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03.1945年(春和元年)7月 上海③

 綾小路が消えて、数日。


 七月もあと少しで終わろうとしていた暑い日。

 米英中から、帝国への降伏要求の最終宣言が、ドイツのポツダムで出された。


 だが、上海萬陽ホテルの特別室の主には伝わっていなかった。


 仮にも名目上は国家元首であるのに。


 ソ連外交官アレクサンドルを装うマコトが、それを伝えると、ぽつりとこぼすように睦子(ちかこ)は呟いた。


「私は、何も知らされないのね」


 長い睫毛が黒曜石の瞳を陰らせるように、影を作った。


「構わないわ。これ以上、万民の命が失われずに済むなら、どんな形でも」


 ━━そこに、私がいなくても。


 マコトには、そう言ったように聞こえた。


 嘘でもアレクサンドルとして、


『ソ連は連署に加わっていません。本国と連絡を取り、さらなる情報の精査に努めます。少しでも良い条件の講和を模索します』


 それぐらいは言えたかもしれない。

 でも、その茶番があまりにも空虚すぎて、言葉を飲み込んだ。


 一見、戦争とは切り離されているこの部屋の静けさに、飲み込んだ言葉が溶けていくような気がした。


 夏の風が薄いレースのカーテンをふわりとなびかせる以外、このまま時が止まればいいのに、と感傷的に思えるほど、空虚で静かだった。



   *



 次の日、珍しく昼過ぎの訪問になったマコトが上海萬陽ホテルのロビーに到着したとき、階下の厨房が何やら騒がしかった。


 上海萬陽ホテルは地上三階地下一階で、格式は高いが、上海の中では小規模と言える。

 小規模なので全館貸切で秘密裏に女帝の仮御座所となっている。

 そして、小規模ゆえに、どこかで騒ぎがあると、伝達が早く、すぐに臨戦態勢がとれる。

 脱出経路も一つにならない構造が、警備上考えられているな、と初めて図面を見たとき、マコトは感心した。

 だが、それも随分昔のことのように思える。


 まだ、たった、ひと月前のことなのに━━。


 警備の上海海軍特別陸戦隊の兵士に帽子を軽く上げて挨拶をする。

 あちらからの挨拶はなく、苦笑いのような顔をされた。

 軍上層部からの指示で上海萬陽ホテルに自由に出入りを許されているアレクサンドルのことを、彼らはあまり快く思っていない。


 上海海軍特別陸戦隊とは、『海軍』唯一の常設陸戦隊で、上海とその周辺の帝国勢力圏の治安維持と防衛と『上海の権益保護』を任務としている。 


 だから外国勢力である『ソ連外交官』が自由に女帝に接触していることを、表面的には見逃しながらも、当然、苦々しく思っているに違いない。


 そして、帝の仮御座所の警備に皇宮警察官や陸軍の近衛兵以外が当たることは、異例中の異例だった。


 失踪した牧野侍従長が海軍大将であったから、海軍関係者で固めた人選と考えられるが、身内で固めたこと以外にも、筋の通る理由があった。


 秘密裏とはいえ、人がそこにいる以上、何らかの噂になる。


 だから、睦子には『海軍関係に深い繋がりを持つ財閥の深窓の令嬢』という偽装が存在していた。

 上海海軍特別陸戦隊が警備するほうが自然に見えるのだ。


 ━━確かに彼女の見た目は、帝というよりは深窓の令嬢だ。

 

 そんな事を考えながら厨房へ降りていくと騒がしい原因が、いた。


「久々にニワトリが手に入ったから、私が調理しようと思って」


 睦子は笑顔を見せたが、周囲の者は全員、怯んでいる。


「やめましょう、陛下。生きてますよ?」


 女官長の青木は遠巻きに訴える。


 侍従職の加納(かのう)と女官の茅田(かやだ)がニワトリが入った鳥籠の周囲を取り囲んでいる。


 ニワトリが不穏な空気を察知し、クアーカッカと鳴いて、バサバサと羽を広げて暴れている。


 丸刈り頭でいつもは涼やかな好青年の海軍侍従武官、大宮寺(だいぐうじ)は、


「帝の御為なら、私が、捌き奉ります! 生きたニワトリの心得はありませんが、釣りが趣味ですので魚は得意です!」


と、直立で、これから特攻するような決死の覚悟の表情で叫んでいた。


 何、この、混沌(カオス)? である。


 侍従武官とはたしか、陸海軍それぞれから帝の軍事相談役に選ばれた中堅将校で、とても名誉ある役目であり、その様な者が軽率に特攻で命を散らしては、帝国もいよいよ末期だな、とマコトは、遠い目をした。

 それに、そもそも、ニワトリごときに特攻されても困る。


「青木サン、調理の者は?」


 マコトが聞くと、青木は右手を頬に当て、ため息をついた。


「今月半ばに大膳(だいぜん)の者が、(いとま)を申し出まして、それからはホテルが雇い入れた料理人に、侍従を見張りにつけた上で作らせて、侍医と女官と私で厳重にお毒味申し上げてから帝にお出ししていたのですが……」


