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33.1945年(春和元年)9月 テヘラン⑤

『あなたは、どうして、自分のお金で、私に指輪を買ってくれたの?』

 

 キャラバン・サライ(隊商宿)の中庭で。


 夕日に赤いガーネットを透かして、睦子(ちかこ)はマコトに問いかけた。


 ━━その真意を知りたい。


 それは駄目な問いかけだとわかりながら、唇から言葉が滑り落ちてしまった。


 マコトの顔から一瞬、笑みが消えた。


「……ラクダの唾で臭いまま、聞く話じゃないだろう……」


 そして、呆れたような、皮肉げな、いつもの笑みが浮かんだ。



   *



「さっきも言ったが、ラクダに唾を吐きかけられて、臭い、その流れのまま指輪について聞かれても、普通、困惑するだろう……」


 マコトの至極まっとうかつ、冷静な発言に。


「……それもそうよね」


 顔と頭を洗ったせいで、まだ湿ったままの髪を指でいじりながら、睦子は俯く。


 頭に被っていたエリザベスから借りたスカーフも、洗って窓辺に干してある。


 夜風に揺れる小花柄を見て、『臭いが取れていないから後で怒られそうね』と、睦子は小さくため息をつく。


 睦子とマコトは窓の下の絨毯に並んで座っていた。

 やや埃っぽい絨毯だったが、ソ連の諜報員と思われる追っ手から逃れ、潜伏中なので、あまり文句は言えない。


「指輪の話だけど……」


 マコトは、長い脚を持て余すように座り直して、明後日の方向に視線をやり、言い淀む。


 彫りが深い顔立ちの、けれど少し薄い瞼を、青みがかった灰色の瞳に伏せる。


 彼に説明する義務はないのに、わざわざ蒸し返して、適切な言葉を探そうとする。


 ━━誠実さで損をする人の典型ね。


 睦子はマコトのことをそのように評価している。


 そして、人を欺くことが仕事の諜報員なのに、とも思う。


 かつて、『マコトは諜報員に向いていない』と睦子は思ったし、彼自身もそれを自認している節があるけど、それは、少しだけ違う。


 彼本来の人格の上に『役』を被って生きてきたせいか、チグハグな部分があって、直情的に見えて、その奥に複雑な思考が沈んでいるようにも見える。


 嘘は苦手だけど、あえて言わないことがたくさんある。


 それが彼の真意をわからなくさせる。


「……お手元金は宮廷費だろう?」 


 ようやく出た言葉に睦子は首をかしげる。


「宮廷費で買うと帝の持ち物になるだろう?」

「そうだけど?」


 睦子が不思議そうに言うと、マコトがため息をついた。


「これは、『一介の英国商人が妻へ贈った指輪』だ。値段も俺の財布から出せる程度の安物。女帝の持ち物なんて大層なものにされちゃ困るんだよ」


 あ、と気づいて、睦子は瞬きを一つした。


「綾小路はお手元金から買えと言ったが、そうすると全部終わった後でも女帝の持ち物になって非公開でも記録が残る。口の固い女官に下賜するぐらいしか処分方法がない」

 

 処分、その単語を聞いて、テヘランでずっと浮き上がっていた気持ちが地面に叩きつけられた気がした。

 

「……ずっと、持ってちゃ、いけないの?」


 睦子は、ほんの少しだけ駄々をこねるように言った。

 マコトが、小さく息を吐く気配がした。


「あまり勧めない。けど、好きにすればいい」


 呆れるでもなく、ほんの少し柔らかさを含んだ声だった。


 指輪の代金をマコトが私費から出したのは、曖昧な判断を可能にする意味もあるようだった。


 そう━━彼は嘘をつくことを多少苦手としているだけで、規則や構造、それに人の心理の裏をかくことは、むしろ得意で、とても『諜報員らしい』のだ。


 でも、嘘が苦手で、人の心が捨てきれない彼だからこそ、ほんの少しだけ逃げ道を用意してくれる。


 ほんの少しだけ、心が軽くなる。


「……それに、マシューとしての俺の結婚は記録に残るんだ」


 でも、次にぽつりと漏れたマコトの言葉に、睦子の胸はチクリと痛んだ。


 睦子が亡命を果たすために、二重国籍のマコトの英国人としての『マシュー・ケイレブ・エヴァンス』の妻という立場を借りる。


 陽宮(はるのみや)睦子ではなく、仏印サイゴン出身の華僑『()ヤン』、英国名『ハル・エヴァンス』として、妻になる。


 名前も存在も偽物だが、在テヘラン英国大使館で取得する予定の『ハル』の旅券(パスポート)及び結婚証明書は本物。


 英国本国へ記録は送られる。


 記録は残り続けてしまうのだ。


「そう言えば、そうね……」


 睦子は上手く言葉を紡げなかった。


「俺は妾の子なんだ。母はつらい思いをした……だから子供のときは、大人になったら、生涯でただ一人だけを大事にしようと決めていたのに……これは、何の因果だろうな。なので、俺の複雑な心境を汲んでくれると有り難い」


