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第八話

 その横顔はあまりにも儚い。綴が何か言おうと口を開いては閉じてを繰り返しているうちに、雪乃は「あっ、でも」と言って、スカートを翻し、駆け出した。


 彼女が辿り着いた先には、大木があった。高さはおよそ五メートルほどだろうか。山のように連なる常緑樹の葉が、爽やかな秋の風に葉擦れを立てて揺れている。


「この木だけは焼けずに済んだんですね。懐かしい……よく木登りして遊びましたよね」


 見上げる雪乃の白い肌に、木漏れ日が落ちている。綴が一歩踏み出し、手を伸ばそうとしたと同時に、雪乃はつと首を傾げた。


「あら、でも……この木、こんなに小さかったかしら」


 綴は手を下ろし、自然と雪乃に歩み寄った。そして苦笑と共に告げる。


「それだけ姉さんが大きくなったってことだよ」


「ああ。ふふ、それもそうでした」


 折り重なった木の葉が作り出すまばらな光の中、可笑しそうにそう言った雪乃は綺麗だった。それをずっと見ていたい気もしたが、綴は途端に二人の間を抜けた一陣の風に、ぎゅっと眉根を寄せた。


「姉さん、帰ろう。少し風が冷たくなってきた」


「そうですね。そうしましょう」


 雪乃は少し離れたところにいた紡を手招きする。紡はにっこりと微笑んで、泳ぐようにこちらへやってきた。


 孤児院を出て、元来た道を戻る。途中、建物と建物の間にある狭い路地をふと雪乃が見やった。


「綴さん、あれは……なんですか?」


 綴も足を止めて路地を覗き込む。その突き当たりに空き地があり、木製の壁と鉄条網に物々しく封鎖された場所だった。物々しい、と感じた原因、そして雪乃が気にした要因は他にもある。その壁のほとんど全面に魔術式と思しき文字がびっしりと書き付けられていたのだ。


 綴は眉をしかめながら、答える。


「きっと強い呪いを受けた場所なんだろう」


「やっぱり……そうですか」


 古くは近代陰陽師に仕えた若杉家の分家の出らしい雪乃は、それをうっすら感じ取っていたのだろう。雪乃が心を痛める前に、と綴は続けた。


「呪いを除染できればいいんだろうけど、そこまで手が回らないみたいだね。それにあれだけ厳重に封印されているとなれば、よほど強力な呪いだろうし……僕らにも手出しできないと、思う」


「ええ」


 頷いた雪乃はそれでも痛ましい表情でその空き地を見つめていた。


「一体、何があったんでしょう……」


「それは」


 綴は色々と考え巡らせ、しかしやめた。そして義姉に首を振ってみせる。


「分からない……な」


「触らぬ神に祟りなし、でありんす」


 幻想種である紡はさらに敏感に呪いの汚染を感じ取っているのだろう。袖で口元を覆い、早く立ち去りたそうに下駄と下駄をそわそわ擦り合わせている。そんな紡の様子を見て、雪乃も一つ頷いた。


「ごめんなさい。今度こそ、帰りましょう」


 三〇番街(アベニュー)に舞い戻ったところで、運良くキャブを見つけ、再び乗り込む。後部座席のシートに深々と腰掛けながら、綴は誰にも気づかれないよう、細く長く息を吐いた。





 キャブでミルハッタン島へと帰った綴たち一行は、ブラマシー地区へと辿り着いた。


 ブラマシーはイースト・リバー沿いにある公園と病院が数多くある地域で、閑静な住宅街となっている。


 代表的な公園はブラマシー・パークだ。農地の一部だった土地を百年以上も前、地元の富豪が条件付きで市に寄付した。その特徴は年間使用料を払った宅地所有者だけがフェンスに囲まれた公園の内部に入れるというものだ。宅地所有者には鍵が渡され、それを使って中に入る——らしい。もちろん綴らはそんなものを持っていないので、毎年五月に一度開催されるブラマシー・デイでパークが開放される時に入るしかないが、生憎と入ったこともない。


 もちろんそんな条件なしでも入れる公園はある。月・火・水・土曜日にグリーンマーケットが開催されるユニオン・スクエア・パークに、行列の絶えないハンバーガーショップがあるマディスン・スクエア・パーク、大陸開拓期の植民地総統の名を冠したスターヴェサント・スクエア・パーク——何にせよ、公園には事欠かない地区である。


