我が子と書いて相棒と読む
昔何かで読んだ事がある。人間が意識を取り戻すとき、一番最初に認識するのは音であると。
だけど私が一番に感じたのは「におい」だった。
「っ……ふ、ぶ、うぐ」
眩しい光に目を閉じた数秒後。何かに吸い込まれるような感覚の後、私はやけに重たい体感覚を得た。たぶん、魂だけの状態から、体を得たから「重たい」と感じているのだと思う。万年筆の言うとおり、魂が肉体の中に入ったのだ。魂が肉という重たい服を纏ったのだ。
体を動かすってこういうことか、体があるってこういう重さか、などという思考と平行して非常に気持ちの悪い匂いを感知し、私は思わず呻いた。
湿っぽい土の匂い。
肉が腐ったような匂い。
噎せ返るように迫ってこないのは、私の周りの気温が冷たいからだ。匂いというのは気温が低いと鈍くなるのよね。なんでかはわからない。たぶん、気温が低いと物質の分子の振動が鈍くなるから、臭いの分子の振動も鈍くなって、そういうわけであんまり臭いがしなくなるんだと思う。
「くっさい……どこ、ここ……」
一つでも情報を得るために、まぶたを開く。まぶたとはこんなに重くしっかりしたものだったのかと驚きつつ、持ち上げて眼球に目の前の景色を映す。
……ところが、何も映らなかった。
「あ、あれ?」
正確に言うと、視界に映ったのは一面の闇だった。何も見えない。夜とかなのだろうか。であれば触覚で周囲を探るしかあるまい。そう思い、手を前に差し伸べようとしてみると、何故か私の手は自分の体のすぐ上までしか上がらなかった。
掌から感じるのは柔らかいクッション性のある壁。おしりや背中に意識を向ければ、そこにも柔らかい感覚があった。どうやら私は何かふかふかしているっぽいものに寝かされているらしい。
試しに足を持ち上げてみる。だが、足も手と同じくらいの場所までしか上がらなかった。さらに、左右にはもっと動けない。足首二つ分くらいしか、足が横に動かない。
(まさか……)
暗闇。
狭い空間。
気持ちの悪い匂い。
『魂の居なくなった体に魂を入れる』という行為。
文字通り闇に手足を封じられ思考しかできぬ私の頭は嫌な想像に辿り着いた。
万年筆が入れた肉体は、ただ魂が抜けただけの肉体ではなく――土に埋まった、死者の肉体なのではないか、と。
それに気付いた瞬間、私の意識は一気に完全覚醒し、それと同時に激しい狂乱状態に陥った。
「あ、開けて! 出して! 助けて!!」
叫びながら『上』を叩く。叩けば叩くほどそれがしっかりした作りの『蓋』であり、その上には無慈悲な重みが乗っかっていることがわかった。
ここはおそらく、棺桶の中。それからわかるのは、私は死に果てた誰かの肉体に宿ってしまったということ。ということはつまり、やっぱり私は土の下にいるってことになる。
叩いてもらちが明かないので手に力を入れて棺桶の蓋を押し上げようとしたのだが、当然のことながらそんなことは無理だった。この体の持ち主が身長二メートルのムキムキマッチョマンでも地中に埋まった棺桶の中から自力で出てくるのは難しいと思う。
ならばとにかく叫ぶしかない。助けを求める声を上げるしかない。
「出してぇ!!」
がん、と蓋を殴る。とにかく音を出して、出しまくって、気付いてもらって助け出してもらうしかないからだ。
暫く蓋を叩いていると、不意に自分の立てる音以外の音が聞こえて来た気がして、私は手を止めた。
がしゅ、ざっしゅ、がしゅ、と一定のリズムで繰り返される音だ。何だ、と考える間もなく私はすぐにそれが何か思いついた。土をシャベルで掘り返す音だ。
誰かが気付いてくれたのだ。よかった、と思う間に蓋の上に何かがぶつかる音がした。恐らくシャベルの先がぶつかったのだろう。予想外に早いご到着だった。もしかすると上に被っていた土がふかふかだったのかもしれない。
「助けて!」
救い主に叫ぶ。たぶんくぐもった音だろうな、と思いつつ喉を枯らして叫ぶと、蓋の向こうから声が返ってきた。
「静かにしていて。気付かれる」
低い、落ち着いた男性の声だ。男の人らしい。
ふと、その声に聞き覚えがある気がした。なんだか耳に慣れた声だと思ったのだ。
でも、知り合いの声ではない。私の知り合いにこんな声の人はいないからだ。
いやそれよりも気になることがある。声ではなく、言葉の方だ。
「気付かれ……?」
どういうことだろうか。棺桶の中で軽く首を傾げると、声の主は私の様子がわかっているかのように的確な答えを返してきた。
「土に埋めた棺桶から、声がしたら、普通は不死者だと、思うもの。でしょ?」
「!」
そういう勘違いは確かに困る。いや、それ以前に、それこそが正しくて、私は転生してアンデッドになってしまったのだろうか。それは流石に嫌すぎる。巡った予想を否定したくて咄嗟に自分の手首に指を当てると、とくりとくりという確かな鼓動を感じることができた。どうやらは死んではいないらしい。
ってことは、万が一、この、蓋の向こうにいる何やら事情を把握していそうな方以外に今の私を見られると、とんでもないことになるっぽい?
