32.1945年(春和元年)9月 テヘラン④
━━私はマコトのことが、よくわからない。
睦子は、そう思う。
彼の感情は、顔に出る。
喜怒哀楽は察することが出来る。
でも。
━━彼は自分のことをあまり話さないから。
彼が、実は言葉を選んでいることも、必要以上に自分を語らない理由も、睦子には、おおよそ、察しがつく。
けれど、察しがつくことと、理解出来ることは、同じではない。
彼の沈黙の奥にあるものを。
━━私は、まだ、知らない。
*
ソ連の諜報員を撒いたマトコと睦子は、テヘランの迷路のような市場の中を、手を繋いで歩いていた。
今いる場所は食料品を売る店が多く、食欲を刺激する匂いが鼻腔をくすぐり、通り過ぎていく。
「あれ、美味しそうね」
睦子は目の前で炙られている串焼きの肉を覗き込む。
パチパチと音が鳴る炭で炙られ、立ち上る煙は芳しく香ばしい。
「……まあ、いいだろう」
マコトは売り子にペルシャ語で話しかけ、羊肉の串焼きを買う。
「調理工程はざっと見たが、俺が先に食べて大丈夫か確認する。いいな?」
「でも、市場で予定外に買ったものなら毒見は、いらないでしょう? さっきのパンと同じで、毒は入ってないわよね?」
睦子が首を傾げると、マコトは串焼きを持ったまま、顔をしかめる。
「……まさか、今まで毒殺だけを警戒していると思っていたのか?」
「他に一体、何を警戒しているの?」
「あんた、腐ったものの味とかわからないだろう? 食中毒対策も兼ねてるんだよ」
「……そうだったのね」
これは、マコトが言葉足らずで、説明不足だったせいで気づかなかったことだ。
語学には長けている━━なのにマコトは、言葉足らずなことが多い。
ペルシャ語も、本人の『片言程度』という発言が嫌味に思えるほど、マコトと地元民との意思の疎通には、言葉の壁を感じない。
ほんの数日、ペルシャ語を街で聞き流して、それだけで随分と上達している。
━━饒舌ではないのに語学が得意って、不思議よね。
「乾燥地帯の連中は物が腐るという意識が低いから、警戒するに越したことはないんだよ。それからインドより西の料理は香辛料をたくさん使うから、傷んでいてもわかりにくい。あと生焼け。ミディアム・レアとか新鮮でなおかつ衛生的に処理された肉じゃないと駄目」
でも、日頃は言葉数が少なくても、一度説明が始まると、理屈っぽくて長い。
だから、『いつもは声には出さないけど、頭の中ではきっと饒舌なのよね』と睦子は思っている。
マコトは向かい側の店のカラフルな瓶詰めを指さしながら、説明を続ける。
「ああいう酢漬けの野菜は駄目だからな。酢漬けでも腐ったものを酢漬けにしていたらどうにもできない。蜜漬けの果物も。火が通っていないものは買わないからな。皮のついた果実なら━━」
「わかったから、早くお肉を確認してくれない?」
「……ああ、悪い」
睦子がやんわりと遮ると、マコトは『少し話しすぎたか』とでも言うように眉間に皺を寄せた。
マコトが串焼き肉を先に半分食べ、睦子はその残りを貰った。
「皿とフォークやナイフなんて上品なものはないぞ。あと当然、箸もない」
「あなたがしたみたいに串にかぶりつけばいいんでしょ? 馬鹿にしないで。それぐらい出来るわ」
これだと、毒見というよりは、半分こ、というものに似ている気がする。
「これからどこへ行くの? 私たち」
串焼きを食べ終えた睦子が聞くとマコトは答える。
「さっきのパン屋で教えてもらったキャラバン・サライに一旦は身を潜める」
「キャラバン・サライ?」
「市場内にある隊商用の宿らしい」
「身を潜めて、それからはどこへ?」
━━このまま、どこかへ逃げるのだろうか。
二人で。
少し、淡く期待した。
「英国大使館の迎えを待つ」
でも、期待はあっさりと砕ける。
「英国からは逃げられないの?」
「大使館やMI6がここまで関わっているからには、正式な身分証も無く、これ以上動くべきじゃない」
「逃げられないのね?」
「逃げてもあっという間に捕まるか、逃げおおせても砂漠で野垂れ死にだ」
「……そうなのね」
マコトの言葉に睦子は、小さな諦観を、ため息に乗せて吐いた。
夢みたいな異国での、千夜一夜物語のような逃避行でも。
━━咄嗟のときに『睦子』と、ただの少女のように、名前を呼んでくれても。
無意味な無謀に、付き合ってくれる人ではない。
彼はどこまでも、現実的。
━━それは、わかっている。
睦子はマコトに手を引かれ市場のアーケードから一本脇道へ入った。
数段の階段を下り、門をくぐると、二階建てのペルシャ風の長屋が両側に並ぶ通路があった。
一階は、ここもまた店舗だった。
ただし、穀物や油を売る店や馬具を扱う店など、アーケード街とは少し趣が異なる。
さらに進むと急に視界が開けて、明るくなった。
西日が空を染めていた。
キャラバン・サライは中庭にロバやラクダや馬を繋ぐ場所があった。
ヒトコブラクダの側にいたペルシャ人と思われる少年が、睦子を指さし、何か叫んだ。
すると、マコトが珍しく、プッと吹き出した。
「何よ?」
睦子が怪訝そうに聞くと、端正な顔を破顔一笑させたマコトが言う。
「あんたの目、ラクダの目に似てるってよ」
「似ているかしら?」
ラクダは深い色の黒い目と長い睫毛。
睦子の目も黒曜石のような深い色で、睫毛が長い。
睦子が、どうかしら、と見つめて、確認するため近づこうとすると、ラクダはブルルと、霧状の何かを吐いた。
それを見た少年がゲラゲラと腹を抱えて笑う。
「これ何!? すごく臭いわよ!」
少年が身ぶり手ぶりを交えて、何かを言った。
マコトはそれを笑いながら訳す。
「ラクダって威嚇で唾を吐くんだって。目が怖かったんだろうって」
「ちょっと、目が怖いって何よ?」
「うわ、本当に臭い」
「鼻をつまんで笑わないでくれるかしら」
「いや、これは失敬」
「ちょっと、笑うのやめなさいよ。失敬だと思ってないでしょ?」
「思ってない」
クツクツと笑いながら、ハンカチを取り出すマコトに。
怒りながら、睦子は思う。
━━こんなふうに、少年みたいな顔で笑うこともあるのね。
新しい一面を知るたびに。
まだ、知らない。
まだ、わからない。
言葉少ない彼の心の奥を知りたい━━と思ってしまう。
睦子はハンカチを受け取り、顔を拭いた。
ふと、顔を上げると、赤い夕日が目に入った。
眩しくて、左手をかざすと、薬指のガーネットの指輪が陽光を反射し、煌めく。
その燃えるようなガーネットの深い赤を眺めてから。
睦子はマコトの涼やかな灰青色の瞳を見つめた。
「あなたは、どうして、自分のお金で、私に指輪を買ってくれたの?」
━━その真意を知りたい。
それは駄目な問いかけだとわかりながら、唇から言葉が滑り落ちてしまった。
マコトの顔から一瞬、笑みが消えた。
次回更新は2026年2月2日(月)21時頃を予定してます。
ちょっと変則で来週の月曜です!




