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第七話

 一拍遅れて、綴はぎこちない仕草で傍らを見やる。


 さっきまで淑女然とワンピースのスカートの前で手を重ねていた雪乃が、色を失ってゆっくりと合わせていた指をほどいていく様が見えた。


 その横顔は感情という感情を失ったように能面と化している。


 唯一反応らしいものといえば、紫水晶に似た瞳の瞳孔が僅かばかり開いていることぐらいか。


吸血鬼(ヴァンピール)——」


 薄い色の唇から漏れ出たのは、なんとも言えない響きだった。人によれば無感動な声色にも聞こえるだろう。しかしそれは絵の具の色をめちゃくちゃに混ぜ合わせたらやがて濁った黒になるように、様々な感情がないまぜになって表面上そう聞こえるだけのことだと綴は知っていた。


「……姉さん」


 綴は強めに義姉の肩を叩く。雪乃ははっと我に返り、しずしずと頭を下げた。


「すみません……」


「いや、こちらも配慮が足りなかった。吸血鬼は君たちにとって仇敵だったな」


 明らかに承知していた口調のレンダーを、綴はありったけの殺意を込めて睨み付けた。レンダーは綴の眼光をさも涼しげに受け流し、続ける。


「今回の案件、吸血鬼自体に会うことはないだろう。だがこちらでも引き続き探すよ。君たちの孤児院を襲い、焼き払った——仇を」


「お願いします」


 ワンピースを指が白くなるまで握りしめ、頬を固く強張らせ、雪乃はもう一度言った。


「お願いします、レンダー先生……」


 その一途な姿に、綴は眩しすぎる光を向けられたように目を眇めた。レンダーは雪乃に向かって神妙そうに一つ頷くと、唐突にぱんぱんと大きく手を叩いた。


「さぁ、明後日までは楽しい楽しい休日(ホリデー)だ。ゆっくり羽を休めてくれたまえ」


 どうやら空気を変えようとしたらしい。綴が——そして紡も——視線で促すと、雪乃は儚い笑みを浮かべ、それに応えた。





 ストーンテイラー・センターを出た綴たち三人は、誰からともなく大通りへ足を向けた。地下鉄は未だ復旧に時間がかかっているだろう。綴が手を上げるとすぐに黄色いキャブが止まった。雪乃と、そして常人には見えない紡と、一緒に乗り込んで「ネバーアイランド・シティまで」と告げる。キャブは滑るように走り出した。


 紐騙(ニューテイル)の街並みが前から後ろへとせわしなく流れていく。


 やがて見えてきたのは大きな橋だ。


 ミルハッタン島からイースト・リバーの中州にあたるガートルード島の頭上を経て、キングス地区へと向かう梁橋——キングスボロ・ブリッジである。全長約一キロ、幅三〇メートル。およそ一〇〇年前に開通したこの橋は老朽化が進んでおり、今も改修工事の真っ最中である。


 手持ち無沙汰にしていた綴はキャブの中から何気なく窓硝子の外を覗き込む。幾重にもつらなった橋の梁の向こうに、日が高くなり始めた紐騙(ニューテイル)の青空が見えた。


 キャブはガートルード島を抜け、キングス地区へと入る。


 キングスは紐騙(ニューテイル)に存在する地区の中で、最も大きい面積を持つエリアだ。観光名所の意味合いが強いミルハッタンと比べ、大陸入植以来、様々な国の民族が住み暮らす街でもある。またいくつかの観光スポットを除けば、あとは居住区なので、ミルハッタンより道も複雑で混然とした雰囲気があった。


 キャブは綴の細かい指示を受け、キングスボロ・ブリッジの袂からさらに二一丁目(ストリート)を北上していく。やがて三〇番街(アベニュー)にさしかかったところで、綴は「ここでいい」と運転手に告げた。


 降り立った場所はさっきまでいたストーンテイラー・センター付近と比すると、かなり閑散とした景色が広がっていた。通る人影はなく、背の低い建物がいくつか、それと空き地と道路を隔てるレンガの壁には色鮮やかな落書き(グラフィティ)がびっしり描き込まれている。道路には路上駐車の長い列、その後方は朝の送迎の仕事をすっかり終えて、お役御免となっている黄色いスクールバスのたまり場となっていた。


 ネバーアイランド・シティは長らく工場地帯だった。イーストリバー沿いなどはミルハッタンが一望できるとあって高級ホテルなどの開発が進んでいるものの、少し奥に入ればこんなものだ。慣れ親しんだ光景に三人はとりたててどうこう言うわけでもなく、慣れた道を進んでいく。


