5話 早く帰して欲しいんだけどなぁ
午後の授業が一切頭に入ってきませんでした。お隣にいらっしゃるミシェーラ様も徐々に苛立ちを大きくされています。
クラス中がその雰囲気に冷や汗をかいている中、講義を受け持ってくださっている理事長のエミリア様だけが、いつも通りの様子で時間が過ぎていきます。
まだまだ開校して数年の本校では、講師が定まっておらず、令嬢の礼儀作法に関わる講義はすべてエミリア様が引き受けているそうです。
まあ、私みたいな臆病者の伯爵令嬢を欲しがるお偉いさんなんていらっしゃらないでしょうし、政略結婚先に失礼のない程度に身につけば大丈夫ですよね?
そして放課後まで時間が過ぎてしまいました。ミシェーラ様は、早く行きなさいと目で訴えてきています。
よほど、私がバルツァー様にお呼ばれしたことが恨めしいのでしょう。私はなるべく早く彼女の視界から逃れるように教室から退散しました。
「大丈夫。大丈夫。バルツァー様が私にたいした用事なんてない。きっと大丈夫。すぐ帰れる。何かの間違い。呼びつけられてお会いして、勘違いだったあははって…………なりませんよね」
お昼に入ったビップルーム。これで最後だと信じ、私は一歩。また一歩と進んで行きます。そこに向かう道から、既に伯爵家ごときが立ち入っていい雰囲気ではないことがわかります。
いえ、伯爵家の中でも我が家のようなド田舎伯爵家が、勝手に私の中の伯爵家のイメージになっているんですけどね。
あの壺。万が一割ってしまったら、我が家は借金まみれになって潰れそうですよね。田舎なおかげで豊作ですから、大きな借金ができないことが唯一の取り柄です。
「ついにここまで来てしまいましたね」
うっかりこの招待状を破いてしまえば、入れなくならないかな。いえ、バルツァー様を待たせて訪問しない方が怖いことになりますよね。
「お願いします」
招待状を受け付けさんに渡し、あっさり入室手続きが済んでしまいました。バルツァー様からのお呼び出しということで、指定された個室まで案内されます。
既にバルツァー様はいらっしゃるとお聞きしましたので、失礼のないように入室しなければいけませんね。
「しちゅれいしま…………」
「…………」
終わりました。お父様、不甲斐ない娘でごめんなさい。絶対に失敗しました。だってバルツァー様のご表情が、眉間にしわが寄り、完全にこちらを睨んでいらっしゃいますから。
「し、しれぇしまーしゅ…………」
「座れ」
「はひ」
バルツァー様の重低音の声に、私はなるべく震えていることを悟られないようにゆっくりと椅子に腰をおろします。
顔中冷や汗が流れている気がします。一ミリも表情を緩めることもできません。怯えているだなんて失礼に値します。
「昨日のことをもう一度質問していいか?」
「いえ」
「あ?」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?
「違います! えと! その! 条件反射で! あ、これも違います! えと、えとあのごめんなさい! あの、えと、ごめんなさい」
「名前、マリー・コースフェルトで間違いないな? コースフェルト伯爵家の」
「は、はひ」
何故、そのようなご確認をされているのでしょうか。私の個人情報なんて不要でしょうに。
「質問させてもらおうか」
「はい」
え? 何だったのでしょうか。なんの確認で我が家のことを? まさかバルツァー様が全力で我が家を取り潰しになさると言うことなのでしょうか。なんで? 初日に逃げ出したから?
「ごめんなさい! 我が家だけは! 我が家だけは! 私が全責任を負いますから!!!!!」
「何を言っているんだお前は」
「うわああああああああああああああん!! ごめんなさいお父様ぁあああああ!!!」
私が大泣きし始めると、突如、私の目の前でバルツァー様が手を叩き、大きな音を鳴らしました。
「え?」
「まずは質問をさせろ。昨日、お前が俺から逃げ出した理由はなんだ。言ってみろ」
「あのあのあのあののの。えと。大きな男性がその怖くて」
「それだけか?」
「はひ。あの、正直に答えましたので、我が家だけは手を出さないでもらえますでしょうか?」
私がそういう風にバルツァー様に伺いますと、何故か彼は眉間にしわを寄せたまま、口角を上げて笑っていました。なんだかとっても嫌な予感がします。
今回もありがとうございました。