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14.1945年(春和元年)8月 香港⑤

「陛下。この者は、この先、陛下に付き従う通訳の者です。名をマイケル・リーと申します」


 慇懃無礼に言うのは香港占領地総督、山田(やまだ)和久(かずひさ)中将だ。


 その後ろで黒髪のカツラと丸眼鏡と特殊メイクで臨時雇いの香港人の通訳に変装したマコトは、最敬礼の姿勢から、ちらりと目線を睦子(ちかこ)に向けた。


 三白眼気味の大きな黒曜石の瞳は胡乱げに細められ、こう言っていた。


『そういう仕事だとわかっていたけど、私を騙して売っておいて、変わり身があまりにも早くないかしら』


 予想はしていたが、視線がとても痛い。

 視線だけで刺し殺されそうなぐらい痛い。



 ━━1945年(春和元年)8月下旬



 終戦の詔書(しょうしょ)のラジオ放送から五日後。


 陸軍軍人関係の宿泊所兼集会所となっている東亞ホテル、その三階にある特別室で、マコトは睦子と対峙していた。


 壁は重厚なアーチ状のレリーフが施されたマホガニーの化粧板。

 天井からは豪奢なクリスタルガラスのシャンデリアがぶら下がっている。

 足元の毛足が長い赤い絨毯に靴の踵が沈み込む。


 重厚で豪奢な空間。


 その空間で。


 睦子は膝下丈スカートの軍服で布張りの椅子に座り、編み上げブーツを履いた長い脚を組み、不遜な態度でマコトを見上げる。


 ━━悪の女帝、役、か。


 勲章などは佩いていないが睦子は戦時中の女帝の正装だった。


 ━━尊大で美しい、悪の華。 


 そう、見える。


 無体な仕打ちは受けていないようだが、これはこれで、様になりすぎて、痛々しい。


 ━━本当は心細いくせに。


 彼女が夜眠るとき、小さく震えたり、うなされたりしていることをマコトは知っていた。

 

 悪の華なんてものとは、程遠い姿を。


 そして、マコトがここに至る経緯は、五日前の夜に遡る。



   *



「は?」


 胡乱げに思う気持ちが込められた一音がマコトの口から漏れた。


「だから、嬢ちゃんを奪還しにいくんだって」


 人を十人ぐらい食った笑みを浮かべる藤木中佐は、ポケットから何やら油紙の包みを取り出した。


「何ですか、それ? 指示書ですか?」

「いんや、炒った蝉」


 藤木は油紙から乾煎りした蝉を取り出しポリポリと食べ始めた。


「蝉って食えるんですか……?」


 香港でも帝国本土でも蝉を食す習慣はないので、マコトは眉をひそめた。


「食えるよ。香港じゃ食わないみたいだけど、海老みたいな味だ。食う?」


 海老みたいだと言われても、どう見ても蝉なので食欲はそそられない。


「いや、いらないっす」


 ゆえに、答えはノーである。


「食っとけよ。ちゃんと食わねえと人間落ち込むからなあ」


 その理屈は理解できるが、可能なら別のものが食べたい。


「いや、いらないっす」

「食え」

「だから、いらないですってば」


 押し問答の末、一つ食べた。


「あ、海老と言われれば海老のような……目をつぶれば海老ですね。ちょっと青臭い気はしますが」

 

 目を開けたら蝉なので、マコトは目をつぶったまま食べた。


「大丈夫だ。目を開けてもだんだん海老に見えるようになるから」


 藤木という男は、わりといつも無茶苦茶なのだ。

 無茶苦茶だが、なぜかいつも策がばっちり嵌まる。

 未来が見えているみたいに嵌まるのだ。

 そして柔和な笑みなのに鋭い眼光で、危険人物にしか見えないのに、どういうわけか人に慕われる。


「ちーす!」


 勝手口が開いた音と軽い挨拶が聞こえた。

 しばらくして応接間の入口に着古した中国服の童顔の男が顔を出した。

 出入りの業者を『装って』の訪問だ。

 

