04.1945年(春和元年)7月 上海④
「動くな!」
海軍侍従武官大宮寺の声とこちらを向く機関短銃の銃口に、マコトも、睦子も、給仕の侍従も、ぴたりと動きを止めた。
━━大宮寺と、上海海軍特別陸戦隊か。
上海海軍特別陸戦隊の中枢部は、表向きは帝である睦子に忠義を装ってはいたが、この部隊は『上海の権益保護』のために存在するがゆえに、内実は権益を失うかもしれない『終戦工作』を疎んじ、そのための『中継ぎ』の『女帝』を軽んじている向きがあった。
マコトは上海海軍特別陸戦隊について持っている情報をつらつらと脳裏に思い浮かべ、面倒なことになったなと思いながら両手を頭の後ろへやる。
顔を伏せて、目線だけを動かし様子を窺う。
━━侍従長という重しが消えたことにより『邪魔者である女帝』を消すほうに、一気に針が振れたか。
━━それとも侍従長やお付きの者たちを消したのも彼らか。
いくつもの可能性をつらつらと思い浮かべるが決定事項ではない。
とりあえず、今、確定しているのは、海軍侍従武官と上海海軍特別陸戦隊が女帝にクーデターを起こしたという事実。
それだけだ。
「大膳職を追い出し、毒を、と思いましたが、存外邪魔が入りまして、このような形になってしまったことは、とても残念です、陛下」
大宮寺が睦子に向かって静かに語りかけた。
━━なるほど、ニワトリが捌けないのにあれだけ食い下がったのは、忠義ではなく、毒を盛る機会を窺っていたのか。
あの、これから特攻するような決死の覚悟の表情は、ニワトリを捌くためではなく、帝を弑し奉るためのものであったのか。
悪い冗談かと思ったが、本物の覚悟だったというわけだ。
悪い冗談の方がよっぽど良かったが、現実はこうして睦子に銃口を向ける方へ転がった。
しかし、毒殺が失敗し、即クーデターへ移行したのはかなり性急だと言わざるを得ない。
理由は何か?
ポツダムで発せられた米英中の降伏要求を、受諾させないための一時的な混乱が狙いか。
それとも、別の理由が何か……?
「大宮寺……なぜ……?」
睦子の硬い声が響く。
それを、大宮寺は鼻で笑う。
「なぜ、と仰られますか。あなたはやはり、何もわかっていらっしゃらない」
乾いた笑い声の後、大宮寺は睦子に静かに問う。
「陛下を下関から上海へ徴用船で脱出させる際に九州南海域で陽動のための海戦が行われました。帝国海軍の艦がどれだけ沈んだか、ご存知ですか?」
「……」
睦子は答えない。
今年四月の九州沖海戦。
あの海戦で海軍の主要戦艦と護衛艦艇群、合わせて計六隻が沈んだ。
航空機なども被害甚大、戦死者は四千に及んだ。
そう、マコトは聞いている。
しかし、あれは沖縄守備戦援護のための海戦でもあったはずで、睦子のためだけではない。
海軍による沖縄援護と女帝睦子の上海脱出、どちらが『オマケ』であったかは、陸軍の特務機関でも、賛否が分かれていた。
分かれてはいたが、おおよそ『オマケ』は後者だと見られていたし、マコトも睦子が『オマケ』だと考えていた。
睦子は黙ったまま俯き、ワンピースの裾を握りしめた。
きっと彼女には正確な数は報告されていない。
誰も彼女に真実を教えない。
その有り様をこの一ヶ月、マコトは見てきた。
それは、大宮寺も承知しているはずだ。
侍従武官は本来は帝に軍事に関することを奏上する役目なのに、『彼自身』が、何も知らせていない。
「海軍上層部の方針で、私からはお伝えしませんでしたが、あなたは知ろうともしなかった。あなたのための犠牲を」
━━知ろうとしないことは、悪かもしれない。
だが、自分のための犠牲の数を進んで知ろうとする者がどれだけいるだろうか?
