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02.1945年(春和元年)7月 上海②

 ━━設定(カバー)に元々少々、いや、かなり無理があるんだよな。


 それでもマコトは命令通りに演じていた。

 日々、取り繕いながら、辟易していた。


 ━━おそらく『ソ連の外交関係者が秘密裏に女帝に接触している』これ自体が何かの偽装の役目を果たしているのだろう。


 任務の影響について『推定』なのは、マコト自身も、作戦の全容を把握していないからだ。

 この任務に就いてから、連絡員との接触がない。

 追加の情報もほとんど入ってこない。

 東洋人離れした容姿の性質上、陽動に使われることには慣れている。

 今回も、か、と思う。

 そういうものだと割り切って諦めている。

 帝国陸軍特務機関の諜報員たるもの、情報がなくとも、その場で最良の選択と行動を、と叩き込まれてきた。


 いつもなら、割り切って気にしない。


 たとえば、女帝のお付きの者がどんどん減っているとか、そんなこと、気づいていても、気にしない。


 いつもなら、裏で別動班が極秘任務を遂行しているから、陽動班の自分は気にしても仕方がない。


 それに、今上帝睦子(ちかこ)の陣営は、おそらくこの先、何の展望もない。

 何せ、敗戦処理のための使い捨ての女帝だ。

 秘密裏の疎開と言えば聞こえはいいが、厄介払いに近い形で、本土の帝都から大陸の上海へ移されている。

 見切りをつけた不忠義者が、この泥舟から逃げ出しているだけで、工作絡みでない可能性も大いにあった。


 帝国の制海権は春頃に完全に失われ、上海から本土との定期航路は途絶して久しい。

 だが、鉄道をいくつか乗り継げば朝鮮半島の南端、釜山(プサン)までは行ける。

 釜山から博多行きの船があるとも聞くが、今の戦況だと、どの程度運航していて、どの程度触雷せず、たどり着けるかは運任せだ。


 それでも逃げ出すような浅慮な者なら、その運に縋るだろう。

 

 もしくは、誰かが誰かの命令で、少しずつ側近たちを始末していっている場合もあるが……連絡がないなら、様子見で良い、ということだ。


 普段なら、そこまで考えて、自分の身に危険が及ばないよう気をつけよう、と終わる話だった。


 だが、睦子には、憶測の域を出ない、ある疑惑があった。


 普段なら気にしても仕方がない、と与えられた任務をこなすだけ。


 いつもなら気にしない、しても仕方がない、大抵、知らないところで、事態は動く。


 なのに、なぜか、放置するにはどうにも腹落ちしない。

 

 仕方がないので、その疑惑を探るため、監視のついでに、聞き出す機会を待っていた。


 聞き出すには、間を持たせなくてはならない。


 それゆえに、マコトは女帝と日々無為に。

 チェスや囲碁将棋、カードゲームなどに興じたり。

 ピアノの連弾に付き合ったり。

 レコードや活動写真の鑑賞など。

 様々な健全で実にくだらない遊戯で、時間を潰し、滞在時間を引き延ばしていた。


 そのうち、諜報員の仕事をしているのか、外交官の仕事をしているのか、はたまた遊び相手をしているのか、よくわからなくなっていた。


 ちなみに今日はポーカーだった。

 金銭は賭けていないが、睦子のお印である蝶の紋様が入った銀の砂糖菓子入れ(ボンボニエール)が一応、懸かっていた。

 お飾りで使い捨ての女帝の、おそらく、あまり有り難くない品。

 いや、南方からの物資が滞り、砂糖菓子は貴重になっているから、中身のほうが価値が高いな、とマコトは皮肉げに思う。


「侍従長が消えたわ」


 睦子は手札を捨てながら、今日は晴れね、みたいな声で言った。

 実際、夏の晴れやかな濃い青空が、薄いレースのカーテンが翻る窓から見えたが、言葉の内容は晴れやかとは言い難い。


「ジジュウチョー?」


 マコト、いや、アレクサンドルはロシア語のアクセントを強めて、とぼけたふりをするが、睦子の側近全員の顔も名前も経歴もすべて頭の中にある。


 ━━牧原(まきはら)侍従長か。


 牧原寛太郎(かんたろう)

