第二話
不夜城と謳われる紐騙にも朝は来る。数カ所あるうちのセーフ・ハウスの一つで夜を明かした綴は、外に出るなり、大きく背筋を伸ばした。
生まればかりの朝日が昇る空は遠く、狭い。かろうじて昨夜と地続きの晴天であることが分かるくらいだ。紐騙のミルハッタン島ミッドウェスト・エリアに位置するここ七番街の路地は、雑居ビルに埋め尽くされていた。
出勤前に朝食でも摂るか、と七番街を徒歩で抜け、すぐ南側のティルシー・エリアに入る。かつては劇場やミュージックホールが多く存在した芸術の街も、今は雑貨店やカフェが目立つ。通りでは近々何かの催し物があるのか、工事現場の足場が組まれ、道路沿いの外灯には何やら派手な飾り付けがされていた。
そのまま通り沿いのカフェに入ると、何故かテラス席しか空いていなかった。基本的にはあんまり目立ちたくないのだが、そのカフェはテラス席の数が多く、ビジネスマンと思しき男一人がサンドウィッチにかぶりついている様子を見受けられたので、文句は言わないでおいた。
クリームチーズ・ベーグルとコーヒーを注文し、ベーグルの端から食らいつく。もっくもっくと口を動かす。まぁ、美味いといえば美味い。
「——おい、何しやがる!」
唐突な怒声が響いたのは、綴が紙のコーヒーカップに口をつけた瞬間だった。
「どうしてくれる、お前の給料じゃ一年経っても弁償しきれないスーツだぞ」
サンドウィッチを食べていたビジネスマンがモップを持った若い女性店員に食ってかかっている。そのどう見ても安物のスーツには茶色い染みが広がっていた。店員は「ごめんなさい」としきりに謝っていた。よく見るとふわふわとしたパーマがかかった髪の頭頂部に二つの猫耳が、そしてエプロンの裾からはしゅんと項垂れている尻尾が見受けられた。
「ったく、幻想種風情が。我が物顔で闊歩しやがって」
「う、ぬぅ」
唸ったのは綴の傍らにいた少女だった。そして綴が止める間もなくすいよーっと男の背後に近寄っていく。
少女は音もなく男の後ろで姿を現すと、手をだらりと下げ、何故か舌を出しながら、低い声音で囁いた。
「——うらめしやぁ」
「ひっ!?」
《《突然現れた少女》》に、ビジネスマンは悲鳴を上げて椅子から転げ落ちた。食べかけのサンドウィッチがべしゃりと地面に落ちて潰れる。紡はビジネスマンの引きつった表情を手土産に、くすくすと不気味な笑いを残して消えた。
綴は溜息を堪えつつ、ビジネスマンとその幻想種——亜人の店員に近づいていく。
「僕の連れが失礼しました。よければこれ、使ってください」
ビジネスマンに握らせたのは、スーツのクリーニング代を補って余りある金だった。ビジネスマンは狐につままれたように金と綴を見比べていたが、やがて、ふん、と鼻を鳴らして金をひったくると、大股でカフェを去って行った。
「あ、ありがとうございます」
人猫と思しき店員は控えめな笑みを浮かべてみせる。アーモンドのような形の瞳をきらりと光らせ、そして本来何もない空間——綴の右隣を見て言った。
「あなたも。ありがとうね」
「おお、わっちが視えるのか」
少女が姿を現す。意識的に姿を消している——といっても普通の人間には見えない程度に、だ。彼女はちょうどフォトレタッチソフトでグラフィックの透明度を操作するように『存在値』とでも呼ぶべきものを変化させることができる、現世と幽世の間にある存在、らしい——彼女を視認出来るのは、店員が幻想種であり、さらには少なからず魔力を保有している証拠である。