25.1945年(春和元年)9月 アラビア海②
「This is…… what she used to give me」
ポリッジを食べたあと、マシュー・エヴァンス……いや、マコト・サワシロが、ぽつりとつぶやいた言葉。
それを思い出したあの子は、涼やかな声で繰り返す。
甲板に吹く風に肩上の黒髪をなびかせて。
チカコは寂しそうな顔をしていた。
*
あたしの名前は、『エリザベス・スペンサー』。
というのは世を欺く仮の名前。
本当の名前はリズベス・ターナーという。
英国秘密情報部、MI6の諜報員。
あたしの隣を歩いている人は『ハル・エヴァンス』。
というのも世を欺く仮の名前。
本当の名前はチカコ・ハルノミヤという。
東の果ての島国の女王様。
ああ、女王じゃなくて女帝だっけ?
まあ、どっちでもいい。
どっちでも、あたしから見れば、彼女は何でも持ってるお姫様だ。
戦争に負けて亡命中のお姫様に『何でも持ってる』なんて、変な話に聞こえるかもしれない。
けど、そもそも持ってない奴は逃げられやしないんだ。
金と地位と守ってくれる男がいるから、逃げられる。
そうじゃない女は、死ぬか、地を這いつくばるような仕事をするしかない。
あたしは、チカコが羨ましい。
守られてるお姫様って以上に羨ましいところがある。
それは、長い手足。
東洋人なのにチカコはあたしより3インチ(10センチ)ほど背が高い。
あたしはロンドンのホワイトチャペルというお世辞でも上品とは言えない街に生まれて、下町のミュージックホールで子役をしてた。
将来はミュージカル女優になって、スターにのし上がってやるつもりだった。
けど、背が伸びなくて、舞台映えしないから、夢を諦めた。
貧乏な下町暮らしの一発逆転の手札を失った。
だから、単純に、チカコの舞台に映える背丈と存在感が羨ましい。
顔の出来栄えだけならチカコに負けてないんだけど。
人の目を惹きつける強さは完敗してる。
そして、そのやたら人目を惹きつけて長身で美貌の姫様は、今、美貌が台無しになるような、沈んだ顔をしてる。
最初は寂しそうだったけど、だんだん、どんよりとロンドンの冬空みたいに辛気臭い顔になってきた。
赤道近くの太陽は眩しくて、日陰から出られないぐらい、陽気なのに。
この子があたしのこと、苦手なのはわかってるけど、そんな顔しなくてもいいじゃん。
「これは彼女が俺にくれたもの、の彼女って誰なのかしら……?」
「あいつがポリッジ食ってたときの? ポリッジなんて、そんなの母ちゃんに決まってるじゃん。あんた馬鹿?」
「あ、そう……そうね、代名詞……」
「あんた、意味、わかんないんだけど?」
「『she』の使い方がわかりにくいのよ……それから、私は馬鹿なんじゃなくて、英語が拙いだけよ」
「……ああ、『she』を昔の女かと思ったんだ。でも、見た目がいい諜報員の男女関係なんかひどいもんだよ」
あたしが言うとチカコは一瞬、固まる。
見た目がいい諜報員というのは男女問わず、ベッドの中で情報を取ってくるのも仕事だ。
マシュー……マコト・サワシロは潔癖ぶってるけど、実態はあたしと変わらないロクデナシだ。
MI6が知る彼の過去の任務、その履歴、不本意だったんだろうが、女性関係が、まあ、ロクデモナイ。
「……そういうお仕事だとはわかってるわよ。私の元に来た時点で、そういった含みもある任務だったと、わかっているわよ」
チカコが俯く。
「でも、そんなことで落ち込んでるわけじゃないのよ、私は」
「へえー、じゃあ、なんで落ち込んでるの?」
あたしが聞くと、チカコは声を絞り出す。
「彼が体調を崩すまで……無理をさせてしまったことが……もう少し早く、あなたたちを頼るように、上手く伝えるべきだったの」
チカコはくるりと振り返る。
舞台で映えそうなワルツみたいな綺麗なターンをしてから、あたしを見る。
美しくてひどく傲慢な女王様は、嫌味なくらい絵になる姿で、苦しそうに笑ってる。
「私、彼に私より先に死んでほしくないの」
「……毒見させてるのに?」
「矛盾しているのはわかっているわよ……でも毒を食むなら一緒がいいわ」
「……心中したいの?」
「どうかしら? いえ、私、生き延びたいのよ。自分でもよくわからないわ。これって何かしら?」
「何かしらって聞かれても、知るわけないじゃん」
あたしが知っているのはチカコとマコトの素性。
チカコはともかく、マコトの方はまさか帝国の名前まで割れているとは思っていないだろう。
でも、実はあたしとダニエルは彼らの経歴を一通り知ってる。
英国秘密情報部の諜報能力を舐めてもらっちゃ困る。
だけど、彼らの名状しがたい関係については、調査中だ。
彼らは偽装夫婦として逃亡している。
恋人同士だとも言ってる。
でも、多分、チカコは男を知らない。
無駄に色気があるし、虚勢を張ってるからわかりにくいけど。
会話の端々や反応、時折見せる、無知と純粋さ、それがその証拠。
だけど、厄介なことに、彼女は偽装の夫である諜報員に恋をしてしまっている。
まるでシェイクスピアの悲劇のヒロイン。
絶対に結ばれない恋をするお姫様だ。
そして、本人に、その自覚があるかは、現在調査中。
あたしは今日も、喜劇みたいな悲劇を観察している。
「ねえ、エリザベスとダニエルってどういう関係なの? エリザベスはどうなの?」
「こっちは何もない」
「ええー、本当に何もないのかしら?」
「しつこい」
でも、お姫様の恋の話に巻き込まれるのは、正直、勘弁してほしい。
次回26話の更新は、2025年12月1日(月)21時頃予定です。
来週だけ変則で月曜日となります。
その後は隔週、時々週刊木曜日更新に戻る予定です。