 海軍大将から帝都東京明知(めいち)神宮の宮司を経て、女帝の践祚に伴い侍従長に就任した男だ。

 六十代で見た目はいかにも好々爺だが、逃げ出すような腰抜けでも、簡単に消されるようなヤワでもない、という印象だった。


 これはさすがに妙だ。


 睦子も妙だと思い、わざと手の内を明かしたのだろう。


 形の良い小さな薄紅色の唇は音にせず、言う。


『何か知っている?』


 部屋の隅で控える女官長の青木からは、睦子の口元は死角になっている。


 マコトは『Я не знаю(しらない)』と軽く首を横に振った。


 知らないものは、答えようがない。


 睦子はワンペアの役しか出来ていないカードを表向きにして、テーブルに置いた。

 長い脚を組み直して、小さくため息をつく。

 脚を組むなど、やんごとなき御方『らしくない』所作だが、東洋人にしては背が高く、洋装がよく似合う睦子がすると、妙に艶やかで様になる。


「ボンボニエールは持って帰っていいわ」


 こちらを窺う黒曜石の瞳が尊大な態度で『調べてくれるかしら?』と言っている。


 正式に依頼されたわけではないから、受け流してもいいが、長い睫毛に縁取られた大きな三白眼気味の目は、どうにも圧が強い。

 

 端的に言えば、なんだかとても断りづらい。


 マコトは渋々頷き、有り難くない『依頼料』を手に、この日は退出した。



   *



 この日の夕方、マコトは、ソ連外交官アレクサンドルとして滞在している淮海中路(わいかいちゅうろ)近くのホテルではなく、虹口(こうこう)のユダヤ人居住地区上海ゲットーにほど近いアパートにいた。


 このアパートは難を逃れたが、数日前にゲットーのほうで空襲があったばかりだった。


 もう、ここも安全ではないから、そろそろ引き払いたいな、と考えを巡らせながら、ゆったりとした麻の背広に着替え、ユダヤ系イタリア人の商人に見えるように身なりを整えて、パナマ帽を被り、有り難くない品を懐にしまい、北四川路(きたしせんろ)のとある情報屋の元へ向かった。


 有り難くない『依頼料』は、おいそれと換金できない代物なので、一旦はマコトの持ち出しとなる。


 後で絶対経費精算してやる、精算する前に滅びるなよ帝国、と思いながら、依頼内容の暗号文のメモと1ポンド札を十枚ほど束ねたものを情報屋へ渡した。


 情報屋の古本屋の中国人店主は、


「最近はさっぱり荷物が来ないから、なくしてしまったというご依頼の本もどうだかねえ」


 と言いながら、メモと前金はすっ、としまいこんだ。


 情報が手に入るかどうかは、五分五分か。

 いや、もっと低いかもしれない。

 本代内金、と但し書きされた領収書が経費精算される確率と同じぐらいだろう。

 割に合わないな、と思いながらそれを財布にしまい、古本屋を出る。


 夕闇に包まれると上海は一気に昏くなる。


 新古典主義やアールデコ調の華やかな高層建築は光の当たらない影を生み、光の当たらない影には、昏い住人たちが蠢く。


 灯火管制がそれに拍車をかけていた。


 闇市の屋台で簡単に夕食を済ませて、ねぐらに戻ろうと足早に歩いた。


 そして、少し人気の途切れた路地で、見知った男とすれ違った。

 

 呼び止めたかったが、この商人に扮した姿では、呼び止めることはできない。

 このまま立ち去るしかないと思った。


「ミスター・イグナチェフやないですか? 今日は眼鏡しとらへんのですか?」


 しかし、向こうが声をかけてきた。

 コンマ数秒、悩んだ末に立ち止まる。

 変装が甘かったか、と内心歯ぎしりをしたが、平静を装い、相手に向き直る。


 帝国の西、古都がある地方の方言で話す男の名は、綾小路(あやのこうじ)実頼(さねより)


 女帝、睦子の外交顧問。


 綾小路子爵家の次男。

 歳は確か三十五だったか。

 外務省の官僚で上海総領事館勤務をふりだしにイラン大使館、トルコ大使館で参事官を務め、照和十六年に帰国。

 以降、本省調査局第二課で情報分析を担当し、春和元年二月に宮内省へ出向。


 経歴を思い浮かべながら、マコトは綾小路の顔を見た。

 綾小路は糸のような細い目をしている上、さらりとした前髪が目元に落ちているので、この昏がりでは目が合っているかどうかすらわからない。


「どこへ行くんですか?」


 マコトは旅行鞄を片手に持った綾小路に、低く問いかけた。


 制圧して、拉致し、拷問で吐かせるのが最適か、否か。

 