それが帝の位にある者だとしても、出来ることなら知りたくはないだろう。
「お聞きになられたら、奉答しました。帝の御下命の方が上位ですから。ですが、あなたはお聞きになられなかった」
大宮寺の声は冷笑するような響きを含んでいた。
そして、その声は朗々と続く。
「牧原大将、いえ、侍従長は陛下が必ず帝国に栄光をもたらすと仰いました」
━━これは、本土脱出の際に出た海軍の犠牲の逆恨みか。
いや、それにしては大宮寺の態度に『何か』違和感がある。
陶酔するような大宮寺の表情に、復讐とはまた違う、湿度の高い感情が見え隠れする。
「私も聡明でお美しいあなたこそが、帝国を正しく導いてくださる帝であると信じ、あなただけの真の臣下たらんと命を捧げる覚悟でお仕え申し上げてきました。ですが……」
朗々とした声が途切れ、暗い虚のような目が睦子に向けられた。
「ですが、上海に来てからのあなたは、日々遊び暮らしているだけだった」
━━これは女帝個人に対する軽蔑と怨嗟か。
「このままでは帝都の腰抜け共は、連合国の降伏要求を飲んでしまう。あなたが上海で、それを阻止してくださると、私も、ここにいる者たちも、皆、期待しておりました。なのにあなたは、何もなさろうとしない」
降伏要求を受諾させない混乱を。
軽蔑し、無能と断じた女帝に命を贖わせて、起こす。
おそらく、そんなところだろうか━━?
「あなたは、何の成果も上げない。そこのソ連外交官も結局、何の働きもせぬ。不可侵条約の延長どころか条件付き講和の糸口さえ掴めていない。あなたもこの男も日々遊興にふけり、無為な時間を過ごすだけ」
そして、その軽蔑と怨嗟のいくらかは、突然現れた『ソ連外交官』が助長したのかもしれない。
滞在時間を引き延ばすために、彼女と無為に遊興にふけっていたのは、事実だ。
あくまでも健全な暇つぶしだったが、しくじったな、とマコトは心の中でほぞを噛む。
「あなたは一体何のために犠牲を払って上海まで来たのですか? ただ空襲や本土決戦から逃れるためですか? 焼け野原になった帝都から逃げただけですか? それとも人目につかぬところで男遊びでもなさるつもりで?」
大宮寺は矢継ぎ早に、睦子を糾弾する言葉を吐く。
━━期待や崇拝や慕情が、失望により、憎悪や軽蔑や怨嗟に変わった、よくある話だ。
そして、勝手な正義感で断罪し、虚栄心を満たそうとする人間も数多存在する。
彼もその類いの人間の一人だろう。
だが、次の瞬間、大宮寺はそんな安い正義感すら感じられぬほどに、睦子を見下すように、醜悪に笑う。
「いえ、そんな罪ではなかったですね、あなたの罪の重さは」
自身の行動の正当性を誇示する決定的な『罪』を掴んだ、と言わんばかりに大宮寺はそれを女帝に突きつける。
「先日、牧原侍従長があなたの『亡命』の準備のため、ここを離れる、と仰ったのを、私は聞いてしまったんですよ!」
そして、『亡命』という言葉に、マコトは、顔を上げそうになる。
━━憶測の域を出なかった『疑惑』が確定した。
顔を上げそうになるのを堪えて、視線だけを睦子に向ける。
「亡命をお考えでしたか。今も前線で勇敢に戦う将兵と銃後で困窮にあえぐ民がいるのに……ご自分だけはお逃げになろうとしていたとは、帝国への最大の裏切りだ!」
大宮寺の語気は強くなる。
「……知らない……私は亡命なんて、何も」
顔面蒼白になった睦子は小さな声で言う。
「嘘を吐くな!」
大宮寺は怒鳴り声を上げる。
「何の成果も上げず犠牲だけを強い、亡命を企み、帝国を裏切らんとする正統な後継ではない女帝など不要! 貴様は帝位簒奪者である! これは大逆ではない!」
ちがう、と睦子の唇は小さく動くが、声にならない。
「貴様のせいでどれだけの艦が沈んだ! どれだけの航空機が落ちた! どれだけの将兵が死んだ!」
大宮寺の並べる呪詛の言葉に、睦子は唇を噛み締めた。
「民を見捨て帝都を離れた貴様はもとより治天の君の器などではない! 恥を知れ!」
大宮寺を見つめる黒曜石の瞳は、見開いたあと、黒揚羽がはためくような長い睫毛に隠された。
弾劾を受け入れ、汚名を甘んじ、死を覚悟するように。
━━何、諦めているんだ!
━━今、お前に諦められたら、こっちが困るんだ!
