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24.1945年(春和元年)9月 アラビア海①

「暑い……」


 マコトの腕の中で、睦子(ちかこ)が身じろぎをした。

 彼女の身体の匂いは、汗の匂いのはずなのに、なぜかひどく甘い香りに思える。

 汗臭いから鼻を近づけないで、と彼女は言うけれど、花や果実の香りに似ている。

 今日はその香りになぜか、くらりと目眩がする。


 

 ━━1945年(春和元年)9月中旬 アラビア海。



 蒸し暑い、赤道近くの海域の二等船室。

 日中は摂氏三〇度を超え、夜でも二五度を下回らない。

 湿度が高いので、体感的には、もう二、三度暑い。

 ここの空気は、常に熱と湿度を身体に纏わりつかせる。

 しかし、今のマコトは、なぜか寒く感じた。

 汗で湿ったシーツが冷たい。

 冷えた背中が、ひどく寒い。

 寒くて、無意識で腕の中の温もりを抱きしめようとしたが、彼女はするりと抜け出し、起き上がる。


「暑いじゃなくて、熱い、ね」


 額に置かれた掌がひんやりと冷たく感じる。


 そして、ようやく発熱していることに気づいた。


「お医者様、呼んでくるわ」


 シュミーズの上にナイトガウンだけ羽織って部屋から駆け出そうとする睦子が、視界の端を横切る。

 マコトは慌てて起き上がり引き留めた。


「馬鹿、慌てるな。そんな格好で出るな」

「だって、ひどい熱よ」

「歩けるから。自分で医務室へ行ける」


 思ったより熱が高く、世界が回りそうだったが、睦子の手首を掴み、何とか踏ん張る。


「フラフラしてるじゃない。やっぱり呼んでくるわ」

「だから、その服で出るな、というか一人で出歩かないでくれ」

「でも!」

「でも、じゃなくて。一人で行くから」

「でも、途中で倒れでもしたら、大変じゃない」

「でも、じゃなくて、大丈夫だから」

「大丈夫に見えないわ」

「とにかく、外に出るなら、一旦、着替えろ。一緒に行くから」

「でも……」

「でも、じゃない。慌てるな」


 しばらく押し問答をして、ブラウスとスカートに着替えてもらった。


 睦子に付き添われる形、というよりも。


「マラリアや腸チフスだったらどうしましょう……」

「たぶん症状が違うから、大丈夫だ」

「でも、こんなに熱が高いだなんて!」

「大丈夫だから」


 取り乱す睦子を宥めながら、マコトはフラフラと医務室へ向かった。


 マラリアや腸チフスなどの命に関わる病。


 ではなく。


 扁桃腺が腫れている、という医師の診断結果だった。

 

 喉の奥の扁桃腺の細菌感染だろう。

 扁桃腺炎だって拗らせれば命に関わることもあるが、大抵は安静にしていれば良くなる。


 ━━わかっていたよ、唾液を飲み込むだけでも喉が痛いから。


 マコトは子供の頃、よく扁桃腺炎で熱を出していた。

 言い方はどうかと思うが、喉の痛み、頭痛、発熱、節々の痛みは、久方ぶりの慣れ親しんだ症状だった。


 ため息をついても喉が痛い。


「死なない……?」


 睦子が、心細げに、子供みたいな顔をして呟く。


「これくらいじゃ死なんよ」


 初老の英国人船医が笑う。


「……よかった」


 安堵の声とともに、黒曜石の瞳からポロポロと涙が零れ、マコトも船医もギョっと驚き、それから大袈裟だな、と呆れた。

 