 背広の下の脇に吊った拳銃に手を伸ばす動作の前に、綾小路は言う。


「物騒なもんは出さんといてや。耳の形なんかは変えられへんねんから、変装したかって、よう見たら、あんたやってわかるわ」


 マコトは心の中で舌打ちをする。


 調査局第二課はソ連及び西アジアの情報収集を担当している。

 綾小路は外交官といえど、諜報畑に隣接するような経歴の持ち主だ。

 耳の形は個人を識別するのに有用で、それを日頃から観察する習慣があっても不思議ではない。


 この男は油断ならない、思っていた以上に。


「それから僕の用事はあんたと同じでお国のお使いや。拷問とか、そないなことしても絶対に吐きはしまへんよ」


 軽口のように聞こえるが、綾小路の声には凄みがあった。

 拷問にかけられても吐かない覚悟はあるのだろう。

 ならば、と静かにマコトは言う。


「吐かなくても、あなたを人質にして帝に吐かせることは出来ます」

「お(かみ)は……あの子は何も知らんから無駄やで」

「本当に何も話していないのか?」

「何も話してへんよ」


 女帝の弱みにならないよう、綾小路は何も話していない。

 念押しで聞き返したが、静かな返答には嘘の気配は感じない。

 綾小路を人質に女帝に吐かせる手は使えない。

 想定内ではあるが。


 ━━やはり本人に吐かせるしかないのか。


 綾小路はマコトの内側を見透かしたようにへらへらと笑う。


「嘘ついてもしゃあないやろ。それに拷問かけるのかて手間やで、って言いたいだけや。あんた、そんな趣味あらへんやろ?」

「拷問ぐらいはなんとも思わんが、あんたに俺の何がわかるんだ?」


 なんとも思わなくはないが、必要なら拷問も平然とやってのける。

 マコトは冷たい色の目で綾小路を見据える。


「何がわかってるって、あんたのことは、お上がソ連の人間やないって気づいてるぐらいしか、僕も知らんよ」


 そう言って、綾小路はニィと口角を上げる。


「まあ、おおよそ帝国軍のどっかの情報部が送り込んできたんやろうとは思ってるけど、お上に危害を加えへんねやったら、まあええわって放ってるだけや」


 悔しいことに、おおよそ正解だ。

 そして、いつでも排除することが出来た、そう言っているようにも聞こえる。


「それから、あんた美形やさかいに、女帝を色仕掛けで懐柔するかと思ったら、ただ昼の遊び相手をしとるだけやし、お人好しか腰抜けやな、っていうんが僕の見立てやけど?」


 癇に障る言い方に、今まで黙っていたマコトも強い言葉を返す。


「そんな面倒はしない。あの御方にそこまでする価値がないだけだ」


 睦子には実権がないので、そこまでして取り入る価値がない、と思っている。

 綾小路は一瞬、眉をピクリとさせたが、すぐ笑顔に戻って言う。


「お上は別嬪さんやけど、価値がわからへんのやったらしゃあないな。価値がわからへん、面倒が嫌、やったら、まあ、僕の拷問もなしや」


「あの御方の価値は残念ながらわかりはしないが、面倒は嫌だから拷問はなしで、今、あんたをここで消してもいいんだが?」


 マコトは脅し文句を言いながらも、綾小路の何か含みがありそうな台詞に、怪訝そうに眉をひそめる。

 すると、綾小路は小さく乾いた笑い声を立てた。


「いやあ、でも、それやったら、後がだいぶ面倒になるで。僕にどういう価値があるか、今のあんたにはわかってへんやろ? それなら僕を泳がしといたほうがええ。消したところで後が、なーんもわからんようになるだけや」


 たぶん、その通りだろう。

 綾小路は胡散臭いが、彼の言には一理ある。

 マコトの任務は『ソ連外交官のふりをして上海に潜伏する女帝に接触し、本物のソ連関係者の接触を防ぐ』だ。

 そして、この後に続く『もう一つ』の任務がある。

 ここで下手に側近を自らの手で消してしまえば、面倒なことになるかもしれない。

 次の任務に支障が出るかもしれない。

 しかし、綾小路のこの動きは、『ある疑惑』の兆候かもしれない。

 だが、それはあくまで、個人的な憶測の域を出ていない。

 だから、優先順位は低い。

 

「滅びた帝国の都で、また会いまひょ」


 そう言って、綾小路は踵を返し、夕闇の闇市の雑踏へ紛れていった。


 マコトは追おうとしたが、ここは引こうと、立ち止まり、ねぐらにしているアパートへの昏い道を急いだ。

 

 綾小路はそのまま女帝の仮御座所である上海萬陽ホテルには戻らず、行方知れずとなった。


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