第五話
駅員の震える指がかろうじて二つ先の柱を指し示す。綴は飛びつくように柱へ駆け寄った。案内通話と緊急事態のボタンがあり、迷わず後者を押す。
リリリリリリ——とけたたましい音がホームに反響し始めた。途端、甲高いブレーキ音がトンネルから聞こえてくる。できることはやった。綴はオルトロスの背に未だ立っている少女を振り返り、叫んだ。
「姉さん、逃げて!」
しかし義姉は——片平雪乃は動かなかった。それどころか懐からいくつものびっしりと文字が書き込まれた紙片——呪符を取り出し、右手の中で扇状に広げる。万が一のために備えるつもりだ。
「姐さん!」
悲鳴じみた声を上げ、紡が飛んでいこうとするのを、雪乃は空いている左手で制す。透き通った紫水晶の眼差しは真っ直ぐ前を見据えていた。
やがて南側のトンネルから先頭車両のヘッドライトが差し込んだ。ぎゃりぎゃりと音を立てて、電車が減速しながらホームに滑り込んでくる。強くブレーキを掛けているせいで、車輪からは火花が散っていた。
地下鉄の中に漂う生温い風が綴の前髪を浮かせた。今度こそ、綴は片膝を突き、居の姿勢でもって車両の先頭を睨んだ。
車両が破損しようが、運転手がいようが、乗客がいようが関係ない。
ブレーキが間に合わないなら。
——雪乃を傷つけようとするなら、《《電車ごと斬る》》。
そう、心に決めて。
耳障りなブレーキ音が地下鉄のホームを満たしていく。窓の形に区切り取られたパニック状態の乗客たちの光景を乗せて、オルトロスとそして雪乃に近づいていく。
あと五メートル、四メートル、三メートル——
電車は、果たして止まった。
雪乃の白雪のような髪が、風にふわりと浮き上がる。
やがてその膨らんだ髪が元に戻るのを見て、綴はようやく肩の力を抜いた。
緊張で張り詰めていたホームにも弛緩した空気が戻ってくる。雪乃は再び白い紙片に力を込めてそれを翼に変えると、オルトロスの背からホームに降り立った。
「っ、と」
着地に少しふらついた雪乃に慌てて駆け寄り、その華奢な肩を支える。雪肌の頬が綴を見つめて優しげに緩んだ。
「ありがとう、綴さん」
綴はとっさに眠るオルトロスへ視線を逸らした。
「ああ、うん。どうってことないよ。それよりどうして姉さんがここへ?」
「レンダー先生の《《お知り合いのペット》》がいなくなってしまったらしくて。頼まれて探していたら、こんなことになってしまったの。ごめんなさい。でも綴さんと紡さんがいてくれて良かった」
ほっと安堵した様子で胸に手を当て、柔和に微笑む姿はまるで聖母のようだった。それを間近で見てしまい——見慣れているはずなのに——とっさに二の句が継げなくなったところへ、紡が飛んできた。
「姐さーん! 心配したでありんす!」
「私もです、紡さん」
ぎゅうっと抱きつく妹に義姉は慈しむように頭を撫でてやっている。
「あとはヴィヴィアンさんが処理してくれるはずです。私たちは事務所に帰りましょう」
そうだ、出勤途中だったのを忘れていた。綴は戦闘によって乱れていた衣服を正すと、雪乃に向かって一つ頷いた。
と、そこへ震えがちの声がかかる。
「あ、あの……あなた方は何者で?」
未だ足腰が立たない様子の駅員だった。三人は顔を見合わせ、綴が代表して答える。
「——別に。通りすがりの魔術師だよ」
「あ、あなたが……魔術師——」
魔術師とは現実種たる人の身でありながら、魔力を用い奇跡を生み出す者。
——その総称である。
セミキャスト・ビルディングは紐騙州ミルハッタン区ミッドタウン地区に位置する、超高層ビルだ。
ストーンテイラー・センターと呼ばれる巨大複合商業施設の中心部にそびえ立ち、通りと番地に由来して、別名・三〇ストーンテイラー・プラザ、またそのどっしりとした外観から『石板』などとも呼ばれている。
