状況確認、話はそれからだ。
あり得べからざるものを見ると人の意識というのは停止してしまうらしい。この世の何がどうすっ転ぼうとも決して私の目の前に実体を持って現れることが無いはずの『ネトゲの自キャラ』に相対する状況に、私の目はまん丸に見開かれた状態で停止した。
けど、ずっと停止しているわけにもいかない。この体の前の持ち主が貯えた知識が、脳の中にある情報が、今の私達が一体どういう状況にあって、どれほど奇異な姿をしているかを教えてくれているからだ。
知識曰く、情報曰く、この肉体の元主は流行病で亡くなった村娘である。家族の類は既にない。彼女より先に皆亡くなったからだ。そんな天涯孤独の村娘はとても寂しい最後を迎えた。そして亡くなっていると付かれた後、恐らくは簡素な葬儀をもって村の外れの墓場に埋葬された。
てことは、今私が掘り出されたここは村の外れにある墓場ということになる。ということになる、っていうか、墓場だ。だって私棺桶から出てきたし。ちょっと服が腐敗臭臭いし。あ、でも体が腐ってる感覚とか、病んでいる感触はない。不思議だ。魂を装備したことで負傷の類がリセットされたってことなんだろうか。
いやそれはどうでもいい。体の調子云々はこの際どうでもいい。問題は、今現在の私が「墓場から起き上がってきた人間」っていうことだ。
どっからどう見てもただのゾンビじゃん! 駆逐対処じゃん! 見つかったらやばいよ! 目の前にゲームの自キャラがいるっていう状況以上にヤバいと思うよ!
「ロキシー、詳しいことは後にして、その、今すぐここから離れられる!?」
疑う余地なくロキシーは私の味方だ。何に例えるよりも確実にそう思った私は、つい先程警戒心を持って飛び退いた相手に駆け寄り、見上げて問うた。
「うん」
私の問いに、ロキシーは嬉しそうに大きく頷いた。ぐいっと身をかがめ、私をひょいと持ち上げる。そのまま片腕の上に私を乗せ、膝を撓ませる。
「いくね」
小さく言われた次の瞬間、強烈なGが体にかかった。うぐぉ、とちょっと内臓を吐きかけ、だが、吐く前に私は体の周りに広がった景色を見て唖然とした。
だって、私の周りにあるのが、星空だったのだ。ばたばたと髪がはためく音に周囲を気にして見回してみれば、周りには空気以外何もない。そこまで観察して、私は理解した。
「跳んだ!?」
私がいるのは地上数十メートル。先程よりも星空が近くなった気がするのは、上にしか無かった星空が横にまで広がっているからだ。
満天の星空と言うに相応しい光景をわたわたと見る私に、ロキシーはこくりと頷いた。
「うん。村から離れればいいんだよね?」
言うと同時にロキシーの足下に光が灯る。まるで空中に階段の踊り場が出来たようなまっさらな円形の足場だ。彼はそれを蹴り、激しい風を巻き起こしながら夜空の中を跳んだ。
うん、二段ジャンプモーションだこれ。
「二段ジャンプ……」
「ここだと、二段じゃ無くてずっとジャンプできるみたい」
「バグかよ」
反射的に言った言葉にロキシーが苦笑した。そうだねぇ、とでも言うように。
「でも、ありがたいバグだ」
「だね。よし、ロキシー、できる限り村から離れて」
「了解!」
微かな落下の感覚の後、また足下に光の円ができる。それを足場にして空中をぴょんぴょん跳ぶこと暫く後、私と彼はとある森の中に落ち着いた。といってもそう長い時間跳んでいたわけではないので、おそらくここは村から半日歩いた所にあるアブダの森の中だろう。東の空に明けの輝きが灯る頃、私達は鬱蒼と茂る森の「上」から森の中に入ったというわけだ。
がさがさと木を揺らしながらロキシーは地面に着地した。見た目の割に柔らかな着地だったのは、彼の動きがゲーム基準だからだろうか。それともこの世界の彼がそれだけの手練れだからだろうか。
どちらにしろ、私の強い味方であることは変わらない。私を認めてくれる存在であることは変わらない。それだけ確かなら、今この瞬間はとりあえずそれでいい。
「ここまで来れば大丈夫?」
