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30.1945年(春和元年)9月 テヘラン②

「Matthew, ……t’as vu que tu étais suivi jusqu’ici ? (マシュー、……写真館(ここ)まで尾行()られてたの気づいてる?)」


 エリザベスが鈴のような声で言った。

 少し拙い、舌っ足らずに聞こえるフランス語。

 しかし、青い目の眼光は鋭い。

 

 英国名で呼ばれたマコトは、片眉をピクリと上げる。


「Évidemment que je l’ai vu.(気づいてるに決まってるだろう)」

 

 マコトがフランス語で低く返す。


 この写真館の店主はペルシャ語を話し、英語とロシア語は少し理解出来るが、フランス語はわからないようだ。


 エリザベスがやれやれと肩をすくめる。


「よかった。恋は盲目で周りが見えてないかと思った」

「恋は盲目て何だよ……」

「言葉通りに決まってんじゃん」


 何だか物凄く不名誉な誤解を受けている気がするが、否定するのも面倒なので、マコトはこの件に関しては沈黙することにした。


 睦子(ちかこ)は口に手を当て、大仰に驚いた。


「リズ、私、気づいていなかったわ……これが恋は盲目?」

「あんたはいいの、諜報員(エージェント)じゃないから。素人だから」


 エリザベスは睦子にだけ、少し甘い。

 だが、マコトには厳しい。


 うんうん、と頷いている綾小路とダニエルも濃淡はあれど、マコトに厳しい。


「僕が見たところ、向かいのカフェに二人、路地のところにもう一人、おりますなあ」


 綾小路がいつもの西の方言のアクセントが滲むフランス語で言う。

 彼は公家華族の生まれの外交官だが、調査局第二課に所属していたので『諜報畑に隣接する外交官』だ。


「今のところは様子を窺っとるだけのようやけど」


 なので、見えているのかよくわからない糸目だが、こういったことには目ざとい。


「見えるとこにいるなら、裏通りにもいるだろうなぁ、こりゃあ。店主、この店に裏口はあるかい?」


 ダニエルは前半はフランス語で言い、後半は英語で店主に問いかけた。


「あるが、お客さん。一体何に?」

「ああ、その前に花嫁の着替えをだな。店主、着替える場所を貸してくれ。ちょっと荷物も整理したいから、二階の部屋を借りるぞ」


 ダニエルは大仰に腕を広げて、早口の英語で捲し立てる。

 ここは在イラン英国大使館の、少々訳ありの客の御用達━━翌日特急仕上げなどの『亡命者向け』も扱う。

 店主は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は聞かず、二階へ向かう階段を指さした。



「ハルはあっちの衝立の裏で着替えて」


 エリザベスが睦子に指示を出す。


「どれに?」


 首を傾げる睦子にエリザベスが詳細な指示を伝える。


「さっき仕立て屋で受け取ったやつ。灰色のツーピースもあったじゃん。白のままじゃ目立つから」

「ああ、あれね」

「ほんとはあたしの服と変えれたらいいんだけど、あんた、でかいから」

「私が大きいんじゃくて、リズが小さいのよ?」

「いいや、あんたがでかい」

「でも、少し丈が足りなくて良ければリズの服、着られるんじゃないかしら? 私、細いから」

「丈も幅もあたしの服じゃ全然足りない。特に横幅」


 エリザベスが仁王立ちで言い切る。

 