「私が調理すれば、毒見なんてしなくて済むでしょう」


 少しだけ拗ねたように睦子が言う。


 アレクサンドルとしては陪食(ばいしょく)を遠慮し、昼食には同席していなかったから、詳しい状況まで、知らなかった。

 だが、女帝の食事を用意するために供奉(ぐぶ)していた大膳職(だいぜんしき)の者が一斉に退職したことは把握していた。


 ━━先帝も毒殺と噂があったな。


 昨年末に急な病で崩御したから市中でもまことしやかに語られていた。


 ━━側近が減っていき。


 ━━誰が敵で誰が味方かもわからない。


 毒見をさせるのも心苦しいし、その毒見が正しいかもわからない、疑心悪鬼になるのも苦しい。


 睦子は初めて会った頃よりも華奢になった。

 儚げな印象のほうが際立つようになった。

 気丈に振る舞っているが、この状況と立場が、確実に彼女の内側を蝕んでいっている。


 それはわかっていた。


「それで、陛下。鳥類を捌いたご経験は?」


 マコトが聞く。


「ないわ。でも動物学の本をたくさん読んでいたから解剖学の知識はあるの。大丈夫よ」


 睦子が答えた。


 ━━なんでそれで自信満々に胸をそらしてるのかな、この人。


 繊細なんだか豪胆なんだか大雑把なんだか、わからないな、とマコトは心の中で盛大にため息をついた。


「包丁、貸してください。私がやります」


 仕方がないのでマコトは、自分がやると申し出た。


 しかし、大宮寺が睦子を庇う騎士のように前に出た。

 彼はマコトを睨みつける。


「いいえ、陛下のお口に入るものを外国人に任せることは出来ません!」


 忠義が厚いのは良いことだと思う。

 忠義以上の情が、彼からは見え隠れしているような気がするが、それは気にしないとして。


 だが、このままでは埒が明かない。


「私が毒を入れないよう見張っていてください、陛下。それから、大宮寺サンは、私が陛下に危害を加えないか、見張っていてください」

「しかし!」

「私が変なことをしたら、即時攻撃しても構いません」


 マコトがそう言っても大宮寺は、下から睨めつけて叫ぶ。


「信用出来るか!」


 ━━さて、どうやって落ち着かせて、交渉するか。


 マコトは顎に指を当て、思案を始める。


「大宮寺、彼に包丁を持ってきておやりなさい」


 だが、そこに、涼やかな声が割り込む。


 睦子が口を挟んだ。


 大宮寺は少し声を落として懸念を口にする。


「しかし、陛下……この男に刃物を持たせるのは危のうございます」

 

 すると、睦子は大仰に肩をすくめる。


「刃物を持たせなくったって危害を加える気があるなら、とっくにしてるわよ。大丈夫よ」


「しかし……」

「命令よ。私に逆らうことは許さない」

 

 しつこく食い下がる大宮寺に、睦子はぴしゃりと言った。


 女帝の勅命で、ようやく、渋々といった調子の大宮寺から、マコトへ中華包丁が貸し与えられた。


 マコトは上着を脱ぎ、腕まくりをする。

 鳥籠から暴れるニワトリを取り出し、ひとまず、包丁をターンと一振り、頭を落とした。

 ニワトリの頭と血が飛ぶ。

 伊達眼鏡のレンズに血飛沫がついた。


「後は羽根をむしり、切り落とした首から手を入れ、内臓を……」

「青木!」


 内臓を抜きます、とマコトが言おうとしたところで睦子が叫んだ。

 ニワトリの頭が飛ぶ瞬間を見てしまった女官長の青木が、貧血を起こして倒れたのだった。



   *



「途中、見ていなかったデショウ、陛下」


 マコトは鶏と芋と雑穀と野菜が煮える鍋をお玉でかき混ぜながら横から覗き込む睦子に言った。

 汁物になったのは、鶏肉をなるべく多くの者に行き渡るようにしたい、という睦子の希望だった。

 味見に一口、お玉から小皿から移したスープをすする。

 材料が足りず、目指すロシア風の味付けにはならなかったが、マコト自身、本場のロシア料理は食べたことがないし、きっと誰も正解はわからないだろう。


「仕方がないわ。青木が倒れちゃったんだもの。どう、味は?」

「今のところは、異常はありません」


 背後で大宮寺が今にも腰の軍刀を抜きそうな殺気を放ち、さらにその背後で加納が不安そうに見守っているが、熱耐性菌が野菜や雑穀に混入していない限りは、安全だと見ていいだろう。

 それに、その手の菌は高温時は芽胞を作り不活化し、冷めた後に常温で増殖するので、出来たばかりの物を食べればさほど害はない。


「じゃあ、夕食、一緒に食べてもらってもいいかしら?」


「身の潔白を証明するためには、仕方がありませんね」


 結局は帝の食事というものは誰かが毒見をしなくてはならないのだ。

 それを理解している睦子は、申し訳なさそうに長い睫毛を伏せた。


「「ありがとう」」


 このときと、二階の食堂での食事が終わった後の二度、彼女はそう言った。


 そして、その二度目のとき、階下から慌ただしい足音が上がってくる。


「陛下! お逃げください!」


 その声が食堂に響いたときには遅かった。


 館内の警備についているはずの兵がドアを蹴り開けて、並び、こちらに銃口を向けていた。


 その中には海軍侍従武官の大宮寺も含まれていた。


 

 茶番の日常が幕を閉じ、剥き出しの銃口(げんじつ)が、睦子に向けられた━━。


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