05.1945年(春和元年)7月 上海⑤
窓も開けられない、昼の蒸し暑さが残った隠し部屋で。
「とりあえず、お互いが持っている情報を出し合いましょう」
水を飲んで、ようやく人心地がついた睦子が言った。
「出せる情報は限られていますが?」
マコトが言う。
「それでもいいから。話せるところまで話してちょうだい」
睦子は背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「まずは、私から。大宮寺は私が亡命を企んでいると言ったけど、私は何も知らない」
睦子はきっぱり言い切る。
マコトは小さく首をかしげる。
「知らない? 亡命の計画は何もご存じではないと?」
「知っていたら、もっと上手く立ち回れるわ。こんな裏切りなんかにあわないように」
皮肉げにマコトを見る眼差しは、嘘を言っているようには到底見えない。
だが、マコト側の任務の計画も、大幅に再調整が必要なので、もう少し事情を聴き取る必要がある。
そもそも女帝の身柄を一人で預かる予定はなかったはずだ。
なぜ、こうなったのか。
とりあえず、現状を整理して、確認しなくてはならない。
「では、大宮寺がクーデターを主導し、裏切る動機に心当たりは? 例えば大宮寺の私的な感情などは、何かご存知ですか?」
一応、大宮寺の動機の心当たりと彼女との私的な関係がないか、聞いておこうと思った。
すると睦子は、一瞬、鬱陶しげに長い睫毛を伏せた。
「動機なんて、本人がさっき言ったことしか知らないわ。私的な感情って何かしら?」
でも、それは、一瞬で。
「何、て、まあ、忠誠以上の何かを」
動揺せず、静かに。
「知ってどうするのよ」
気高く、淡々と。
「上海に来てからは、侍従長や女官長、それからあなたの妨害で、帝らしいことは何もさせてもらえなかったから、日々退屈に怠惰に暮らしていたわ。けれど、それが大宮寺や上海の海軍兵たちの気に障ったというなら、仕方がないことよ」
ほんの少しだけ、物憂げな顔で。
「私だって帝として、現状に甘んじていいなんて思っていなかったわ。けれど、ソ連外交官を騙って妨害していたあなたが、それを糾弾出来るのかしら?」
睦子はマコトを見上げる。
その顔は気位が高く、ともすれば神秘的な印象なのに、ふとした瞬間、睫毛が影を落とす眦に隙に似た色気が滲む。
━━誤解を与えやすい性質ではあるな。
以前から思っていたことではあるが、睦子の美貌は、生来の高貴さと、たまに見え隠れする生身の色香が、どうにも不均衡で危うい魅力になってしまっている。
うっかり惹き込まれそうになる。
━━本人の意志に関係なく。
だが、うっかり惑わされた臣下がいたとしても、彼女は黙殺するより他ない。
勝手に期待した者が、勝手に自身の願望を投影する。
願望と違うと、勝手に失望する。
そして、勝手に憎み、その憎悪はぶつけられる。
その点に関しては、マコトは少しばかり同情する。
マコトは努めて柔らかく「いいえ」と首を横に振り、頭を下げる。
「大変ご無礼をいたしました……そうですね、もっと有意義なことを聞きましょう。帝であるあなたがなぜ上海へ来たのか、あなた自身の口から、詳しい経緯をお聞かせくださいませんか? この事態に繋がる手がかりがあるかもしれない」
睦子は小さく息を吐く。
長い睫毛を上げる。
マコトを正面からまっすぐと見つめる。
彼女の黒曜石の瞳に自分の姿が映っていることに気づき、マコトも背筋を伸ばす。
「私は、帝である私か、弟の東宮光宮、どちらかが生き残るようにと言われて上海に来た。それ以上のことはほとんど何も知らない」
滔々と淀みない声。
「本土と大陸、両方を同時に、上陸侵攻作戦を展開することは米国であろうと難しい。どちらかが生き残る勝機は必ずある。それを納得したから、焼け野原になった帝都を後ろ髪引かれる思いで離れ、危険と犠牲を承知でここへ来ただけよ」
その声には強い覚悟が窺える。
「でも、上海に来てからも上がってくる報告はでたらめばかり。時々、綾小路が本当のこと……らしきことを教えてくれたけど、知りすぎると危ないから教えられない、と言われたわ」
しかし、少しだけ苦いものが混じる。
「つまり、外交顧問の綾小路実頼は亡命計画を知っていたと?」
マコトが問うと、睦子が頷く。
「今思い返せばおそらく、そうね」
「帝と東宮どちらかが生き残るように上海へ移れと陛下に進言したのは誰ですか?」
「摂政久慈宮と首相の六條よ」
「久慈宮様と六條首相……いや、六條内閣は今月総辞職しているから前首相か。それはさすがに聞いてますよね?」