朝日の明るさで周囲が少しずつ見えてくる。森の中の、ロキシーが降り立った所には、まるで最初からこうするつもりであったかのように円状の平らな地面が広がっていた。木が先を争うようにして生えているためにでこぼこであるはずの森の中が、まるで村の中心にある石畳で覆われた広場のような平らさを持っていた。
「うん。ここは?」
森の中に入ったことは数度しかないが、この景色はおかしい。そう告げる脳内の海馬器官をなだめつつロキシーに聞くと、彼は嬉しそうに答えた。
「僕が整備した。こうやって」
ロキシーはすいと地面に鏡、右の掌を押し当てた。瞬間、手の下に黄色の輝きをまとったファンタジーっぽい魔方陣が輝きだした。みているうちに水平に整えられただけで雑草がいくらばかりかあった地面から雑草が逆再生でもするように消えて行く。逆に、地中からもこりもこりと出てきたのは白だったり黒だったりする石たち。それはモザイクアートでも作るが如く綺麗に地面の上に並びきった。ハッと気付いた時には私が「広いスペース」と評した空間は、石で整備された森中の休憩エリアになっていた。
脳の中の情報が、この肉体の持ち主だった人が生前ためた知識達が、これが魔法だと告げている。魔法で地面が美しく均されてしまったのだと。それが教えてくれるのは、これを為したロキシーが高度な魔法使いということだ。
でも待って欲しい。ロキシーは、先程から言っているように私がネトゲ『イストワール』で作ったアバターだ。
あ、『イストワール』が何かという説明から始めた方が私が抱いている驚きの理由がわかりやすいだろうか。じゃあそちらからしておこう。
ええと、『イストワール』というのは、数年前に所謂『クールジャパン』隆盛の流れを受け、日本の所謂「ヲタク系サブカルチャー」に対する理解があったフランスと日本がタッグを組み作り上げたファンタジー系オンラインゲームだ。戦闘も探索も狩りも製作もなんでもござれの大型ゲーム。世界観は中世ファンタジーと言うのが正しく、ゲームの中にはたくさんのモンスターやアイテムがある。反面、電気系科学文明は全く無い。『ギルド』とか『冒険者』という日本人が大好きなファンタジー概念をこれでもかと詰め込んだ美味しい美味しいゲームなのだ。
『イストワール』は世界観の作り込みに力を入れる分、アバター種族の選択肢は少なかった。選べる種族は四つ。人間族、森人族、山人族、竜人族の四つだ。種族ステータスの差は在って無いようなものだったけど、強いて言うなら山人族の武器や防具の強化成功確率がやたらと高く設定されていたらしい。
種族の次に選べるのは職業。これは剣士、格闘士、野伏、銃士、魔術師、召喚士、鍛冶師、調理師の八種類しかない。ただしこの一個一個の育成の幅が気が遠くなるほど広くて、プレイヤーの間では剣士の中でも聖剣士、白魔道剣士、黒魔道剣士、格闘剣士、包丁剣士、金槌剣士等々様々な種類分けをされていた。公式ではなかったものの、公式の生放送とかでも「包丁剣士の皆様は~」みたいな言い方をされることがあったからほぼ公式って認識でよかったと思う。
そんなイストワールの中で、ロキシーは種族人間族、性別男性、職業は前衛職の剣士。さらにその中でも物理火力で押し切るタイプの格闘剣士だった。格闘剣士の特徴は物理火力と防御力が安定して高い点で、継続戦闘能力が安定して高いのが売りの、私みたいなソロプレイヤー向け職業。逆に弱点として魔法を一切使えないというデメリットがあり、バフを自分でかけられないとかデバフをアイテムを使わないと解除できないって点が上げられる。もちろんそれらはただ一点の解決策を持って無問題にできる。それは何かって? 当たらなければどうということはないってやつさ。
いやいや、私の戦法云々の話はどうでもいい。すっとばそう。とにかく、ロキシーは格闘剣士だ。てことは魔法を使えないはずなんだ。彼がゲームのキャラクターなら使えちゃおかしいのだ。だというのに、先程見たものは間違いなく魔法だった。それっておかしいでしょ。ただでさえ私のプレイヤースキルでデバフ攻撃や大ダメージ攻撃に当たらないっていうのにそれに魔法能力をつけちゃったらぶっ壊れ性能も甚だしくなっちゃうでしょ。運営に苦情メール届きまくりになっちゃうでしょ。
