10.1945年(春和元年)8月 香港②
━━戦争が終る。
睦子はその意味に思考を巡らせ、目を閉じた。
「それは一体━━」
「お前は黙ってなさい。今、私は『彼女』に話してるんだ」
藤木がマコトを遮る。
睦子は長い睫毛を上げた。
黒曜石の色の瞳で、眼前の柔和な笑みをたたえた藤木を見据える。
「新型爆弾とは? 広島の被害はどれほどでしょうか?」
「現在まだ調査中ですが……熱線と爆風により、市街のかなりの範囲が一瞬にして焼き払われた、と聞いております」
「……市街を一瞬で? 何をどうすればそんなことが可能になるの……?」
手が、足が震えて寒くなる。
でも、それを悟られてはいけない。
「原子力における核分裂の連鎖反応で得られる熱エネルギーを利用することは、科学の理論上は可能です。想像を絶する大量殺戮兵器ですが、進んだ技術力があれば、不可能なものではありません」
「……そう、です、か」
現象が引き起こされる仕組みに関しては理解は追いつかなかったが、それがどれほど恐ろしい兵器であるかは、理解出来た。
頭を鈍器で殴られたような気がした。
「難しい話でしたかな?」
「いえ、そんなっ……」
「帝大と海軍も研究していたけど、そうですよね、専門的だし軍事機密だから、知らないですよね」
「……」
藤木の底が読めない笑みからも、帝として見くびられていることがわかった。
━━私は何も知らない。
見くびられて当然の、お飾りの女帝なのだ。
睦子は、膝の上で手をギュッと握りしめた。
「我々は格上の科学力を有する勝てない相手に戦争を始めてしまったんです。いえ、勝てないことは前首相も先帝も織り込み済みではあったでしょう。ただ、どこか、もっと早い段階で一撃を与え講和出来ると思っていた。それがこのざまです。本土は空襲で焼き払われ、満州も今頃は、ソ連侵攻で開拓団の民間人、女子供も巻き込んで阿鼻叫喚でしょう」
阿鼻叫喚、藤木は柔らかな笑みのまま、恐ろしいことを言う。
睦子の脳裏に成す術もなく蹂躙される人々の姿が思い浮かぶ。
勝てないからこそ、父帝が崩御したとき、正統な後継である弟の東宮ではなく、継承順位第二位の叔父久慈宮でもなく、東宮の姉宮である自分が帝に立てられた。
それは睦子自身も理解している。
━━足元が崩れ落ちそうな気がする。
こんなことになる前に、大きな被害が出る前に、何か出来たのではないか。
でも、何もさせてもらえなかった。
だが、それこそ言い訳であり、言われるがまま流されて、今ここにいる。
呼吸が浅くなる。
何か言わなくては、何かの打開策を。
でも、何を━━?
「……中佐、私も彼女も着いたばかりで疲れています。これ以上は、せめて、もう少し落ち着いてからお願いできませんか?」
マコトが諌めるように言った。
「……それもそうだね。今日はゆっくりなさい」
底冷えのしそうな柔和な笑顔で、藤木は言った。
*
睦子は湯を使わせてもらい、用意された浴衣に着替えた。
濡れた髪を手ぬぐいで拭きながら思う。
━━髪、切っておいてよかったわね。
屋敷には炊事や掃除をする通いの中国人女中が一人いるだけだ。
睦子は身支度をすべて自分でしなくてはいけない。
マコトは髪が結えるようだが、毎回手を煩わせるわけにもいかないので、文句を言われても切っておいてよかった。
睦子自身では簡単に括ることは出来ても複雑な纏め髪は出来ない。
通された客間の窓から橙色の夕方の光と白樫の葉の影が見えた。
必要な目隠しね、と納得した。
ここは機密性の高い客人を匿う館なのだろうか、と勝手に推測する。
室内を確かめてみると、箪笥には畳紙に包まれた真新しい着物があった。
紺地に白い蝶の柄で絽の着物。
睦子のお印である蝶の文様とはまた違うが、関連付けられて用意されたのだろう。
蝶の紋様は吉祥文様で、不死や立身出世を意味する。
━━マコトは、私を香港で『匿う』と言っていたけど……。
そこまで考えたところで、コンコンとノックの音が聞こえた。
「マコトです。ハル、入ってもいいか?」
「どうぞ」
招き入れると彼は服を数着と、本を持っていた。