 ユニオン・スクエア・パークの付近でキャブを降りると、綴らはパークの南側にあるスーパーマーケットに入った。


「いつきてもすごい品数じゃ」


 入り口すぐで客を出迎える山と積まれた青果類に、呆れた様子で紡が言った。傍らの雪乃が苦笑しながらカゴを乗せたカートを引いてくる。綴はさりげなくカート役を代わりつつ、胸中で確かにな、と双子の妹の言に同調した。


 ウォールフーズ・マーケットは大陸中央南部ティリサス州発祥で、共州国最大級の食料品店(グロサリー・ストア)である。オーガニック・フードにこだわった、いわゆるグルメ・スーパーマーケットと呼ばれる高級スーパーだ。当然、紐騙(ニューテイル)中に何店舗もある。そのうちの一つであるユニオン・スクエア店は一階が食料品売り場、二階がユニオン・スクエア・パークを望めるイートインスペースになっており、地元民や観光客が二階で休憩している様子もちらほら見受けられる。


 店内は木目調のインテリアと光度を抑えた照明によって、落ち着いた雰囲気になっている。雪乃は店内をきょろきょろと見渡すと、急にぐっと握り拳をしてみせた。


「今日は私が料理しますね。綴さんと紡さんへの労いもかねて!」


『え』


 適当にトマトへ手を伸ばしていた綴とグレープフルーツをしげしげと眺めていた紡は、一斉に雪乃へ振り返った。紡と顔を見合わせると、互いの表情が明らかに強張っているのが分かる。普段おっとりしている雪乃もさすがにそれには気づいたか、はっとして眉を下げる。


「あ、いえ、そのう……確かにこの前は盛大に失敗しましたけど」


「い、いや、失敗、ではなかったよ。うん」


「そ、そうじゃ、姐さん。その証拠に綴は完食したしな。我が不肖の兄ながら天晴れでありんす!」


「あ……あっぱれ、ですか……」


「紡っ」


 きっ、と妹を睨み付けると、無責任な幽霊は口笛を吹く真似をしつつ、ふよふよ〜っと浮かび上がって逃げる。


 こいつはあてにならん。綴は引きつった笑みを浮かべ、雪乃に向き直った。


「今日のオルトロスの一件で姉さんも疲れたでしょ? 無理しなくても——」


「いえいえ。それより一ヶ月内偵していた綴さん達の方がお疲れだと思いますし。今日の料理はどんと任せてください」


 華やいだ表情に、きらきらと輝く眼差し。それをずいっと近づけられ、綴は思わず仰け反った。心ゆくまで見つめていたいような、今すぐにでも目を逸らしたいような、そんな相反する感情に襲われる。いや、分かっている。雪乃はただ弟妹を労いたい、そして慣れない料理に今一度挑戦したい、ただそれだけなのだ。


 どう説得すれば止めてもらえるだろうか。ああ、でも、この期待に満ちた雪乃を無下に扱うことなどできない。彼女の言っていた、狙撃ポイントを決めるための『一ヶ月の内偵』——そちらの方がどれほど簡単なミッションだったろう。


「よ」


「よ?」


 つまるところ自分はどうあってもこの義姉をつっぱねることはできないのだ。色々と思考を巡らせること自体が詮無いと気づいた綴は、やがてゆるゆると首を縦に振った。


「……よろしく、おねがいします……」


「がってんですっ」


 意気揚々と歩き出す雪乃に綴はカートをのろのろと押してついていくしかなかった。


「今日も肉じゃがにしようかな〜」


 歌うようにそう言う雪乃はしかし、何故かプラムとコットンキャンディグレープとカンタープメロンをカゴに入れていく。上空からそれを眺めていた紡が、耐えかねたように尋ねる。


「あ、姐さん、それ何に使いんす?」


「ふふふ、これは隠し味なんですよ。あと果物にはお肉を柔らかくする酵素が含まれているそうです」


 パパインと呼ばれる蛋白質分解酵素(プロテアーゼ)のことである。パパイアから発見されたということで名付けられたもので、中華料理の酢豚に入っているパイナップルなどにもその役割がある。が、果物全般に含まれているわけではないし、そもそもその量の果物が味として隠れることができるのかどうか。そして肉じゃがに使う薄切り肉にそれ以上の柔らかさは必要なのか。


 言いたいことは山積していたが、料理を任せると言った以上、口を噤むしかない。煉獄で最後の審判を待っているものの最早地獄行きが決まった罪人のように、綴は無表情のまま雪乃についてカートを引いていた。



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