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11.1945年(春和元年)8月 香港③

 ━━マコトは、私を香港へ『誘導』した?


 そう考えるのが自然だと睦子(ちかこ)は思った。

 牧原侍従長や綾小路が香港へ向かった、という推測を提示したのはマコトだ。

 だが、彼らの足取りは厦門(アモイ)以降、途切れたままだ。

 そうなると、マコト側に睦子を香港へ連れて来る意図があったことになる。


 ━━彼の意図は。

 

 そして、彼の上司である藤木中佐の意図は。


 香港で『匿う』とマコトは言ったが、『その先』が提示されていないことに睦子は、気づいた。



  *



「夕食、こんなものですみません」


 マコトが客間のテーブルに置いた、薄い粥と、細い蒸し芋。

 香港の物資不足が見て取れた。


「いえ、食べ物があるだけで有り難いわよ」

「毒見をしたら量が減るから、俺の分も少し食べるか?」

「それは悪いわ。あなたのほうが身体が大きいのだから、ちゃんと食べてちょうだい」

「……上海の俺の隠れ家の食料を食い尽くした人とは思えない殊勝なセリフだな」

「悪かったわ。あのときは本当にお腹が空いちゃってて」

「どうしたんだ? しおらしすぎて気味が悪い……具合でも悪いのか?」

「別にどこも悪くないわよ。失礼ね……ところで今日の夕食って、誰が作ったの?」

「ああ、それを気にしてたのか。女中の(チン)阿嬸(おばさん)です」

「そう。ところであなたの毒見ってどの程度の精度なの?」

「ヒ素みたいな無味無臭はわかりませんよ。この粥は同じ形の椀に俺がよそった。どちらを俺が食べ、どちらがあなたが食べるか、わからない状態で持ってきてる。陳が俺を巻き添えにするとは考えにくいので……阿嬸おばさんは俺が子供の頃から知っているから……」

「……陳さんは、『マシュー』のあなたを知る人?」


 空気が止まったような気がした。

 マコトが『口を滑らせた』ことに気づいて、気まずそうに顔を背けた。


「あなた、本当に嘘が下手ね」


 睦子は困ったように笑った。

 嘘が下手なことすら、もしかしたら、演出かもしれない。

 けれど、なんとなくだが、これが、彼の本質のような気がする。

 マコトは眉間に皺を寄せてため息をついてから、神妙な顔で睦子に向き直る。


「でも、もし、これに毒が入ってたときは、一緒に死んでさしあげますよ。それだけは嘘にならない。この粥は一蓮托生ですから」

「嫌な一蓮托生ね。そうならないことを祈りたいわ」


 睦子は粥をレンゲですくい、口に運んだ。

 薄い塩の味しかしないし、少し冷めていたけど、じんわりとした温かさが胸に広がった。


 マコトが何を考え、ここまで来たのか、その答えは、もうじき出るだろう。

 それまでは、考えるのはやめよう、と睦子は長い睫毛を伏せた。



   *



 それから数日後の夕暮れ、睦子は蝶柄の絽の着物を纏い、マコトを従え、応接間にいた。


「それ、着ないと思ってた」

「あまり好きじゃないけど、一度は袖を通しておかないと、用意した藤木中佐に失礼じゃない」


 藤木から、話があると、呼ばれたのだ。

 睦子は沈んだ太陽の残光が残る格子窓を背に、上座の一人掛けソファに座る。夏用の麻の背広姿のマコトがその背後に立つ。


「呼んだはいいけど、まだみたいね……」

「なんか、うちの上官が、すみません……」

「いいわよ。藤木中佐に舐められてるのは、わかっているわよ。だから暇潰しも持ってきているわ」


 そう言いながら睦子は赤い革表紙の辞書を開く。


「一つの言葉に、いろんな訳語があるから、これを誤解なく使えるようになるには骨が折れるわね」


 睦子はページをめくりながら言う。

 この数日、屋敷の中は自由に動けたが、外には出ていない。


 軟禁場所が変わっただけなのかもしれない、と落胆しながら、手慰みにマコトから貰った『マシュー』の辞書を読んで過ごしていた。


「可哀想、でも、たくさんあるわね」


 睦子は振り返って、マコトを仰ぎ見る。


Pitiable(ピティアブル), Deserving (ディザーヴィング)compassion(コンパッション), Poor(プアー), So(ソー) sorry(ソーリー)……あなたが思う、私の『可哀想』はどれなのかしら?」


