26.1945年(春和元年)9月 バンダル・シャプール
乾いた風には、鉄と油の匂いが混じる。
桟橋から港湾施設内部へ向かうと、倉庫や軍関係の施設がまばらに建っていた。
格納庫のような無骨な駅舎や、剥き出しの鉄道終端構造から、荒野へ向かう線路が伸びる。
星条旗や英連邦の旗が、強い風に吹かれて翻る。
「まるで連合国へ護送されているみたいね」
睦子は砂混じりの風に乱される黒髪を押さえながら、皮肉げに、小さく呟いた。
━━1945年(春和元年)9月下旬、イラン、バンダル・シャプール。
バンダル・シャプールという港は、イラン縦断鉄道のペルシャ湾側の終着駅でありながら、賑わいからは程遠かった。
今年の五月に欧州戦線が終了するまで、連合国により民間人の立ち入りが大幅に制限されていた軍港であるにしても、違和感が拭えない。
バンダル・シャプールには、一般人が暮らす街と呼べるものが存在しない。
連合国管理からイラン政府への返還途上で、一般貨物の取り扱いも再開しているし、港湾労働者や貿易商の居住区は存在するようだが、それらすべてが必要最低限だった。
軍港であれども、柵の外は民衆が商売のために集い、賑わいを見せる極東━━それをよく知る香港生まれのマコトは、いささか面食らった。
━━先行隊の案内人と、港で落ち合えない理由はこれか。
ソ連まで軍需物資を運ぶペルシャ回廊、その起点たるバンダル・シャプールは、戦前の建設当初より、物資や資源、主に石油を運ぶために作られた港だ。
中洲にあり、桟橋だけで荒野の大陸へと繋がっている。
保安上の問題なのだろう。
余所者が逗留したり、紛れ込むような隙がない。
━━なるほど、これが連合国の強固な兵站の一端か。
マコトは諜報員の癖とも言える視点でバンダル・シャプールを観察した。
建物の位置と数。
兵士の出身国の構成と数と配置。
港湾労働者の様子。
ディーゼル機関車の数と型式。
貨物車の数と積荷の種類。
写真機がないので、後で正確に書き起こせるように記憶する。
そして、自嘲するように笑った。
「何か、可笑しいの?」
睦子が怪訝そうに聞く。
「いや、何でもない」
マコトは、首を横に振り、答えた。
━━もう、情報を持ち帰る場所はないというのに。
極東の帝国は敗戦し、マコトが所属していた陸軍特務機関『不二組』は事実上解散している。
女帝睦子のトルコ、イスタンブールへの亡命━━その護衛任務、これが最後の任務であり、この旅は片道切符だ。
イスタンブール以降のマコトの行き先は決まっていない。
とりあえず、次の目的地はアフワーズ。
バンダル・シャプールから一〇〇キロほど北上した地点にある。
特務機関『不二組』のリーダー、藤木中佐から伝えられた案内人との合流地点だ。
アフワーズは川のほとりで古くから栄える街なので、余所者が滞在することが出来る宿があるはずだ。
「久しぶりじゃないか!」
同行するMI6の諜報員、ダニエル・スペンサーが、英国陸軍の兵士に声をかけ、肩を叩き合った。
「ちょっと待っていてくれよ」
そして、港湾事務のうちの一棟と思しき建物へ消えていった。
マコト、睦子と、ダニエルの相棒のMI6諜報員エリザベスは、そのまま取り残された。
海が近い、とはいえ、砂浜ではなく、灼熱の四〇℃超えの砂漠である。
真昼の太陽は、ジリジリと三人を容赦なく焼くように、真上から照らす。
「日陰! 日陰に移動しましょう!」
暑さに関しては滅法堪え性のない睦子が、三白眼気味の大きな目をくわっと見開いて言い出したので、マコトはエリザベスを一瞥する。
エリザベスもここで砂にまみれて焼けるのは嫌だと言わんばかりに、スカーフの隙間から溢れる亜麻色の髪を揺らして、頷く。