「総員━━」
撃て、と銃弾が放たれる前にマコトは素早く姿勢を低くしダイニングテーブルのテーブルクロスを跳ね上げる。
白いクロスと皿が宙を舞う。
舞った皿をめがけて拳銃で二発の銃弾を放つ。
皿が宙で粉々に砕け散り、破片が四散する。
ほんの僅かな隙を作る目眩まし。
その隙に睦子に駆け寄り、左手で素早く彼女を肩に担ぐ。
「頭下げて、口閉じろ」
それだけ言う間に夜風でカーテンが揺れるフランス窓まで跳躍する。
窓枠からさらに高く跳躍し、機関短銃の弾道を躱す。
そのまま二人は夏の夜の闇に身を踊らす。
落下しながら身体を捻り一回転。
車寄せの屋根の端を踏み台にもう一跳び。
ホテルの周りを包囲する兵を飛び越して何人か踏み台にする。
発砲しようとする者を蹴り飛ばして踏みつけて、地面に降り立った。
睦子を担いだまま、振り向きざまに右手の拳銃で二発威嚇射撃をして、駆け出す。
「え、え、え?」
「だから、喋んな! 舌噛むぞ! あと目も閉じとけ! 耳も塞げ! 頭下げとけ!」
「ちょっと!」
「あと振り落とされないようにどこか掴んで!」
「ええっ! ムリ!」
「言う通りにしろ!」
睦子を左肩に乗せ、右手に拳銃を持ったまま、腰に下げていた手榴弾を器用に右腕の内側に挟み、左手でピンを引き抜き、脇から落とす。
落下の衝撃で信管が作動する。
それを後方へ勢いよく蹴り飛ばす。
重心が崩れて悲鳴を上げる睦子の頭を庇うように抱え直して走る。
数秒後、爆発音と衝撃が背後から来る。
マコトと睦子はその前に路地を曲がり身を隠した。
*
マコトは睦子を連れ、なんとか、虹口の隠れ家にしているアパートまで逃げおおせた。
外を上海海軍特別陸戦隊の連中が走り回っている。
落ち着けたものではないが、一応、入り口は偽装して見つからないようにしてあるから、数日程度の時間は稼げるだろう。
狭い隠し部屋の窓には、目隠しと侵入防止のために、木の板が打ち付けてある。
当然、窓も開けられず昼の熱気が籠もったままなので、常に汗が額に滲み出て、不快この上なかった。
簡素なベッドの下には数日分の備蓄食料と飲料水、それと応急処置用の医療品と消毒にも使えるアルコール度数の高い酒がいくらか置いてある。
反対側の壁際には武骨な傍受用の民生品無線機とヘッドホンが無造作に転がっている。
天井には停電でつかない裸電球があるのみ。
床に置いた耐火皿の上で揺れる蝋燭の炎は薄暗く、生活の彩りとは縁遠い。
睦子にとっては、おそらく今までの人生で一番不快で彩りのない空間だろう。
彼女は茫然自失でベッドに座り、俯いていた。
不快さを感じる以前に状況が呑み込めていないらしい。
無理もない。
「陛下、お怪我はありませんか?」
見たところ目立った外傷はないが、一応聞いてみる。
すると、ピクリと動く。
「陛下?」
再び、呼びかけてみる。
「あなたやっぱりソ連人じゃないじゃない!」
睦子は叫んだ。
一応、声は抑えめだが。
「どこへ行ったのよロシア訛りは! あと眼鏡も!」
睦子は、くわっ、と三白眼気味の大きな目をめいいっぱい見開いて立ち上がった。
マコトが逃走時、咄嗟に忘れてしまい、現在、完全に放棄したロシア訛りと、もう必要ないだろうと外した眼鏡に対しての苦情だった。
「気持ち悪い……」
そして、叫んだ後、口を押さえて、しゃがみ込んだ。
「あんなの……曲芸じゃない……酔うに決まってるじゃない……」
吐くのはギリギリで堪えているようだが、顔色は青いというか、血の気が引いて白い。
逃走途中、盗んだ自転車に乗ったり、本人にも少し走ってもらったりしたが、担いでいる間は、怪我をさせないことが最優先で、抱えられ心地は考慮していない。
荒波を行く小舟に乗せられるのと変わらないか、それ以上だったと推測できる。
「何か飲みます? 塩素消毒した飲料用水とアルコール度数三十パーセントの蒸留酒ぐらいしかないけど」
「……水で、お願いできるかしらっ……」
目が『酒って私を殺す気?』と言っている。
湯呑みに水を注いで、渡す。
睦子はそれを両手で持つが、そのまま動きが止まった。
マコトはそれを見て、ああ、と思い、片手でスッと取り上げて、一口含む。
「大丈夫、毒はない」
「……悪いわね」
睦子は湯呑みを再び受け取り、長く息を吸って吐いてから、ようやく水を飲んだ。
まずいわね、と小さく呟いた。
次回は5話は明日、2025年8月8日20時頃更新予定です。