 マコトが珍しく身の上話をして、皮肉げに肩をすくめる。


 たぶん、これは、ほんの少しの恨み言だ。


 彼の『妻』の立場は、本当は簡単に貸してもらって良いものではなかったことを、今更ながらに痛感する。


 睦子はマコトの、洋の東西が混在した端正な顔の灰青色の瞳を見上げて、一度、目を閉じた。


 そして、伏し目がちに、少し遠慮がちに懇願した。


「……じゃあ、この指輪、あなたの手でもう一度はめ直して貰っていいかしら?」


 マコトは少し眉をひそめたが、何も言わず、睦子の手を取り、長く骨張った指で、一度外した指輪を薬指にはめ直した。


 睦子はマコトの手を握った。

 自分の手よりもずっと大きな手に、額を当てる。


「汝、マシュー・ケイレブ・エヴァンスは、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」


 せめて、今だけは彼の妻『ハル・エヴァンス』として、仮初(からりそめ)の誓いを立てようと思った。


 女帝ではない、生身の部分を、一時だけなら捧げても構わないと思った。


 だが、マコトは怪訝そうに眉を寄せた。


「おい、変な誓いを立てさせるな」

「キリスト教の結婚式ってこうじゃなかったかしら? あなたも『ハル・エヴァンス』もキリスト教徒ってことになっているでしょう?」

「茶番を始めるな。俺の複雑な心境、何も汲んでないだろ? 合ってるけど、違う」


 マコトは憮然とした表情をしている。


「私は誓ってもいいけど?」


 睦子は茶化さないで、真剣な目で見上げた。

 けれど、マコトは、首を横に振る。


「誓うな。どうせ嘘っぱちなんだから。神を冒涜するな」

「……冒涜?」

「冒涜だよ。神様に嘘をつくのは」


 思わぬところで、彼の『根』の部分に触れた気がした。


 ━━ああ、嘘じゃないのね。


 詐称身分(カバーストーリー)の一部ではなくて。


 極東の帝国の民の多くとは違う信仰が、彼の『根』にある。


 だから、マコトは今までもこれからも、睦子を『帝でもただの人間』として扱うのだ。


 ━━神の前では誰もが等しい。


 確か、そんな教えがあったはず。


 帝を、崇拝し忠誠を誓う対象にしないのも、『機関』として扱わないのも、そういうことなのだ。


 彼にとって『特別』ではなく、『当たり前』のこと。


 ━━女の子として扱われるのは『特別』だから、ではない。


 睦子はその『事実』に気づいた。


 だから━━。


「……アフワーズで、あんたは恋をしている『ふり』だと自分で言っただろう」


 目を逸らして言うマコトの横顔に、睦子は静かに頷いた。


「……そうだったわね。ごめんなさい。ふざけて悪かったわ」


 そう言うことしか出来なかった。


 そのとき。


 遠くからエンジン音が聞こえた。


 音が少しずつ近づき、ブレーキ音がする。


 自動車数台分のドアの開閉音が響く。


「静かに」


 マコトは銃を構えて警戒する。


「ラクダの少年に、英国憲兵に渡せと、駄賃と英語のメモを託したんだ」

「メモ?」

「場所と『英国大使館へ迎えを頼んでくれ』というメッセージを書いてな」


 睦子は息を呑む。


「っ、あなた、子供を使ったの?」


 あまり好ましい方法ではない。


 だが、マコトは涼しい顔のままだ。


「不確実だけど、敵の手にも渡りにくいんだ」


 最悪の場合は、子供が巻き込まれ、死ぬことも織り込み済みなのだろう。


 彼は、人の心も、心に根を張る信仰も、捨てられない。


 けれど優先順位をつけたとき、彼はひどく冷酷になることがある。


 やはり、この人は諜報員なのだ。


 睦子はこのとき、それを思い出した。


 ━━今にも泣き出しそうな目で、私に銃口を向けた。


 香港での彼を。


 任務の上で、睦子の優先順位が『今は』高い、そのことを。 


「英国大使館だと、いいんだがな」


 ソ連諜報員の襲撃か。


 英国大使館の迎えか。


「部屋の隅に隠れて。動くなよ」


 そう言って、マコトは立ち上がる。


 睦子は冷える指先を握り込み、部屋の隅で(うずくま)る。


 足音が、複数聞こえる。


 部屋の前で足音が止まる。


 マコトは、拳銃を構えたまま、扉に手をかけた。


次回、34話の更新は2026年2月12日(木)21時頃の予定です。

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