 睦子の身長は東洋人にしては高めで、胸もお尻もしっかりある。

 対してエリザベスは西洋人にしては小柄で、妖精みたいな華奢な身体つきだ。


「私はスラリと背が高いだけよ。腰は細いのよ」


 睦子が衝立の向こうで、不平不満を漏らし、着替えを始める。


 エリザベスがマコトとダニエルを見て指差す。


「あんたたち、お互いのスーツ、変えられる?」


 マコトとダニエルは、うーん、と渋い顔を見合わせてみてから、試してみる。


「トラウザーは、オーケー、丈は大丈夫だな」


 ダニエルは、ベルトを少しきつめに締めながら言う。


 マコトとダニエルの身長はダニエルが一インチほど高いだけで、足の長さとウエストはそれほど変わらない。


 問題はジャケットだ。

 羽織ってみたマコトは小さくため息をつく。


「……やっぱり、肩幅が余るな」


 ダニエルはおそらくは英語のわずかな訛りから推測するにスコットランド系だ。

 痩せて見えても、肩幅の骨格が大きい。


 マコトのほうが筋肉質なので、胸板の厚みはあるし、身長は西洋人並みだが、東洋人との混血なので、どうしても骨格自体が生来華奢だ。


「マシュー、お前のジャケット、着られなくはないが肩幅が狭いぞ」

「でしょうね」


 ダニエルのほうも予想通りだ。


「着れなくないなら、そのままいって。あたしとハルはどうしても無理じゃん。ハルのお尻が大きいから」


 エリザベスが辛辣に言い切る。


 衝立の向こうから睦子が「大きくないわよっ」と反論する。


 マコトとダニエルは渋々ネクタイも交換する。


「で、衣装を変えるのは陽動でっしゃろか?」


 綾小路が相変わらずの糸目のまま、淡々と聞く。

 彼は東洋人の標準より少しだけ身長が高めの中肉中背男性なので、誰とも服を変えられない。


「そう。ハル、着替え、終わった?」

「終わったわよ」


 睦子が灰色のツーピーススーツを身に着けて、衝立から姿を現した。


「近くで見たら、あたしのとはデザインも色も全然違うけど仕方がないか。スカーフだけ変えよう」


 エリザベスは自分の頭に巻いていた小花柄のスカーフを外して、睦子の頭に巻く。


「悪いけど、さっき市場でマシューが買ったスカーフ貸してもらっていい? 髪は隠さないと遠目でも、あたしがあんたに見えない」


 睦子は黒髪、エリザベスは亜麻色、どう見ても色が違う。


 ちなみにマコトは明るい栗色で、ダニエルはくすんだ茶色。

 色味の違いはあれど明るさは大きな差がないので、帽子を被れば誤魔化せる。

 ただし、マコトのほうがかなり小顔で頭周りが小さいせいで、帽子は大きさが合わず、交換出来ない。


「……スカーフ、他のものじゃ駄目かしら?」


 睦子の言葉にエリザベスが首を横に振る。


「尾行してた奴らが買ったところを見ていたから、あれがいい。身長が違いすぎるから、それでもあんたに見えるか怪しいけど」

「……私のふりをするの?」

「そう」


 エリザベスが頷く。

 睦子はどこかが痛んだような顔をする。


「リズ、やるのか?」

 

 ダニエルが念を押すように聞く。


「うん、あたしが囮をやるよ。尾行してる連中が、ソ連の奴らなら、手出ししてくる前に叩いておいたほうがいい。宿に戻るのも危ない」


 尾行していた男たちの顔は、主にスラブ系で、時折ロシア語が聞こえた。


 ソ連人だろう。

 おそらくは内務人民委員部NKVD(エヌカーヴェーデー)の下部組織の諜報員だ。


 今のテヘランは北側がソ連管理地域、中央部がイラン政府管理地域、南側が英国管理地域だ。


 だが、はっきりと境界があるわけではなく、三者による共同管理に近い。

 街路ごとに兵士や警察の国籍と言語が変わる複雑奇怪な支配体制だ。


 今いる写真館は英国大使館の南に位置し、南側の市場(バザール)との間にある。


 イラン警察とインド系の英軍憲兵が共同で治安維持に当たっており、比較的治安が良い場所だった。


 つまり英国側からすれば明確な『荒らし』行為だった。


 境界が曖昧とはいえ、縄張りは存在する。


 そして、英国は戦時占領体制の終了に向けての撤退準備には入っているのに対して、ソ連は撤退を渋っているらしい。


 それらを踏まえて、MI6の二人としては見過ごすわけにはいかないのだろう。


「ハルに同行している私たちの面子もある。ハルのためだけじゃないさ」


 済まなそうな顔をする睦子に、素っ気なくダニエルは言う。


「リズと私は、裏口から出て、あんたたちのふりをして、ソ連諜報員たちを引きつける。人が裏口に集まったのを見計らって正面から行け。それから、速やかに英国大使館へ、保護を求めろ。どうせ明日には行く約束だ。大使館側も無碍にはしないだろう」


 綾小路は頷く。


「今の大使と僕は顔見知りやよって、多少の融通はききますさかい」


 そして、薄く笑う。


「英国大使館で身柄を拘束は、されないんだろうな?」


 ここまで、作戦には口を挟まなかったマコトが懸念を口にする。


 香港で英国海軍は女帝・睦子の身柄を確保しようとしていた。

 マコトが所属していた特務機関『不二組』が、引き渡し前に睦子を逃し、今に至る。

 だが、ここへ来ても、連合国軍側へ身柄を引き渡される危険性は、完全には消えてはいない。


「絶対にない、とは、よう言いませんが、配偶者旅券(パスポート)を融通してくれるという約束は取り付けてます。英国(かれら)はソ連と違って約束は守ってくれはるから」


『どちらが安全か、わかってはるか?』とでも言うように、綾小路の唇は、緩く弧を描いた。


次回31話の更新は、2026年1月15日(木)21時頃を予定しております。

久しぶりのアクション回ですよ!

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