アンデッドというゲームじみた言葉は横に置いておいて、私はこれ以上余計な声が出ないように口を手で押さえた。
「あい……」
それでも、一応、指の隙間から小さく声を出して頷く。この声をちゃんと聞き取れたのか、蓋の向こうの方は軽く蓋を叩いた。まるで「いい子だ」とでも言うように。そうしてまたざしゅがしゅと土を掘り返す音が続き、暫くした後、ばき、という明確な音がして、新鮮な空気が入り込んできた。
「遅れてごめんなさい」
新鮮な空気と一緒に、何やら巨躯が見える。視界をいっぱいに埋める人影の向こうには、きらきら輝く星空が見える。
だがその星空が見える面積がばかみたいに小さい。殆ど全ての視界が目の前の人物に埋められているからだ。
その人物は闇夜の中にあるからか、姿形を詳細に視認することは叶わない。しかし微かな星明かりでそのシルエットを把握することができた。
人体にしてはありえない、とげとげした形。
どう見ても常人のそれとは思えない、横にも縦にもでかい体。
頭の後ろににょろりと伸びたかろうじて赤色と分かる房飾りは、光沢があるのか星の光を吸って時折きらりと光っている。
「あ……」
私の目の前にいるのは、全身甲冑の、おそらくは男性、だった。その甲冑が土にまみれた手を伸ばしている。
「掴んで」
伸ばされた手は、夜と殆ど区別がつかない。どうやら黒系の色をしているらしい。
言われて反射的にその手に自分の手を乗せると、甲冑は大きな手で包むようにして私の手を掴み、腕を縮め、ひょいと私を引き上げた。そうして勢いを生かして私を腕の中に抱き留めた。
甲冑は墓穴の底で私を確保すると、もう片方の手をすぐに私の尻の下に回した。体に密着するように抱き留められたと気付くと同時に墓穴の中から飛び上がり、奇妙な浮遊感の後、すたり、と地面に着地する。
腕の中から辺りを見渡せば、シルエットばかりでわかりにくながら、あちこちに膝くらいの高さの十字の形をしたモニュメントが建っているのが見えた。きっとあれは皆墓石だ。
「私、やっぱりお墓の中にいたのね……」
「そう。見つけるのに、苦労した」
全くもう、手間がかかった。そんなことを言いながら、甲冑は飛び出すと同時に閉じた棺桶の蓋の上に足で土を戻した。足の横とふくらはぎで押すようにして土の山をそっくりそのまま穴の中に落としたのだ。
湿った土が落ちる重い音を聞いて、私は周囲を見渡していた目をぴたりととめ、そのまま首を大きく伸ばし、後頭部を背中側に倒した。空を見上げる形となった私の目の先には、甲冑の胸の下が見える。
なるほど頭は見えませんか、と思いつつごつりと甲冑を叩くと、甲冑は体をかがめ、私を見下ろしてきた。
「どうしたの」
「ねえ。ところで、あなた誰」
「えっ僕のこと知らないの?」
声に深い悲しみが混じる。覚えてくれていないなんて、と嘆く甲冑の腕が、僅かに強くなる。腹肉に食い込むその強さにちょっと吐きそうになったがなんとか堪え、私は頷いた。
「私、全身甲冑を着た知り合いなんていないわよ。状況から察するに、どうやらあなた、万年筆の言っていた私の『子』らしいけど、未来の息子か何かなの?」
「違う。違う、違う。今の、あなたの子」
ぎゅう、と抱き締める力とともに肩に堅いものが埋められる。涙を流す目元を肩に埋めるような動作だが、甲冑頭でやられても痛いだけである。ごりっと骨を擦る痛みに思わず呻くと、甲冑は瞬時に手を離した。
手を離されて、腕の力が緩む。その隙を逃すまいと脚で押し出すようにして甲冑を蹴り、私は後ろに跳んだ。
跳んだといっても腕を振り払った程度だ。着地と同時に足が若干もつれたが、転ぶのだけは根性で耐える。そのまま後ろを振り向いて数歩走り、甲冑と距離を取って、振り返った。
その姿を注視しようと目をこらすが、生憎私には夜の闇の中に「甲冑のシルエットがある」ということしかわからない。
「むぅ……」
「あ、見えないのか。なら仕方ないか」
目を凝らしているのが気配でわかったのだろう。甲冑は明るい声でぽんと手を打った後、右の手を前に出した。