 マコトの灰青色の瞳が一瞬揺れる。


「どれって……?」

「無理に答えなくてもいいわ」

 

 きっと少しずつ違う意味なのだけど、今の睦子にはその些細な違いはわからない。


「意味の違いは説明はできるが……」


 マコトが困惑しながらも説明する。


「Pitiableは、憐れな、という意味で文書に使われる表現か……深刻で見ていられない、憐れな戦災孤児、とかそういう使われ方をする。

 Deserving compassionは、同情に値する、という意味だ。

 Poorは、貧しい以外の意味もあって、口語で可哀想。ああ、可哀想に、みたいな感じで使われて、場合によっては軽い軽蔑が含まれるときもある。

 So sorryは、謝罪以外にも文脈上、お気の毒になどの意味が含まれる、かな……こんなところだが……」


 困惑しているが、説明は丁寧でわかりやすい。


「そう……」


 睦子は頷く。


 マコトの睦子への態度には、優しさにも、皮肉にも、最初からほんの少しだけ『憐れみ』が混ざっていた。


 ━━女帝の位にのぼってしまった、『可哀想な女の子』を憐れむように。


 この辞書も『帝国で一般的に』使われるものではなく『英語話者』の人間が使うものだ。

 自身の秘密の手がかりになるものを渡したのなら、彼は、あまりにも感傷的だ。


 ━━何も知らないのは可哀想、と言うように。


 事実だから、不快感はないけど、ほんの少しだけ悔しい。

 そして、同情しすぎるのは、諜報員らしくない。


 ━━向いていないのね。


 諜報員にしては、彼は情を寄せすぎる。


「すまない、待たせたね」


 藤木の声がしたので、睦子は辞書を閉じ、前へ向き直る。

 相変わらずの柔和な笑顔と鋭い眼光のまま、睦子と対峙するように下座のソファに座る。


「それで、お話とは?」


 睦子は静かに口火を切る。


「今日も、暑い一日でしたなあ」


 残光に目を細めて藤木が言う。

 

「前口上は要らないわ。要件に入ってちょうだい」


 睦子が冷たく言うと、藤木は肩をすくめた。


「せっかちなのはいただけませんな、お嬢さん……帝国政府が連合国による降伏要求の最終宣言を受諾すると決定し、陛下の御名で終戦の詔書(しょうしょ)が発せられ、久慈摂政宮殿下が署名されました」


 先帝の時代によくわからないまま始まった戦争は、勝手にこの名を使われて終わる。

 腹立たしいし、恐ろしい。

 それでも、睦子は敗戦処理が終わるまでは、女帝として立ち続けなければならない。

 敗戦処理の使い捨ての女帝として。

 その末路がたとえ、絞首台だったとしても。


「まだ帝都では一悶着ありそうですが、摂政宮殿下が終戦の詔書を読み上げられたレコード盤が明日の正午にラジオ放送で流れます」

「わかりました」

「……随分とあっさりとしておられますな」

「私が立てられた理由ですから。力の無い私には、責任を負うことしか出来ませんから」

「はて、力の無い者が負い切れるような責任でしょうか?」

「え?」

「ああ、年寄りの戯言として受け流しておいてください。お嬢さん」

 

 睦子は困惑したが、結局、最後まで藤木の柔和な笑みは崩れなかった。

 振り返ると、マコトは硬い表情をして、睦子から目をそらした。


 マコトに先導されて、睦子は客間に戻る。

  

 睦子はマコトの背中をじっと見つめる。


 震える手を伸ばして。


 後ろから抱きしめて。


 ━━私を連れて逃げて。


 睦子はマコトにそう言いたかった。


 でも、出来なかった。


 マコトが連れて逃げてくれるのか確信が持てなかった。


 憐れんではいても、全てを優先してくれるかは、全然、別の話だ。


 客間の前に着く。

 マコトが振り返る。


「後で夕食をお持ちします」

「いえ、今日は結構よ。もう寝るから、朝まで起こさないで」

「では……おやすみなさい」

「ええ、おやすみ」


 何か言いたげな硬い表情に、ぎこちない笑みを返す。


 扉を閉めて、ずるずると床に座り込んだ。


 ━━ああ、『終わり』が始まる。


 睦子は泣き叫ぶことすら出来ずに、暗い部屋でうずくまった。


 ━━怖い。


 でも、逃げることは、出来ない。


次回12話は、明日2025年8月15日正午に更新します。

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