 くすんだ茶色のアパートをいくつも通り過ぎ、やがて隣のアストレア地区との境へと入っていく。寸止まりの道の先に、その孤児院はあった。


 敬愛孤児院。そう東国語で記された門扉を綴は視線でなぞる。


 東国人(イースタン)以外の地元民はずっと「KI」だと思っているらしいが、そうではない。敬い、愛する。そういう意味の言葉である、と亡き院長先生から教わった。


「行きましょう、綴さん」


「なにしとるんじゃ、はーやく!」


 はっとして顔を上げると、雪乃と紡が手招きしていた。特に雪乃の表情はさきほどレンダーの前で見せた強張りようとは打って変わって、嬉しさが滲み出ている。綴は一つ大きな呼吸をすると、孤児院に足を踏み入れた。


 土地が余っている場所だけあって、敷地は広い。大きな園庭に、孤児院のシンボルともいえる大樹。あとは滑り台やブランコ、ジャングルジムといった遊具が置かれている。砂場には孤児たちが作ったのだろうか、綴の膝の高さまである大きな山ができていた。


 対して、孤児院の中はしんと静まり返っていた。赤屋根にL字型の建屋の中からも人の声はしない。


「きっとお昼寝の時間ね」


 雪乃が懐かしげにそう言うのに、綴は「そうだね」とだけ軽く相づちを打った。


 一番手近な入り口から建物内に入ると、そこでは数人の大人が事務作業に明け暮れていた。来訪者に一早く気づいたのは一番年かさの女性で、花や動物などのアップリケをつけたエプロン姿のまま、綴たちを出迎えた。


「ようこそ、いらっしゃいました。ささ、どうぞこちらへ」


 彼女はこの孤児院の今の院長だ。たかだか一六、七の少年少女らに対して、腰の低く、ともすれば卑屈な物言いはしかし、今から行うことを思えば致し方ないことかもしれない、と思った。


 保育士たちが詰めている事務所の隣の応接室に通された綴と雪乃は、いつも通りソファに腰掛けた。ちなみに紡は傍でふわふわと浮いている。院長は向かいに座り、どこかそわそわと尻を動かしていた。


 綴は雪乃に目配せした。雪乃もまた一つ頷く。綴は懐に手を忍ばせ、つい今し方レンダーから貰った分厚い封筒をそのままローテーブルの上へ置いた。


「院長先生、今月分の寄付金です」


「まあ、まあ」


 院長は遠慮がちに、しかしその両手はしかと封筒に伸ばしていた。我が子を抱きしめるようにして札束を受け取ると、何度も頭を下げる。


「ありがとうございます。これでまた子供たちも安心して暮らせます」


「こちらこそお礼を言います、アリマ院長」


 雪乃がにっこり微笑んでそう返す。


「先代院長の後を継いで、私たちが帰る場所を守ってくださること、感謝してもしきれません」


 アリマ院長の皺の入った目尻が下がり、雪乃を潤んだ瞳で見つめた。が、それも一瞬のことで院長は表情を隠すように俯き、一礼した。


「とんでもない。私は私のできることをしているまでです」


 昼寝中の孤児たちを見ていくか、という院長の誘いを固持し、綴たちは連れ立って園庭へ戻った。孤児院への施しは純粋な慈善であるが、金の出所は——というと後ろめたさもある。雪乃は肩の荷が少し下りたとばかりに早足で園庭を巡った。


「わっち、ブランコ大好きじゃったな」


 紡が雪乃の目の前でひょいとブランコに腰掛ける真似をしてみせる。幽霊なので支障はないが、当然ながらサイズは合っていない。


「ふふ、そうでしたね。あ、覚えてますか? 紡さんが綴さんの頭にブランコをぶつけちゃったの」


「もちろん覚えてるよ。っていうか、まだ恨んでる」


「お主、しつこすぎじゃ。そもそもあれは綴がいきなり飛び出してくるから悪かったんじゃおっせんか」


「雨の日は後頭部の古傷が痛む」


「嘘をつけ、嘘を」


 双子の言い合いを見て、雪乃が軽やかな微笑を漏らす。


 ついで白くたおやかな手がそっとブランコの柵部分に触れた。


「当然ですけど、全部綺麗になってますね」


 赤と黄色と青の原色で塗り分けされたその遊具は、ここ数年で設置されたと思しき真新しいものである。


 綴は少々どきりとした。雪乃がこうして『あの日』のことに触れるような発言をする時はいつもそうだ。


「そうだね。あの時……全部焼けたから」


 綴の危惧もつゆ知らず、雪乃は穏やかな表情のまま園庭を眺めていた。


「ええ。仕方のないことですよね……」


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