そうそう、そんな超強いロキシーのトレードマークは、情報公開生放送で一目惚れしたせいで次の日から溜まっていた有給をばんと使ってゲームに貼り付き新実装モンスターを絶滅しそうな勢いで狩り尽くして作った全身甲冑です。今着てるやつね。ファンタジーにありがちな機能性を明後日の方向に投げ捨てたとおぼしき凹凸激しい全身甲冑は、まるで夜空を輝く星々ごと煮詰めて作ったような限りなく黒に近い紺色で、あちこちに金の星が輝いているのがたまらなくカッコイイ。瑠璃シリーズの最高クラス、瑠璃甲冑・神霊というのがその名前だ。性能も入手困難度に合わせてべらぼうなスペックであり、こいつを一式揃えられるというだけでプレイヤーがいかにハイレベルな性能を持っているかを示せる一品である。この防具を構成するアイテムの大部分が、寄生プレイヤーお断りとでも言うように「回復アイテム使用不可・制限時間あり・ソロ限定・装備限定」っていう究極ソロぼっち用のクエストじゃないと素材入手できないからだ。しかもドロップ率は低かった。そりゃあもう死ぬ気で集めたよねハッハッハ。
まあ私がこの装備作った理由は「見た目が好み」ってだけなんですけどねー! はは! 好きでプレイヤースキルの全てをつぎ込み作り上げてた時の脳内のドーパミンの分泌レベルやばかったと思う。最高にハイをキメていたと思う。そして最大身長のロキシーにこれを一式揃えて着せたその日の夜、あまりのかっこよさに夢の中で昇天した覚えがある。それくらい好みドストライクな装備です。まずね、青系×金っていう配色がもう私の好みど真ん中で……
って、いや! だからそんなことはどうでもいいんだって! いやどうでもよくないけど今その話してる場合じゃないんだって! なんで装備の話になったんだ。好きなことを語り出すと止まらないオタクか、私は!
まあそうなんですけども! でもさ、大事なことだから二回言うけどさ、そんなことしてる場合じゃないだろ今は!
なんでロキシーが目の前にいるのかとか! 魔法を使えた理由とか! 色々確認したいことがあるんだよ! 集中しろ私! とりあえず目の前の問題を解決してから趣味に走れ!
「話を戻そう」
脳内で己に右ストレートを叩き込み、深呼吸した後、私はなるべく重々しく見える表情を浮かべて威厳たっぷりに頷いた。
「何も話してないけど?」
「いや、こっちの話」
こてりと首を傾げたロキシーに手を振って詫びを入れ、なんとなく石で作れた地面の上に座り込む。若干の腐敗臭が染みついたドレスは安い布を使っていても何枚も重ねるドレスタイプだからかフカフカしており、おしりは痛くならなかった。
「ええと」
色々と新情報が多すぎて頭がこんがらがってくる。座った状態で頭に両手を当て、私はムムッと眉間に皺を寄せた。
優先順位を決めよう。そうしないと思考回路がすぐにさっきみたいなとっちらかりをキメてしまうから。
やることは三つ。
まず、今の私がどういう状態になっているかの確認。
次に、何故ロキシーが私の側に実体を持って存在しているかの確認。
最後に、これから私はどうするか、すればいいかの確認。
一番大切なのは一番最後だけど、前の二つを解決しないことには最後のものは考えようがないからこういう順番にする。あれだ、道に迷った時、家に帰るために必要なのは、まず自分がどこにいるかの把握だっていうのと同じこと。魔法云々とかはほんとこの三つと比べたら全然後でもいいからね。
優先順位を付けたことで思考が落ち着いた。
唇を薄く開き、深呼吸する。肺腑の中の酸素分子と窒素分子の一かけまで吐ききった後、私はいつの間にか私と同じように石の上に座り込んだロキシーを見た。
片手を持ち上げ、ゆっくり自分の顔を指さす。
「ロキシー、今の私、生きてる?」
「生きてる」
かなり緊張しながら放った問いに即答された。こくりと頷いた彼を見て、自分の体を見て、左手の袖を捲り上げる。黒い染みのあるドレスの内側からは目を逸らしつつ白い手首に手を当てると、先程棺桶の中でそう知覚したように規則正しい鼓動のリズムが動脈を押さえた人差し指と中指に伝わってきた。このペースだと、一分間に八十回くらいだろうか。激しい空中歩行をしたり蘇生したてであるという常軌を逸した状況であることを考えると、心臓が早鐘のように打っていることは問題ではない。
