上で切り揃えた。


 睦子の準備を終え、マコトも麻の背広にパナマ帽の商人風の出で立ちに着替えてた。

 トランクの中身や隠し武器の点検も済んだ。

 上海脱出の用意は出来た。


「じゃあ、出るぞ」

「あの、マコト……」


 立ち止まる睦子にマコトは振り返る。


「なんですか?」

「青木や茅田や加納や……他の者は無事かしら?」

「調べている時間はありません」

「そうよね。ごめんなさい」


 本当は傍受した無線や睦子の動向を見張らせていた中国人の下働きが寄越した伝言などで、上海萬陽ホテルにいた人々の安否は断片的に推測できたが、憶測の域を出ないものはあえて言わない。


「名前を聞かれたら()(ヤン)と名乗ってください。あなたの御称号、陽宮(はるのみや)の陽でヤン。中国人としてはありふれた名前です」

「わかったわ」

「でも、慣れない音は咄嗟に反応出来ないでしょうから、俺は『ハル』と呼びます」

「そう……陽宮と久々に呼ばれたわ……ハルとは呼ばれたことはないけれど」


 睦子は、少し寂しそうに長い睫毛を伏せた。


 御称号も御名も、帝位という最高位にのぼれば、呼ばれることはない。

 詔勅(しょうちょく)などの署名に御名が残るが、文字としてであり、一般民衆には御名は伏せられ、ましてや本人に向かって声に出して呼ばれることは決してない。

 個を表す名の音は、神聖視され、敬意によって封じられてしまう。


 その孤独の深さは如何ばかりだろうか━━。


 睦子の場合、御名の記された詔勅さえ、摂政を置き『表』に姿を現さなくなったから、践祚して僅かな期間のみが直筆で、後は代筆という有様だった。


 ━━名を呼ばれない、孤独とは。


 感傷的な空気を振り払うように、一呼吸してマコトは言った。

   

「俺は上海脱出までは、マルコ・ゼヴィと名乗ります。マコトとの呼び間違いは一度ぐらいなら音節的に許容範囲内となりますが、常態的に間違えそうなら、あまり名前は呼ばないでください。外に出たら会話は極力英語で。ここからは戦場です。少しの油断が命取りになります。わかりましたね、『ハル』」

「ええ、気をつけるわ。行きましょう」


 睦子は頷く。

 決意したように顔を上げる。


 狭い隠し通路を抜け、三日ぶりに外に出た。

 この日の上海は、月のない蒸し暑い熱帯夜だった。



次回7話は、2025年8月10日(日)21時30分頃更新予定です。

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