01.1945年(春和元年)7月 上海①
出会った日も、ひどく蒸し暑い日だった。
『あなたソ連人ではなく我が国の人でしょ?』
何もかも、見透かすような黒曜石の瞳を、黒揚羽のようにはためく睫毛が隠した。
━━1945年(春和元年)7月下旬、上海。
夢を見ていた━━。
マコトは目を覚ました。
室内は朝だというのに、ひどく蒸し暑かった。
額に落ちた汗で湿った髪を払い除け、起き上がり、身支度を整えるために、洗面台へ向かう。
切れ長の目、瞳は青みがかった灰色。
額にかかった少し癖のある髪は、明るい栗色。
鏡に映る若い男の顔は、二重瞼の目元に影があり、鼻梁が高い。
透明感のある色白の肌は日焼けで少し赤みを帯びている。
背も高く、東洋人には見えない。
だが、西洋人にしては、瞼が薄く、顎が細く整っていて、顔も身体も全体的に線が細い印象だ。
洋の東西が混在した容姿を、マコトは持っていた。
(さあ、今日もこの顔で茶番だ)
自嘲するように笑って、顔を洗い、髭を剃り、髪を整髪料で撫でつける。
ソ連式の地味な濃灰の背広に身を包み、赤いカラーネクタイを結ぶ。
レンズに度が入っていない黒縁眼鏡をかければ、少しアジア側にルーツがあるソ連人に見える。
━━この姿で今日もお姫様のご機嫌取りか。
嫌になってきたぜ、と肩のコリを取るように首を回して、中折れ帽を被り、部屋を出た。
マコト──沢城眞人は極東の帝国の諜報員だった。
諜報、防諜、工作のため潜入し、あらゆる偽装身分を演じる。
この日の役は『アレクサンドル・ゲオルギエヴィチ・イグナチェフ』
ソ連の若手外交官の役だ。
*
「あなた、本当は何て名前なの?」
周りには聞こえない、耳元で聞こえた囁き声。
上海萬陽ホテルの特別室。
花鳥風月の描かれた格子天井にクリスタルガラスシャンデリア、和洋折衷の煌びやかな内装の部屋で、大仰な外交儀礼を含む挨拶をそこそこで遮り、黒曜石の瞳を持つ女は、三白眼ぎみの大きな目を細め、長い睫毛越しに、じっと、疑うようにマコトを見つめた。
「アレクサンドルですよ。アレックスと呼んでいただいてもかまいません、陛下」
流暢だがロシア語訛りのアクセントがある帝国の言葉で話す。
顔に浮かべたわずかな笑みは崩しはしない。
「いいえ、結構よ」
すげなく返す声は大人びて涼やかだが、顔はまだ僅かに少女のあどけなさを残す。
シニヨンに纏められた、ぬばたまの長い黒髪。
ウエストを絞った白いワンピースから覗く、スラリと長い色白の手足。
美しいが、世間知らずのお嬢様、といった印象。
だが、彼女はこれでも『陛下』。
昨年末に先帝が崩御し、戦時中であることや、東宮が九歳と幼少であることを理由に急遽立てられた、若き女帝。
先帝照和帝第一皇女。
今上帝睦子。
御称号は陽宮。
御年、十九。
色々と内閣や軍部の事情で、四月頃、帝都から密かに帝国統治下の『大陸の魔都』上海へ移され、隠されていると聞いている。
ちなみに、帝都での政務は先帝の弟宮である摂政久慈宮と内閣が代行している。
そう、彼女は何一つ実権を持っていない。
実権がないなら東宮を幼帝に立てても変わらなかっただろうが、長く続いた戦争は、今や敗戦必至の戦況。
正統な後継である幼子が、帝に立つには時勢が悪すぎる。
敗戦処理で使い捨てる帝が必要だった。
睦子が女帝に立てられたのは、そんな理由だった。
帝位につく予定などなかった皇女だ。
帝王学を修めていないから、多少の不躾は仕方がないのかもしれない、とマコトは顔には出さず、心の中でため息をつく。
マコト、いや『アレクサンドル』は、使い捨てられる予定の女帝にソ連外交官として接触し、監視している。
それは『本物のソ連関係者』が『万が一』にでも睦子に接触することを避けるためだ。
「今日も本国からの連絡はないの? 和平の調停はいつ始まる?」
「あいにく、申し訳ありません。もうしばしお待ちいただきたく……」
「でも、使者の一人ぐらい送れるでしょう? あなた以外の使者を? どうして来ないのかしら?」
睦子は問うが、彼女はすでにマコトがソ連関係者ではないと見破っているから、これは茶番だ。
いや、彼女は初対面の時点で見破ったから、すべてが最初から茶番なのかもしれない。
機関の上司が用意した偽装身分をマコトは完璧に演じたが、睦子の勘が鋭いのか、情報が漏れているのか、共有されているのか。
彼女はどこまで知っているのか。
だが、こちらから明かすような真似は出来ない。
それはお互い様で。
探り合うように、ここひと月と少し、毎日のように顔を合わせている。