脈を取っていた手を離し、眉間に手を当てる。思い出すのはこの世界の知識だ。この体の持ち主の名前は「アメリア・アーメル」という。十六歳の女性。享年十六とかさぞ無念だっただろうな、と思うのだが、脳に残るアメリアの記憶には「やっと終われる」という安心感のようなものしかない。彼女がそう思ってしまうほど、この世界は保護してくれる存在を失った未成年にはキツい世界だった。だって魔法があって、神秘があって、そういうわけでアンデッドもいたりする世界なのだ、ここは。
何が言いたいかっていうと、ほんとに私は、
「アンデッドじゃない? 大丈夫?」
墓場から蘇ったとか、この腐臭染みついたドレスとか、どう自分に甘く考えたとしても、自分がアンデッドであるとしか思えない。思えないけど、体の調子やロキシーの言葉を聞く限り、アンデッドではなく生身の人間だ。悩む。人間として、自分を認識してよいのか、激しく悩む。
「だから、大丈夫だって。人間だって」
ロキシーは私がうじうじひっかかっているのに呆れた。一体何を悩んでいるのだか、と肩をすくめる気配がする。でもこれって大事なことなんだよ。人間かアンデッドかで今後の生活がらっと変わってくるからね。
でもこれ以上悩むことに益がないというのも事実だ。呆れられるほど悩んでいるというのがあほらしいということもよく分かる。だって、これ以上検討のしようがないわけだし。
「よし!」
ならばここは腹をくくるしかあるまい。私は両手でばちんと頬をはった。鋭い痛みとともに、じめっとした悩みが爆散する。
「私は人間! 生きてる! それでよし! 第一の問題クリア完了!」
「うん」
「で、次! ロキシーは一体なんなの?」
ビシッ! と人差し指を向け、首を傾げて尋ねると、ロキシーは同じ向きに同じだけ首を傾げて「僕?」と言った。
「僕は、ロキシーだけど」
「ああうん、それはいいんだけど、ほら、こういうこと言っていいのかわからないけど、君、あの……アバターじゃん?」
「うん」
彼は私の言葉に大人しく頷いた。その首肯と、言葉の端々から、彼は自分が『イストワールという世界からやってきた異形の存在』ではなく、『日米共同開発のゲーム・イストワールの一アバター』であるという認識を持っているということがわかる。
己が物語の登場人物であることを重々理解しているのに、自分は主体ではなく己という人生の紡ぎ手が他にいることを知っているのに、それに驚きも動揺もしていない。それは私にとって奇異に見えたのだが、ロキシーにとっては太陽が東から昇り西に沈むことのように当たり前のことらしかった。
「生物では、ないじゃん? ネットのキャラクターって、言っていいじゃん?」
ならば、と突っ込んで確認してみる。言葉にして示してみればまた認識は変わるのかな、と思ったのだが、彼には些かの動揺も現れなかった。
「うん。でも、ここでは少し違うみたい」
「違う?」
「うん」
頷くと、ロキシーは手の中から私がかつて集めた武器の一つ神聖夜大剣を取り出した。高い光属性を持つ大剣だ。それこそ闇属性の死霊系の敵には効果抜群な武器だ。この武器は背中に背負った状態で周囲にいるアンデッドに対しダメージを与えるという性能を持つ剣である。それだけ聞くとなんだその壊れ武器とかぶーぶー言われそうだが、この武器は装備するとその間アンデッドのヘイトを常に取るという効果もある。つまり装備し続けている限り自分で回復とかできない、ある種の縛り要素を持った武器でもあるのだ。
この武器はこの性能により「目の前の存在がアンデッドか否か」の判定にも使われる。それを思いだし、私は己の体に意識を向けてみた。だがどこにも焼けたりとか痺れたりとかという痛みは発生していない。「わあ明るいな」くらいの認識しか持てない。
なるほど確かに自分はアンデッドではないらしい。その認識にほっと息をついていると、ロキシーは「見て」と言って剣を握る自分の腕を見せてきた。
言われた通りにそこを見ると、甲冑がどろりと溶けては元に戻る、を繰り返していた。控えめに言って気持ち悪い光景だ。