その手の中に黄色い光がふわりと現れる。小さい太陽のような、発光する向日葵の花のようなそれは、己を持つ存在を柔らかく照らした。
そうして照らされた甲冑の姿を見て、私は目を見開いた。
甲冑の姿が恐ろしかった?――違う。
甲冑の姿にやっぱり見覚えが無くて戸惑った?――全然違う。
私は甲冑に見覚えがあったのだ。というか、死ぬ前の私は休みの日にはずっとその姿を見ていたし、社会人としての仕事中も、少しでも時間があればその姿に触れたくて、その姿をスマホの待ち受けにしていた程なのだ。
もしかすると親の顔より見つめた姿。それは、私が『生前』で趣味時間の全てを娯楽費用の殆どを注いだオンラインゲーム『イストワール』の、自分のアバターキャラクターだった。
「えっ……?」
びっくりなんてもんじゃない。思わず眼をまんまるに見開き、口はぱっかーんと開いてしまった。自分は今ものすごいアホ面を晒していると頭の端の冷静な部分が思ったが、それを自覚した上で直すほどの余裕は、私にはなかった。
いや、それは仕方ないと思う。だって、死んで転生? したら、目の前にめちゃくちゃ愛を注いだ自キャラがいたんだよ? あまりに仕事で疲れた時になんて「あーもー画面から出てこねぇかなー」とか言いつつ若干熱を持った画面を人差し指の先でツンツンしてた愛しい愛しいマイキャラが目の前にいるんだよ? もしも私にクラフト能力があればフルスクラッチフィギュアとか間違いなく作っていたくらい愛おしい子が目の前にいるんだよ?
それ誰だってアホ面晒してびっくりすると思います。うん。私はおかしくない。
「えっ……ろ、ロキシー……!?」
餌を食べる時の金魚のようにぱくぱく開いたり閉じたりする口から、名前がぽろりと零れ落ちる。ロキシーというのが、私のキャラクターの名前だったのだ。
いや、正確には、『イストワール』で作った自キャラの名前はロキソプロフェンという。ゲームを始めた時に机の上にあった生理痛用痛み止めのパッケージに書いてあった文字を「なんか響きがかっこいい」という理由だけで採用したものだ。当然ながら名前としてはちょっと長すぎたのでいつの間にかロキシーという愛称ができていた。私もフレンドさんもそっちで呼ぶことが多かったから咄嗟に出てきた呼び名もそっちだった。そういうわけで咄嗟に出てきたのも愛称の方だった。
私の掠れ気味の声に、甲冑は、いや、ロキシーはこくりと頷いた。
「うん。創造主、会いたかった。会えて僕、とても嬉しいよ」
頷いて、ロキシーが光源を自分の体に近づける。よく見えるようにと思ってだろうか、彼は引き寄せたその光源を軽く上に放り投げた。
頭の少し上で、何かに引っかかるようにして光源がぴたりと止まる。そうしてそれがスポットライトのように下にあるロキシーの体を照らしてくれた。
闇を温かく照らす光の中で、それに照らされたロキシーの姿がよく見えた。
夜闇の中で光を纏い、闇より強く闇色を主張する彼の姿は、まさにゲームの姿がそのまま外界にでてきたものだった。
全体的な見た目は、一言で言うと紺色の大きな全身甲冑。身長は二メートル半ほどで見上げるほどに大きい。甲冑を構成する紺色の正体は瑠璃石で、よく見ればわかるのだが、紺の中に美しい金色が散っている。さらに鎧の端には細かな金の装飾がついており、動かなければ王城にある美術品の甲冑のように見える。真正面という今の位置からは見えないが、兜の後頭部あたりから長い赤色の鶏冠とかいう名前の尻尾がニョキッと伸びているはずだ。
二次元の存在だったものが、確かな存在感を得て、目の前に存在している。
その認識が作り出すびっくりとうれしいが秒速で私の中に湧き上がってくる。
二つの感情と思考は瞬きの間に私の身を満たし、私という活動機関を二秒も経たずにオーバーヒートさせた。
そうして、私はそれから暫く、具体的に言うとロキシーが「……えと、大丈夫? おきてる?」と恐る恐る手を目の前で振りだすまで石像の如く硬直してしまったのだった。