「それは聞いてるわ。今はその話はいいわ」
「わかりました。そうですね……つまり整理すると久慈宮様と六條前首相が亡命計画に関わっているかは、現時点では不明。だが、関わっている可能性は高い。綾小路は知っている。牧野侍従長主導で計画は動いている。消えた側近たちのうち幾人かは計画に加担している可能性が高い、そうなるか?」
「そうじゃないかしら? 大宮寺の話と状況を鑑みれば、おそらく。とにかく私は何も知らない。出せるのはこれだけだから、あなたの情報はこれに見合うまでで構わないわ」
睦子は、見合うまででいいから、絶対に嘘は許さないと言うように、射るような強い目をする。
少し気圧されそうになりながら、マコトは睦子に問う。
「じゃあ聞くが、俺をなぜ、ソ連関係者じゃないと最初から見破っていた?」
初めて謁見した日、睦子は握手をし、少しだけ不自然に身を寄せ、背伸びをし、耳打ちをした。
『あなたソ連人ではなく我が国の人でしょ?』と。
マコトの一番の疑問だった。
少なくとも見た目、話し方、偽装経歴、旅券などの偽造身分証に手抜かりはなかったはずだ。
途中で辻褄が合わない部分が出てきたのは事実だから、その時点で見破ったなら説明はつく。
だが、睦子は初めから見破っていた。
━━なぜ知っていた?
すると、睦子は拍子抜けしたように目をぱちくりと瞬きして、あっけらかんと言う。
「お飾りで使い捨ての帝にソ連外交官が会いに来るわけがないと思ったから、確証はないけどカマをかけたのよ」
「……本物だったら礼節を欠いたとして外交問題になりかねない」
マコトは呆れて眉を寄せる。
そして、脱力し、項垂れる。
「ただでさえ、ソ連とは中立条約が更新されず微妙な情勢だとおわかりですか?」
「わかっているわよ。でも、やっぱり偽物だったでしょう? 一瞬動揺してたのを、私は見逃さなかったわ。それから、一応、綾小路に調べさせた。調査結果は教えてもらえなかったけどね」
姿を消す直前に遭遇した綾小路が『帝国軍のどっかの情報部が送り込んできたんやろうとは思ってるけど』と言ったことと、何を考えているか読めない糸のような目を思い出して、マコトはさらに眉間の皺を深くした。
少し得意げな笑みを浮かべた睦子は、下からマコトの顔を覗き込む。
「ねえ、それで、あなたどこの所属? 帝国軍よね? それぐらいは教えてくれてもいいんじゃない?」
「……帝国陸軍所属、所属部隊等、あまり詳しいことは話したくない」
マコトはため息をつき、陸軍所属であることだけを明かした。
ここから先のことを考えると、帝国の者であることだけは明かしておかないと睦子の信用を得られない。
「ふーん、それで、あなたの名前は?」
睦子は、上目遣いで見上げる。
「帝国陸軍所属である以上、帝国風の名前があるでしょう?」
だが、マコトは答えない。
「あなたがロシア訛りを放棄した時点でロシア風の『アレクサンドル』は座りが悪いのよ」
マコトもそれは、わかっている、あまり名乗りたくはないが。
「帝で陸海軍の統帥権を持つ私に名前を聞かれて名乗らないのは、ちょっと不敬じゃないかしら?」
「……それは命令ですか?」
「どちらかというとお願いよ。出身国とか出生名とか戸籍での名前までは聞かないわ。素性を明かしたくないのでしょ? 陸軍に登録されている表の名前でいいわ」
「……澤城眞人。眞実の人って書いてマコト」
しつこく食い下がる睦子が『統帥権』と『不敬』を盾にしてきたので、渋々ながら、名前を明かした。
この名前は偽名でも陸軍での表の名前でもなく、帝国での戸籍名だ。
けれど、本名であるか、と問われたら若干の疑問が生じる名前だった。
戸籍名であるこの名前は、もうずっと名乗っていない。
帝国人の父に引き取られたときにつけられた名前で、あまり愛着もなかった。
偽名でもよかったが、この名前なら、別にいいかと明かした。
本当の名前だが、実体が乏しい。
嘘でもないが本当でもないような名前。
強引に聞くから、少しばかりの気まぐれと意趣返しだ。
なのに。
「嘘から出た眞か、はたまたそれも嘘か」
ひとりごちるように呟いてから彼女は彼の目をまっすぐに見つめて、呼んだ。
「マコト」
この名前を音にして呼ばれることは、あまりなかった。
でも、この名前を呼ぶ、涼やかな声は。
「じゃあ、マコト、ね。そう呼ぶわ」
━━この声が呼ぶ、この音が、なぜか。
なぜか、その音が、妙に心の表面に波風を立てる。
呼ばれ慣れていないせいだろうか━━?