「着物は用意してると中佐から聞いたけど、あなたは洋装の方が好きだと思ったので……あなたと同じぐらいの背丈の人の物で古い型だけど、洗っておいてもらったので着られるかと。あと、肌着は新しいものだけど、少し大きいかもしれない」
「……随分用意がいいわね」
睦子が言うと、一瞬だけ、マコトの目がそれた。
「あなた、諜報員みたいだけど、あまり嘘が得意じゃないでしょう。何かあるように見せかけるのが得意なだけで、感情も顔に出やすいし」
弱点が、もう一つ。
「……それをあまり言わないでください」
マコトも自覚があるのだろう。
苦いものを噛み潰したときみたいな顔をした。
「洋服は有り難く着させてもらうわ。着物はあまり好きな柄じゃなかったし、動きにくいと緊急時に困るもの……で、その本は?」
睦子は赤い表紙の本を指さす。
「辞書ですよ、英語と帝国の言葉の。思い出せない言葉があったら引いてみるといい」
「そう、ありがとう。勉強して、英語でもあなたに言い返せる語彙を増やすわ」
「勉強の動機、それかよ……」
マコトが呆れたように言う。
「そうよ」
睦子は勝気に笑う。
マコトは小さくため息をついて睦子に聞く。
「ところでやけに準備がいい理由は聞かないのか?」
「聞いたところで教えてくれないでしょう?」
「まあ、教えられませんが」
「じゃあ、いいのよ。あ、牧原侍従長と綾小路は香港に来ているのかしら?」
「いえ、今のところは、何の情報も」
「そう、じゃあいいわ、ありがとう」
「では、俺は戻ります。ああ、そうだ、今日の夕食はこっちに運んでいいか?」
「ええ、お願いしていいかしら」
「わかりました。また、後で」
「あ、ちょっと待って」
出ていこうとするマコトを呼び止めて言う。
「さっきは、ありがとう」
━━藤木中佐の話を遮ってくれて。
「さっき? というかどれ?」
「どれだっていいじゃない」
不思議そうにするから、照れ隠しか、本当にただ疲れていたから遮ったのかわからないけど、これ以上聞かないでおこうと思った。
知らなきゃいけない、考えなきゃいけない。
でも、あの一瞬、遮ってもらえたことで、睦子は、少しだけ救われたのだ。
救われて良いわけではないし、逃げてはいけないけれど━━。
「じゃあ、失礼します」
マコトが退出して、睦子は改めて洋服を確認する。
ゆったりした直線的なローウエストのワンピース。
襟ぐりが大きめに開いたブラウスとフレアスカート。
すべてアールデコ期、睦子が子供の頃に母である現皇太后が着ていたものに似ている。
睦子より実際はもう少し上背のある人物のものだったようだが、その頃の流行は少しスカートが短めだったから丈は問題なさそうだ。
裄も半袖なので大丈夫だ。
流行遅れなのが少し気になるが、サマーウールに虫食いもなく、保存状態は悪くない。
十年以上、ただ仕舞っていてはこうはならない、定期的に誰かが虫干ししたり手入れしていたに違いない……たぶん、と思考を巡らせる。
睦子は衣装の管理を女官に任せっきりだったから、詳しいことは知らないけれど、大事に仕舞われていたことはわかった。
誰かの形見なのかしら、睦子は服に僅かに残った樟脳の匂いを嗅ぎ、そんなことを思う。
それから辞書を手にしてみる。
革表紙の角が擦り切れていて、随分使い込まれている。
ぱらぱらと少しめくり、閉じた。
今日は疲れて頭に入りそうにないので、サイドテーブルに置いた。
何気なく見た裏表紙には、アルファベットの羅列が彫られていた。
「M、a、tthew……マシュー、かしら?」
盗み見たマコトのトランクの中のたくさんの旅券、その中の英国籍のものが、そんな名前だった気がする。
「それが、あなたの本当の名前……?」
━━なぜ、今、正体を明かそうとしているのかしら?
いや、違うかもしれない。この辞書は『本物のマシュー』の物ではあるけど、彼の物ではないかもしれない。
聞けば教えてくれるのか、教えてくれないのか。
━━いえ、きっとはぐらかすわね。
マコトは嘘は得意ではないけれど、何かあるように見せかけて、相手の読み違いを誘うのだ。
上海萬陽ホテルでの、暇潰しのゲームでも、そういった手をよく使っていた。
読み違い、例えば━━。
そして、ある読み違いに、睦子は気づいた。
次回11話は、2025年8月14日21時頃更新予定です。