その名の通り、共州国きっての財閥・ストーンテイラー家によって建設された。今はグローバル企業として名高いジェネシック・リーガル社が保有しており、その中核事業である三大ネットワークテレビ局の一つ、セミキャストの本社として機能している。またビルの最上層、六八〜七〇階までは『トップ・オブ・ザ・スラブ』と呼ばれる展望台になっており、特に屋上にあたる七〇階のアッパーデッキは遮るものがない視界で紐騙を見渡せるとあって、観光客の人気も高い。
結局は紡の希望通り、キャブでセミキャスト・ビルに乗り付けた綴たちは、ビルのセキュリティゲートを通り、中階層へ昇るエレベーターに乗り込んだ。セミキャストが入っている階層以外は別の不動産会社が所有しており、賃貸オフィスとなっている。
エレベーターが三六階で止まる。しゃんと伸びた雪乃の背を追いかけ、綴は気が進まないながらも廊下を歩み始めた。そのさらに後ろをふわふわと紡がついてくる。廊下は静まり返っており、リノリウムの床を歩く二人分の足音だけがやけに耳に付いた。綴は後ろ頭を掻きながら、雪乃に尋ねる。
「えーと、やっぱりあのセンセイはいるんだよね?」
センセイ、のニュアンスが微妙に揶揄っぽくなったのは仕方ない。だが雪乃は気にとめる風もなく、頷いた。
「はい、いらっしゃいますよ。なんでも朝一の便で花観頓から帰ってこられたとか」
「別に来なくてもいいのに……」
「ふふ、綴さんは先生が苦手ですもんね」
「わっちは好きじゃ。飴くれるし」
「幽霊が食べ物で釣られてるんじゃない」
「なにおう。幽霊でも食べれる飴は希有なんじゃぞ!」
ぽかぽかと背中を叩いてくる紡を片手で軽くいなす。そのやりとりを見て雪乃の表情にささやかな花が咲いた。その光景をそっと胸にしまい込み、綴はこれから始まる気の進まない面会の糧とすることにした。
とあるオフィスの前で立ち止まった雪乃が、IDカードをかざし、ドアを開く。
そこはだだっぴろい部屋だった。
軽く二〇〇平方メートルはあろうか。開放感の由来はなにも広さだけではない。全面ガラス張りの窓は紐騙のビル群の景色を映し込んでいた。もちろん昨日のホテルのように無防備ではない。ガラスとポリカーボネートのラミネート構造になったULレベル一〇の防弾ガラスだ。微妙に景色が歪んで見えるのが難点であるが、昨夜、綴が使用した長距離狙撃用ライフルで四・六メートルの位置から射撃しても耐えうる構造を持っている。
室内には高級マホガニー材の大きなデスクが一つあり、ノートパソコンに数種類のファイル以外は何も置かれておらず、整然としていた。デスクの奥には革張りのプレジデントチェアが鎮座している。デスクの正面にソファ一対とその間にデザイナー家具と思しきガラスのローテーブル。あとは政治や法律、経済の本が並べられた棚が一つ。たったそれだけがこの広い部屋に置かれている全てだった。
もちろんここは執務室兼応接室というだけで、別室には会談用のダイニングや寝泊まりするための寝室などがあり、まるでホテルのスイートルームのような作りになっている。またオフィスとしての実務は同じ階の別スペースで行われている。こともあろうにこの部屋の主は、都心の一等地に位置するため、家賃が馬鹿高いこのビルのワンフロアを丸々貸し切っているのだ。
綴は胡乱げに視線を上げた。デスクに座ってパソコンに向かっていた若い男もまたつと青い目を上げた。
そしてにやりと片方の口端を吊り上げる。
「——おはよう、少年少女たち」
ただでさえ胡散臭い声は、至近距離で聞くとなぜだか嫌味っぽさが増す。綴は唇を真一文字に結びながら、その男を見やった。