「は!?」
あまりの気持ち悪さにぞわっと鳥肌が立つ。思わず後ろに跳んで距離を取ると、ロキシーはもう用は無いとばかりに大剣を仕舞った。
「今のは、僕がダメージを受けて、この鎧の自動回復効果で回復してるっていう状態」
「ほ、ほう。あれ、でも待って、ロキシーは人間族でしょ?」
「イストワールではそうだった。でも、あなたがそうじゃないと、定めたでしょう」
「定めた? でも確かにゲーム開始時の選択種族は――」
一体何が言いたいのか。思わず眉間に皺を寄せて言いかけた言葉は、言う前に口の中で霧散した。
思い出したからだ。思い当たったからだ。ロキシーの「定めた」という言い方に、覚えがあることに。
「ま、まさか……」
思い出すのは、私がここにきたきっかけの万年筆。私はあれを使い、ネトゲの進行度や、表に出せない脳内設定なんかをノートに書きまくった。俺設定、黒歴史、なんて言葉が似合うことを、いっぱいいっぱい書きまくった。社会人の二十九歳女性としては絶対にシラフでは家の外に持ち出せないことをめいいっぱい書きまくった。
そのうちの一つ、それこそ最初のページに書いた一言がある。替えたてのブルーブラックインクで、滑らかなペン先が奏でるぬらぬらとした書き心地に酔いながら、書き記した言葉がある。
『本名、ロキソプロフェン。通称、ロキシー。種族設定は人間族だが、正確には――』
「『ドラゴンのアンデッドが、鎧の姿になったもの』……」
私の呟きに応えるようにロキシーはその両手を頭部にかけた。鶏冠、と言っていいのか、ポニーテールのような赤色の長い房飾りを揺らし、がぱりと兜を外す。
その下には『イストワール』の設定の通りなら、顔がデフォルトの人間族のアバターの肉体があるはずだ。後からいくらでもキャラメイクできると聞いてとりま設定通りにしたら、その後全身甲冑ユーザーになったせいですっかりほっとかれてしまった肉体のアバターがあるはずだ。
けれど、頭部を外された甲冑の中には何もなかった。
某少年漫画の主人公の弟のように、何もなかった。
もちろん背中側の内側に血の模様なんてものはない。だって、この鎧そのものがある意味で魂宿った存在なのだから。『肉体』なのだから。
「どう?」
からっぽの甲冑から声がする。少し得意げですらある。恐る恐る近づいて手を伸ばすと、ロキシーは兜を横に置いて、私の手を優しく取って自分の体? の内側に導いた。
森の闇が朝の明るさで照らされて、石の配置や木々の葉がよく見えるようになってきた。それだというのに、ロキシーの甲冑の内側は、まるで液体状の闇でも満たされているかのように全く見えない。そこに自分の手を入れれば、手首から先が闇に呑まれて見えなくなった。違う世界に行っている、とか言われても信じられるレベルで手が見えない。
だがそこは違う世界などではないらしい。少し指を動かせば、甲冑の内側に触れることができた。この甲冑は設定上ファンタジー鉱石の一つ『神宿瑠璃石』という「石」で出来ている。そのため指先に感じた冷たさは金属のものではなく、石のものだった。滑らかな大理石に触れた時の感覚が一番近いだろうか。
「うん、甲冑しか無いわね」
この事実が示すのはロキシーが私が書いた通りのドラゴンのアンデッドという設定が生きている、という事実だ。先程アンデッドに効果のある光属性の剣を持っただけで体が焼けていたのもこの証明を助けてくれる要因になるだろう。
ふむ、と頷くとロキシーも真似をして体を揺らした。どうやら頷いたらしい。
「ここにいるのは、イストワールの『僕』じゃあない。あなたが、あの万年筆で『書いた』『僕』だ。だから、僕はドラゴンの不死者だ。ドラゴンは魔法を使える。だから」
「だから、ロキシーも魔法を使える、それが自分だ、と……」
なるほどねぇ。
感心しつつ頷くと、ロキシーが持ったままの兜の房飾りがばさりと揺れた。犬の尻尾みたいに。たしん、たしん、ふわん、ふわん、と穏やかかつ楽しそうに揺れている所から察するに、私が彼に感心したことがとてもうれしいらしい。
