2.ヴェールハイト王国・シュテルン筆頭公爵家
千年続く世界一の大国、ここヴェールハイト王国の筆頭公爵家であるシュテルン公爵家は今、屋敷中、いや領地中を緊迫の渦に巻き込んでいた。
前公爵であるゲオルグ・シュテルンは、三十年前に起こった周辺国との大戦争と魔獣討伐で多大な功績を上げ、『救国の英雄』『空駆ける雷神』などと言われる王国最強の戦士である。
シュテルン家は大貴族には珍しく、代々恋愛結婚を家訓とする家門である。英雄ゲオルグも、先々代国王の一人娘であるテレーゼ王女と大恋愛の末結婚し、王国の地位を盤石なものとした立役者だ。
そんな英雄までもが緊張した面持ちで、廊下を行ったり来たり、行ったり来たりしている。
ゲオルグだけではない。元王女のテレーゼすらも、落ち着こうと刺繍を試みているが、手元の布は血だらけである。
そして二人の長男であり現公爵であるエドガー・シュテルンに至っては、廊下で祈るように手を組みブツブツと独り言を言いながら、壁にゴンゴン頭を打ち付けている。もう完全なる不審者と言っていい。
いつもならば何事にも動じない使用人たちでさえ、今はとても手当てどころではない。手に汗握りつつ、各々の仕事を無心でこなしている。何かしていなければどうにかしてしまいそうな、未曽有の緊張感が張り巡らされていた。
そんな中、養子ではあるがシュテルン家の第一子として、覚悟してこの日を迎えた五歳のレオンハルトだけは、落ち着いて美しい所作で紅茶を飲んでいる。
『生まれてくる弟こそが、純然たるシュテルン家の後継者。僕は命をかけてこの家と弟を護っていこう』
後ろで一つに結わえた銀髪に、知性に満ちたアイスブルーの瞳の美しい少年は、幼い心にそう決めていた。
◇◇◇
現公爵夫妻はなかなか子宝に恵まれず、二年前に養子にしたのが縁戚であるカメーリエ伯爵家の三男であり氷魔法を使えるレオンハルトだ。
ヴェールハイト王国だけがこの世界で魔法使いが生まれる国であり、それこそがヴェールハイトを世界一の大国にまで押し上げた大きな理由である。
建国者である初代国王が大魔法使いであったためと言われているが、多少なりとも王家の血が入っていないと魔法の力は現れないため、今やその出生数は非常に少ない。
しかし王家に血が近いからと言って発現するとも限らないのが悩ましい。現に元王女であるテレーゼにも、現在の国王にも全く魔力が無い。そして発現したとしても、王家の血の濃さは魔力の強さに無関係である。生まれるまで予測不能な存在、もし運良く生まれたら家の繁栄を約束する存在、それがこの世界の魔法使いなのだ。
どんなに弱い魔力でも、魔法使いの男子ならば高位貴族の養子になったり、高位官僚として成功は約束されたようなもの。女子ならば王家の血を引く証明となり、条件の良い結婚は思いのままだ。その魔力が強ければ尚更である。
強い魔法使いには御使いと呼ばれる存在がいる。こちらも王家の血を引く者だけがその力を宿す。思いのままに獣の姿になり、その力を主人のためだけに使う従僕だ。今現在、世界で御使いを有する者はゲオルグとレオンハルトだけである。
レオンハルトは強い氷の魔法使いで貴重な御使いを持ち、長子でないことからシュテルン家の養子に選ばれた。
養子にきて二年。自分の役割を重々承知していたレオンハルトは毎日努力した。当初まだ三歳という幼さだったにも関わらず、自ら望んで学問も剣術も研鑽を積み、指導者が目を見張る程に上達していった。
家族にも使用人にもいつも丁寧に心を込めて接する英邁な小公子として、努力を重ねる日々の中、ある日公爵夫人が妊娠したのだった。
『弟は英雄の血を引く真の後継者だ。僕の役割は弟を陰日向となって支えること』と幼い心に誓ったある日、公爵夫妻に部屋に呼ばれた。きっと後継者から外すと告げられるのだと予想した。
「生まれてくる子が男の子だとしても、私達はお前を後継者とするつもりだからね」
優しく微笑んだ両親は、レオンハルトを自分達の間に座らせると、右と左からギュッと抱きしめた。
「幼いお前の努力を誇りに思っているよ。私よりも立派なシュテルン公爵になると確信しているからね」
「父上、母上、きっと男の子が生まれます」
「あらレオ、私はまだ諦めてはいないのよ。ずっとやってこなかった赤ん坊が宿ったのですもの。次の奇跡もあると思わない?」
公爵夫人はレオンハルトの手をとり、自分のお腹にそっと当てた。
そう、レオンハルトが当然のように『生まれてくる子は男児である』と思い込んでいるには訳がある。
シュテルン家は何故か男系家系で、もう百五十年以上女児が生まれていないのだ。
国民皆が周知しているほど有名な事実であり、男児が欲しい者には『シュテルンの加護がありますように』等という言い回しが浸透している程なのだ。
テレーゼは『自分こそが皆の思い込みを断ち切ってみせますわ』と、五人の子を産んだが全員男児であった。
今回の妊娠は、現公爵夫人クリスティアーナにとって、渡されたバトンであったのだ。