   *



「ハル、その睫毛、自前だったのか……」


 騒ぎを聞きつけてやってきたらしいダニエルは、開口一番、どうでもいいことを口にした。


 睦子は今、化粧をしていない。

 紅も引いていない。 

 だが、涙で濡れた睫毛は濃く長く、変わらぬ存在感で、黒揚羽のようにはためいている。


 マコトは、付け睫毛いらずだよな、と医務室のベッドに寝かされて下から見上げながら、熱でぼんやりとした頭で考える。


「自前じゃなかったら、何だっていうのよ?」

「その付け睫毛、どうなってるんだろうと思っていた」


 実にくだらないなとは思うが、確かにちょっとした謎ではある。

 睦子の睫毛は付け睫毛と見紛うぐらい、濃くて長い。


「そんなくだらないこと言ってないで厨房に行って、お粥でも用意させなさいよ」

「オカユ……って何?」


 わからない単語はそのまま押し通す強気さは、雰囲気で大概伝わるが、やはり時々通じない。


「ちょっと待って、お粥って、英語で何て言うのかしら?」


 睦子の英語はここしばらくでかなり上達したが、相対する単語がない場合や、あってもかなり意味が異なる場合は、言い換えに苦労している。


Porridge(ポリッジ)、だろうな」


 喉が痛いと思いながら、マコトは助け舟を出す。


「お前、元気そうだな」

「まあな……」


 熱が高いので、ダニエルが言うほど元気ではないが、話せる、という時点でまだ軽症だと認識してしまうのは、軍人及び諜報員の悲しき(さが)である。


「ねえ、この船の朝食で出る甘いポリッジって、お粥なの?」


 話を戻して、睦子は首を傾げる。


 共通点は穀物を柔らかく煮た何かなので、料理としては別物である感が否めない。


 お粥は主に米や雑穀などを水で柔らかく炊いたもの。


 ポリッジは主にオーツ麦などを水や牛乳で煮たもの。

 

「ポリッジなら、こちらで用意するから、心配ないよ。朝食がてらに言ってくるよ」


 そう言って、船医は医務室を出て行った。

 

 粥とは違うがまあ、どちらでもいい。


 朝食や病人食向けには違いない。


「ああ、オカユって、チャイニーズポリッジ(中華粥)か」


 ダニエルの解釈はおおよそ間違っていないが、微妙に違う。

 しかし、わざわざ訂正するほどではない。

 作り方の違いを説明しようとすると、無駄に話が長くなるので、喉がつらい。


 そして、睦子とダニエルは、無限に話が脱線していく。

 アジア料理の話から、甘味の話に飛び、紅茶の話に飛び、ようやくマコトの病状に話が戻って来た。

 所要時間はおおよそ十分程度だと思われるが、熱でぼんやりしてるから正確な時間はわからない。


「まあ、マラリアとか、腸チフスじゃなく、よかったじゃないか。で、お前さんが、この状態だから、彼女の護衛は一旦エリザベスと交代だ」


「「え?」」


 ダニエルの提案に、マコトと睦子、両方から、困惑の声が漏れた。


「お前は安静が必要。護衛として不適格」

「そうだが……」


 マコトは不服だが、正当性がある反論が思い浮かばない。

 熱で思考は纏まらないし、立ち上がっても目が回る。

 そんな有様なので、護衛として不適格という評価は、不本意だが、相違ない。


「そもそも、一人で護衛すること自体、無理がある。なんで交代要員なしなんだ?」


「……それは、あんたらが、こっちの協力者を潰したせいでもあるんだけどな」


 英国特殊作戦執行部、SOEから、協力者が来るはずだったが、ダニエルが所属するMI6がそれを押さえた、と思われる。

 正確なところは聞かされていないので詳細は、不明だが。


「あー……、それは悪かった」


 ダニエルが、バツが悪そうに目をそらす。

 

 でも実のところ、外部協力者が交代要員になるかは微妙だった。


 だから、これはちょっとした憂さ晴らしの当て擦りだ。


 最初からもう一人いればよかったが、偽造渡航許可証の枚数が増える分だけ、偽造が露見し、拘束される危険が増す。


 マコト以外、正規の旅券でインド洋を越えられる人材が特務機関『不二組(ふじぐみ)』にはいなかった。


 リーダーの藤木中佐からは、イランで、女帝亡命の先行隊から現地の地理に明るい者を案内人として配置しているから、そこまで何とか一人で耐えてくれ、と言われた。


 ━━でも、ここらで意地を張り続けるのも限界か。


 ずっと気を張り詰めているなど諸々で、十分な睡眠が取れていない。


 ダニエルたちを信用した訳では無い。


 でも、体力の限界を越えてしまえば、守れるものも守れない。


 今、襲撃を受ければ、自分だけでは睦子を守りきれない。


 それがどれだけ不本意でも、彼女が少しでも、安全である道を、選ばなくてはならない。


 帝国陸軍特務機関の諜報員の矜持など、この場面では無価値だ。


 現時点では、ダニエルとエリザベスが睦子に危害を加える意図や兆候は感じ取れない。


 ━━仕方がない。


「頼む……」


 マコトは、熱を持ち痛む喉から、声を絞り出した。


次回25話の更新は、2025年11月27日(木)21時頃の予定です。

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