なんとなく、甲冑の中から手を取り戻し、出てきた手を兜の上に置いてみる。そのまま撫でてみると、尻尾の揺れは大きくなった。上機嫌か。
たしたしする尻尾を見つつ、私はロキシーに聞いてみた。
「あなたもあの万年筆に会ったの?」
尋ねると、彼は私の手をやんわりと外しつつ、頭を戻して頷いた。
「うん。会った。あなたを守って、って言われた。あと、あなたが生きるために、僕が必要だって」
「確かにこのファンタジー! な世界では私一人じゃ生きられないものねぇ……」
だって魔法がある世界だよ? 魔法以外だと、大体中世ヨーロッパ、もしくは近世のド田舎って感じの文明レベルだよ? 小娘一人で生き残れる世界じゃねぇわ。ハハッ。
納得しているとロキシーが言いにくそうに首を横に傾けた。
「うーん……」
確かにそうなのだけど、そうじゃないところもある。そんなことを言いたげな顔だ。いや顔がないから雰囲気って言った方がいいか。とにかく、言いたいことがあるらしい。
言いたいことがあるなら言っておくれと目で促すと、彼は顎部分に手を当て、思案しながらぽつぽつ言った。
「確かにそう、生き残り的な意味でもそうなのだけど、それだけじゃないっぽいんだ……」
「っぽい、っていうのは?」
「よくわからない。僕が会ったのは、一分も無い時間だから、そこまで沢山喋ってない」
私は体感で……一時間以上は喋っていた気がする。それであれだけしか情報を得ていないのだから、ロキシーにあれやこれや聞いても無駄なんだろうな。
そう思ったが、ロキシーはそんな私の諦念の表情を見て、ムキになったかなんだかして、声を尖らせて言った。
「僕が居ないと、あなたが転移『できない』って言ってたの。だから生きられない、って。それは確か。だから、たぶん、僕たちは離れちゃダメだと思う」
「できない……あなたが私にとっての鍵だ、ってこと? 存在の要石、とか?」
「そこまではわからない……でも、僕がイストワールの僕というよりは、万年筆で書かれた僕であることは、確か。だから僕は、あなたの子。あなたは僕の、創造主」
ロキシーははっきり言うと一度立ち上がり、私を立たせた後、自分は地面に片膝をつける形で身をかがめた。騎士の傅き、という言葉が脳裏に過ぎる。だが傅いてなお私達の身長はあまりかわらない。それを心のどこかで滑稽に思いつつ、私はスイッチを切り替えるようにしてぱちりとシリアスモードになったロキシーに目を向けた。
「これから、どこまでも、一緒に生きる。それを許して、側に置かせて――一緒に、生きて」
――どうか、お願い。もう、ただ動くだけの身を持つだけの存在じゃないのだから。こうして、動いて、手を伸ばせて、伸ばした先に、母たるあなたがいるのだから。
そう緊張した声で言ったロキシーに、確かに聞こえた副音声に、私は思わず笑った。馬鹿にしたとかそういう意味での笑いじゃない。可愛くて、嬉しくて、我慢出来ない心のニヤニヤが顔に出ちゃっただけだ。
だってさ、めっちゃこだわって作った自キャラだよ? どうやれば最強になるか、どうやれば最高にかっこよくなるか、めちゃくちゃ考えてきた自キャラだよ? そんなん愛しい子に決まっている。その愛しい子から一緒に生きてと頼まれるなんて、幸せの極みに決まっている。
にやにやを通り越してでろりと溶けてしまいそうな顔をなんとか納めようと努力しつつ、私は深々と頷いた。
「よろしくね、って万年筆にも言われたし、私は産んだ子を放り出すような親じゃあないからね。それに何より、私はロキシーのこと大好きで愛してるから!
うん、私こそ、よろしくね!」
応えると同時に手を伸ばし、その石の肩をばしんと叩く。当然のことながら人の肩よりもずっと堅い肩にそんなことをしたために、この後五分ほど私は手を押さえて悶絶してしまったのだった。
そして、この悶絶の中で、三つ目の確認も済んだ。「これから私はどうすればいいか」。その問いに対する応えは、ずばり、「ロキシーと一緒に生きる」「二人で生きられる生き方を探す」である。
ま、そのために、とりあえず食べ物とか身の回りのものが必要なんですけどね? 腐敗臭の染みついたドレスとか、いつまでも着ていたくはありませんからなぁ……。