「マコト、あなたどこの出身なのかしら?」
「……聞かないんじゃなかったんですか?」
「ついでに教えてくれるかしら、と思って。マコト、あなたどこで生まれたの?」
「そんな個人的なことを聞いてどうするんですか?」
「個人的な興味よ。マコト」
違う、これは波風、ではなく苛立ちだ。
揶揄うように名前を呼ばれるのは、苛々する。
「だったら、教える必要はないな……今日はもう遅いし、蝋燭がもったいないから寝ますよ」
マコトは苛立ちを振り払い、床に落ちている毛布を拾い、横になろうとする。
「このベッドはあなたのものでしょう? 私が端に寄るから、ちゃんと上で寝なさいよ。ここ土足でしょ? 汚いじゃない」
だが、女帝はとんでもないことを言う。
折角、気を使ってやったのに。
この部屋の蒸し暑さは不快だ。
情報がなく、儘ならない任務にも腹が立つ。
上手く欺けなかったことを揶揄するような睦子の態度も不愉快だ。
苛々する。
マコトは衝動的に睦子の顎に指を添えた。
冷たい灰青色の目で、黒曜石の瞳を覗き込む。
「男に一緒の布団で寝ろって、それ、どういう意味か、陛下はご存じないんですか?」
苛立ちをそのまま、不敬だとわかりながらぶつけた。
そんなつもりはない、ただの脅し。
でも、この生意気に揶揄する女帝も少しは狼狽えるだろうと思った。
「未婚の女帝は男系で継承される皇統に混乱を生じさせないために生涯独身が我が国の伝統だけど、それを変える勇気があるの? それなら、どうぞ」
けれど、女帝は一枚上手だった。
「人間ってね、してはいけないことに興味が湧くのよ。私は構わない」
睦子は狼狽えるどころか、優雅に笑う。
「は?」
あまりにも斜め上過ぎたので、マコトは理解に数秒ほど要した。
「脱いだほうがいい? それとも脱がせてくださるの?」
睦子は薄暗い蝋燭の明かりの中で、ワンピースのボタンに白魚のような指を滑らせた。
嫣然と一番上のボタンを外した。
「私、初めてだから優しくしてくださるとうれしいのだけど」
「……床で寝ます。床で寝させてください。お願いします。それ以上ボタンを外そうとしないで。お願いですから、間違っても俺を襲わないでください」
マコトは後退りし懇願するように言ってから、毛布を巻きつけるようにして、床に寝転んだ。
暑い。
だが、貞操は守りたい。
国家を揺るがす一夜の過ちは御免被りたい。
「別に襲わないから横で眠ればいいのに」
睦子はボタンを留め直しながら言って、ころころと笑った。
━━誤解を与えやすいなんて、生易しいモノじゃなかった。
彼女の本質は毒婦だ。
それも、とびっきりの。
「收斂死咗呀?」
慎み、死んだ? という意味の広東語だ。
どうせわからないだろうと、マコトは腹いせに小声で言った。
「失礼ね。揶揄われたからお返ししただけ」
だが帝国の言葉で会話として成立する返事があった。
睦子に関する事前情報ではフランス語、英語、ドイツ語は多少理解出来るとあったが、広東語に関する記述はなかった。
マコトが驚いてガバッと起き上がると、睦子は不敵に笑っていた。
「意味はわからなくても悪口ってわかるのよ」
とても、今日、殺されそうになって、今も、逃亡潜伏中で、命を狙われている人間とは到底思えない。
━━これが帝の器、か。
苛立ちながら、そう、妙な感心をした。
だが、夜半過ぎ、蝋燭の明かりが消えた暗闇で、浅い眠りからふと目が覚めたとき、彼女はうなされていた。
「……っ……たすけて……」
小さく発せられたうわ言に、やはり平気ではなかったのだと、気づいた。
何か安心させるための言葉をかけようとしたが、かける言葉が見つからない。
代わりに長い睫毛が深い影を落とす頬を、手の甲でそっと撫でた。
━━『大丈夫』とは口が裂けても言えなかった。
次回、6話は2025年8月9日21時頃更新予定です。