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第6話 婚姻届



永遠は、決して手に入らない。


終わりは、世界に約束された事象だ。


誰もが不滅を願うけれど、これから何億年経ったとしても、人間の手に入らないものの筆頭は、やはり永遠だろう。


そうであるならば――


「…………」

「…………」


甘い匂いが香り立つ洋菓子店の事務所が、鋭利な殺意で充たされるのも、至極当然のことなのかもしれない。


高梨先輩の案内で通された事務所には、俺と彼女の2人。

テーブルを挟んで向かい合うソファに腰掛けて、かれこれ10分くらい無言の対峙が続いている。


濡れ羽色の長い黒髪と秀麗な面差しを冷たく研ぎ澄まし、路傍の石ころを見下ろすように俺を睨みつける。彼女は、暴君の極みだ。


間近に迫る、手の施しようのなくなった未来図に、不安感が胸を潰し、心臓は血液の代わりに胆汁を送り出す。


ざわり。


膨らみきった風船にも似た、張り詰めた空気に、遂に破綻の一瞬が訪れた。







「さっさとサインしなさい。ほら、ココとココ、2箇所に」

「…………」


テーブルの上には、ボールペンと2枚の紙きれが置かれている。1枚は、雇用契約書。そしてもう1枚は……婚姻届。

ご親切にも届出人の署名と判以外の項目は、すべて埋められている。


「……おっかしいな。一般的に婚約に至るプロセスとして、友人、恋人という段階を踏んでいく必要があると思うんだが、とりわけ重要な箇所が迂回してるような気がする」

「仕方ないわね。なら今はこっちでいいわ」


やれやれといった感じで、彼女は別の紙を取り出す。


「妥協したみたいになってるけど、これ借用書だよね?」

「法で縛れないなら金で縛るまでよ」

「一瞬ちょっとかっこいいと思ったけど、やってること最低!」


彼女の名は、御堂春花(みどうはるか)。俺の幼馴染みで、雪花の実姉。そしてエイルハートの元従業員にして俺のライバル。

性格は……見ての通り。普段は深窓のお嬢様って感じなのに、俺相手になると、途端に傍若無人の女王様に早変わりする。しかもその言動は理屈よりも感情優先ときてる。


「……春花さんや、色々と聞きたいことはあるんだが、まずはおめでとう。俺より先に夢を実現したんだな」

「そうね。かつて私たちは互いの夢を語り合った。あなた一流のパティシエになること。私は自分の店を持つこと――」


うんうんと俺は適当に相槌を打ちながら、結婚云々から話が逸れ始めてることに安堵した。


「――そして私が夢を実現させたとき、あなたは私のものになることを誓ったわ」


腰砕けになるくらいの横スラがゾーンに返ってきた。


「待て待て! どうしてそうなった!? 俺はそんな誓いをした覚えはないぞ!?」


よしんば俺の記憶が胡乱な幼少期に〝けっこんのやくそく〟をしたとして、そんな子供時代の軽い口約束を律儀に守っていたら、この世は幼馴染と結婚する人だらけになっているはず。いや、それどころか重婚者で溢れかえるかも。


「悠人。いつ日か私が夢を叶えたとき、〝私の店で共に働く気はあるか〟と、あなたに尋ねたわよね?」

「んー……うろ覚えだけど、確かにそんな話があった……ような?」

「そして、あなたは首を縦に振った。それが答えよ」

「ぜんぜん答えになってないし、話が繋がらない」


しかし状況が状況なので、俺は正確な記録を脳内から引っ張り出すことにした。


そう、あれは、佳枝さんに弟子入りをして3年目――俺がフランスに旅立つちょっと前のことだった。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「悠人」

「んー……?」

「1つ、聞きたいのだけれど」

「んー……ちょっと待って……いま、仕上げに入ってるから……」


その日、俺は出国前の最終試験という名目で、新作のフルーツタルト作りに励んでいた。

頭の中はそのことで一杯で、隣で作業する春花の姿は視界にも留めず、手だけを黙々と動かし続けていた。


「そのままでいいから、私の話を聞きなさい」

「ん―……じゃ、手短に……」

「いいわ、それで。じゃ、いくわよ」

「んー……」


タルト生地の上にカスタードクリームを絞り、粉糖を振りかける。

最後、フルーツの盛りつけは、パティシエとしてのセンスが問われる大事な作業。


「も、もし、私が自分の夢を叶えたら、あ、あなたは私の店で働く気はあるのかしら、ねえ……?」

「んー……あぁ……」

「~~~~っ!!!!」


だから、隣で春花が、普段滅多にないこと――言葉が淀んだり、ボウルをひっくり返したことなんて、気にも留めなかった。


「んー………………ん! よし、できたっ! 早速、佳枝さんとこ持ってこっと!」


会心の出来映えだった。こいつなら、きっとあの鬼のように厳しい佳枝さんを唸らせることができるだろう。自信もある。


切り分けたタルトを皿に載せ、フフンと鼻を鳴らし上機嫌で厨房を出ようとすると、春花に腕を掴まれた。


「待ちなさい、悠人。念のため確認したいのだけれど、あなたは、いま、「あぁ」って、返事したわよね?」

「え? あー……確かに返事はした、かな……?」


なんとなく不穏な気配を感じた俺は、曖昧に言葉を濁す。すると、春花は掴んだ腕に力を込め、俺を壁際に追いやった。


「ひ、ひいっ!」


顔の横に掌底が飛んできた。いわゆる壁ドンってやつ。


「ハッキリしなさい。イエスか、ノーで。この場で、いますぐ」


普段から赤みがかった春花の目が、血走ったように爛々と輝いている。史記を元にした馬鹿の語源が脳裏をよぎった。


「い、イエスです、マム。だから、痛いのは勘弁してもらえませんかね……?」


命乞い。懇願。タルトを載せた皿は、見事に震えている。


「……………………」

「だ、ダメっすか? もう遅いってやつっすか?」

「……そう。承諾ってことでいいのね。分かったわ、もう用は済んだから行ってもいいわよ」

「し、失礼しまーす!」


俺は、脱兎のごとくその場から逃げ出した。


完。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「……………………」


脳内からひねり出した俺の記憶は、ろくでもないものだった。


「思い出してくれたかしら?」

「うん、まあ……」


ちなみにあの後、俺は壁ドンの恐怖と脱兎走りによって、盛りつけが見事に崩壊した例のタルトをうっかり佳枝さんのデスクに置いていってしまった。

おかげで俺は危うくフランスを行きを取り消されそうになっただけではなく、今でも夜な夜な夢に出てくる佳枝さんの「くぁぁぁつぅぅぅるらぁぁぁぎぃぃぃ!!!」の雄叫びに悩まされている。


「それじゃ、改めてココとココにサインを――」

「……………………」


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