「おー、原田、相変わらずお前は軽いな。蝉、食うか」

「いただきまーす」


 藤木から蝉を受け取り、ポリポリと食べる原田は二十代にしか見えないが、実は四十代だった。

 こんな見た目でも藤木の特務機関である『不二組』、そのナンバー2、片腕だ。


「藤木さん、共産ゲリラの偽装で襲撃する手筈で整えて問題ないですか?」

「ああ、問題ない。後はこいつの潜入日次第だが、英国海軍太平洋艦隊が来る前には片をつけるぞ。追って連絡する」

「はいはーい。じゃあ、お台所に、配達の醤油置いて帰りますね」

「また、頼んだぞー」

「はーい。じゃあそちらもよろしくー」


 熱帯の嵐のように颯爽と現れ、カラッと晴れた空と被害を置いて去っていく。

 どちらかといえば陰気なマコトからすると、原田はそういう類の、少々はた迷惑で陽気な男だった。


「あの、俺の潜入、拒否権ないんですか?」

「うちは万年人手不足だしな。それに惚れた女を救いに行くの、拒否なんかしねえよな」

「だから惚れてませんって」

 

 一応、頑なに否定しておく。


「香港占領地総督部が、要人のために帝国語を理解し英語と広東語が堪能な通訳を探している。外交文書が読めて書ける、英国軍との交渉にも同行できるという条件も……嬢ちゃんと一緒に身柄を引き渡してもいい、使い捨てられる、技能がある臨時雇いの通訳をな」

「つまり、政府の人間は出したくないと。それを俺にやれと」

「そういうこった」

「臨時雇いの通訳として彼女に接触し、そこからは?」

「そっからは、この指示書」


 藤木は蝉の乾煎りが入っていた油紙を渡す。

 内側には鉛筆でびっしりと細かい文字が書かれていた。


「読んだらゴミとして燃やしとけよ」

「言われなくても燃やしますよ、汚い」


 何だかベッタリした触り心地なので全文読んだら一刻も早く燃やして灰にしたい。


「で、そもそも、一度渡した彼女を、どうしてわざわざ奪還するなんて、二度手間の作戦になったんですか?」


 そもそもの疑問をマコトが口にすると、藤木はこう言った。


「命令には逆らえないし、総督部や英国海軍の顔を表立っては潰せないだろ」


 至極真っ当な回答だった。


「だがな、俺は『不二組』の連中が帝を売った『国賊』のまま、終わってほしくねえんだよ」


 だが、その後に続いた言葉は彼の魂だった。


「書類上は引き渡し完了。どこかのゲリラのせいで女帝が逃げちまうもんは仕方がねえ。表向きは『国賊』でも実際の作戦で俺たちの魂は守られる。三方良しだ」

 

 藤木の目は、この時ばかりは笑っていた。

 

 これが五日前の経緯である。



   *



 顔の右半分の火傷と彫りを浅く見せる特殊メイク、右目を覆う黒髪のカツラと丸メガネ。

 これで、香港占領地総督部の職員、憲兵隊や防衛隊の顔見知りは、すべて欺けた。

 誰もマコトとは気づかなかった。

 さすがに目の色だけは誤魔化せないので、英国人の祖母を持つ香港人、という詐称(カバー)になった。


 そして、目の色は誤魔化せていないので、睦子は一目で見破った。


 ━━俺、この人を騙せる気がしない。


 亡命陣営に合流すると見せかけて上海から彼女を連れて脱出したが、完全には騙されてくれてはいなかった。


 今のこの状況になることも、どこかの時点で気づいていた。


『あなたが思う、私の『可哀想』はどれなのかしら?』


 あのときにはもう、気づいていた。


 だから、マコトが銃口を向けたとき、少しも動揺しなかった。


 ━━でも、今度は。


 掌に隠していた小さな手鏡を反射させて、外に待機している藤木、原田率いる『不二組』の構成員に合図を送る。


『接触、成功』と。 


 一、二、三、四。


 五秒後、窓から閃光が見えた。


 マコトは絨毯の床を蹴る。


「睦子!」


 名を叫ぶと同時に鈍い爆発音とガラスが割れる鋭い音が響いた。


 マコトは降り注ぐガラス片から睦子を庇うように覆い被さった。


次回15話は、2025年8月17日19時頃更新予定です。

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― 新着の感想 ―
冒頭のお部屋の描写なんですが文翔館の貴賓室を思い出しました。そんなお部屋で足を組んで座ってる睦子しゃま……麗しい……虚勢張ってるところもお労しいと同時にもっと見たい…。ほんとの睦子しゃまの姿を知ってる…
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