「いいよ。何か言われたらあたしが説明するから」
「リズ、出来たら椅子がある場所がいいわ」
「そんなところ見渡す限りないよ。トランクに座ればいいじゃん。我慢して」
マコトが船上で寝込んだときに護衛を数日任せて以来、エリザベスの態度は軟化し、睦子はエリザベスを『リズ』と愛称で呼ぶようになった。
二人の間でどういったやり取りがあったのか、マコトは聞かされていない。
睦子が『乙女の秘密よ』と濁すからだ。
マコトは今一つ釈然としない気持ちで、砂が目に入らないように眇めた目で、荒野を見渡した。
*
汽車がゴトゴトと音を立てて動き始める。
貨物車に強引に一両だけ連結されたコンパートメント式の一等車に四人は乗っていた。
この車両に他の乗客はいない。
「随分と大げさな車両が連結されちまったな」
英国陸軍と交渉したダニエルが額の汗を拭いながらハハハ、と笑う。
座席のクッションの角は擦り切れている。
床も砂埃でざらついている。
型式だけ、辛うじて女帝の品位が保てる程度の車両だ。
高貴な者として遇するわけでもなく、全くの一般人と扱うわけでもない。
実に微妙な立場であることを物語っている。
そんな英国陸軍の対応に、マコトは眉をひそめた。
でも、最早、交渉するパイプすらないので、何も言えない。
もう、特務機関の協力者がいる地域ではない。
マコトは、もう、一英国人としての権利しか有していない。
マコトの隣、窓際に座る睦子は頬杖をついて、ため息をついた。
「随分と嫌味ね」
いささか不機嫌そうな睦子を守るためにも、向かい側に座る英国諜報員たちの力を借りなくてはならない。
車窓の荒野が、睦子の横を流れていく。
異国へ、遠ざかれば遠ざかるほど、出来ることが減っていく。
それをマコトは実感せざるを得ない。
━━今まで積み上げたものは何だったんだろうか?
忸怩たる気持ちを抱えて俯く。
すると、対面窓際に座っていたエリザベスが唐突に立ち上がる。
「他に誰もいないなら、歌っていい?」
「は?」
マコトは怪訝そうに顔を上げる。
エリザベスがすうっ、と息を吸う。
「L’amour est un oiseau rebelle,Que nul ne peut apprivoiser.(愛は気まぐれな鳥。誰にも飼いならすことなどできない)」
そして、腹から旋律を吐き出す。
「Et c’est bien en vain qu’on l’appelle,S’il lui convient de refuser.(呼んでも来ることはないし、嫌だと思えば逃げてしまう)」
エリザベスの小柄な身体に似合わない力強いソプラノの響きに圧倒されて、驚く。
曲はフランスのオペラ、カルメンの『ハバネラ』。
一八七〇年代のスペインを舞台にした、自由を愛するジプシーの女カルメンと、恋に狂った男の破滅の物語で、『ハバネラ』はその有名なアリアだ。
「Rien n’y fait,menace ou prière,L’un parle bien, l’autre se tait;(脅しても、祈っても無駄なの。一人はよくしゃべるけれど、もう一人は黙っている)」
睦子も小さく口ずさむが、歌はあまり上手くない。
「Et c’est l’autre que je préfère,Il n’a rien dit, mais il me plaît.(私が好きなのは、黙っているほうよ。何も言わないけれど、私を惹きつけるの)」
少しばかり音が外れている。
だが、ちらりとマコトへ寄越す視線は、気まぐれなカルメン、そのものだ。
エリザベスの選曲は、睦子のためだろう。
自由を愛する女の歌は、皮肉か、慰めか、その両方か。
でも、男を翻弄する女の歌は、彼女によく似合う。
━━自分が、睦子に翻弄されているから、似合うと、思ってしまうのか。
恋に狂って破滅するのは避けたいが━━。
マコトは、エリザベスの声量抜群のソプラノと睦子の調子外れの細い高音に耳を傾ける。
荒野に流れていく奇妙な響きの二重奏に、ほんの少しだけ、心が慰められる。
歌が終わると、睦子は拍手をして感嘆の声を上げる。
「リズ、上手ねえ、歌手みたいだわ」
「あたし、これでもミュージカル女優の端くれなの。船じゃ目立つじゃん。歌えなくって。やっと歌えてスッキリしたー」
両手を上げて伸びをするエリザベスに、ダニエルはやれやれと肩を竦める。
「リズが歌うと声が大きすぎるからなぁ」
確かに、この声量では機関室以外には聞こえてしまうだろう。
「ねえ、誰もいないってことは、コンパートメントの外の通路を思いっ切り走っても、怒られないかしら? 私、船で運動不足で」
「やめなさい。通路は走るもんじゃありません」
いいことを思いついたとばかりに睦子が言うので、ダニエルはまるで引率の教師のように嗜める。
マコトは呆れたように呟く。
「修学旅行じゃないんだからな……」
すると、睦子はまた何か碌でもないことを思いついたのか、人の悪い笑みを浮かべている。
「じゃあ、今夜は宿で枕投げでもやりましょうよ」
だが、内容は可愛らしかったので、マコトは少しばかり安堵する。
エリザベスが聞く。
「枕投げって、何?」
「とりあえず、消灯時間後にこっそり違う部屋へ集まるってことだけはわかっているわ」
しかし、少しばかり認識がズレていたので、『皇女様』が参加するようなものではない、と仲間に入れてもらえなかったと推察出来た。
━━誤って枕を当ててしまったら、皇族へ暴力を振るった、と大ごとになりそうだな。
マコトは少しばかり複雑な心持ちになった。
そうして汽車に揺られ、太陽が完全に西に傾いた夕刻、アフワーズに到着した。
日干し煉瓦の駅舎の外には人々の生活の営みが感じられる猥雑な市街が広がっていた。
荷馬車やトラック、人々が行き交う市街と夕日を背に、中折れ帽に背広姿の東洋人の男が立っていた。
糸のような細い目をしている上、さらりとした前髪が目元に落ちている。
逆光では目が合っているかどうかすら、わからない。
「お上」
男は、マコトと腕を組む睦子に向かって、公家言葉で帝を指す尊称を呼んだ。
「お上がご無事であらっしゃたこと、何よりでござります」
脱帽し頭を下げる。
「綾小路、頭を上げて」
睦子が言うと、綾小路と呼ばれた男は頭を上げる。
さらりと直毛の黒髪が揺れる。
「ミスター・イグナチェフもお元気やったようで、何よりやわ」
マコトが上海で名乗ったソ連外交官の偽名を呼ぶ、棘のある、アクセントが強い言葉。
帝国の西、古都がある地方の方言で話す男の名は、綾小路実頼。
女帝、睦子の外交顧問。
綾小路子爵家の次男。
歳は確か三十五だったか。
外務省の官僚で上海総領事館勤務をふりだしにイラン大使館、トルコ大使館で書記官を務め、照和十六年に帰国。
以降、本省調査局第二課で情報分析を担当し、春和元年二月に宮内省へ出向。
経歴を思い浮かべながら、マコトは綾小路の顔を見た。
━━彼がここからの案内人か。
ダニエル・スペンサーとエリザベスが英国政府の紐付きならば、綾小路は帝国『現政府』の紐付きだ。
「滅びた帝国の都より、早うお会いできましたわ」
表情が読みづらい細い目を三日月のようにして、綾小路は笑った。
次回27話の更新は、2025年12月18日(木)の予定です。
外交顧問綾小路、2話目以来の再登場です(長かった)
綾小路のイラン、トルコ大使館での職位、参事官→書記官に修正しました。




