大事にしたことへの恩返し?
思い出しかけた感覚を摩擦で払って暫く。死んでいるのに肉体感覚があるとはこれいかにと首を傾げつつおぞましい感覚を振り切った私は、止まっていた問いかけを再開させた。
「ここは死後の世界……で、あってる?」
私の問いに、万年筆は一度ゆっくりと上下した後思案げな色を声に乗せて答えた。
「生者の世界ではないという意味なら、そう。でも、正確に言うなら、死後の世界と生者の世界の『間』ってところかな」
「死んだのなら、私は死後の世界に行くんじゃないの……?」
突然の事故死かつかなりセンセーショナルな死に方だったけど、私が死んだことはとりあえず明らかだ。ニュースにもなっているだろうし、昨今問題となっている過労死と絡めて社会問題的なものにも発展しているかもしれない。それが無かったとしても、私にはまだ生きている両親がいる。両親は悲しみながらも、ちゃんと葬儀をしてくれるはずだ。
てことは葬儀は、死者を送る儀式めいたことは、ちゃんとしてもらえるはず。
ならばこんなところで中途半端に万年筆とくっちゃべっているはずがない。私はちゃんと死後の世界か、もしくはそこに準ずる『場所』にスムーズに連れてゆかれるはずだ。
『間』などという狭間的空間で引っかかりなど、ましてや奇妙な万年筆とおしゃべりなどしないはずだ。
おかしい。
現状が、おかしい。
そういう違和感を顔に浮かべてじっと万年筆を見つめると、万年筆はキャップをカチャカチャ言わせ、私の思考を読んで「そうね」と頷いた。
「普通ならそうよ。でも、ほら、あなたには私がいるから。死にかけた魂を引っ張ってきちゃった」
「引っ張ってきちゃった、って可愛く言ってもダメな気がするのは私だけかな……?」
ぞわ、と肌が粟立つ。行くべき所にいく魂をそこにいかないように引っ張る、なんて、まるで物語にある「悪魔に魂を取られる」という行為のようだからだ。
その思考を瞬時に読んでか、万年筆はキャップをカチャカチャ言わせるのをやめた。こちらの機嫌を伺うようなどこか控えめだった雰囲気が、ぱちりと不機嫌なものに切り替わる。
不快だ、と、空気で言いながら、万年筆は棘のある声を出した。
「悪魔と一緒にしないで。私はただ、圭子ちゃんが死ぬのが嫌だっただけよ」
「でも私の体はミンチなんでしょう? とりあえず、魂を引っ張ったとかいうのは頷くとして……それからどうするっていうのさ」
魂だけあっても体がまともじゃなければどうしようもない。そんなこと、考えなくってもよくわかる。良くて無害な浮遊霊、悪くて凶悪な地縛霊になる未来しか見えないんですけど。
「答えは簡単。魂のない体に圭子ちゃんの魂を突っ込みます」
答えると同時に万年筆はかちゃかちゃ言わせていたキャップを完全に取り去り、まるで見えない手に掴まれているかのように明確な意図をもって動き出した。
動きに合わせ、ペン先からインクが出てくる。私の正面約二メートル先に透明なホワイトボードがあるかの如く、何も無い空間にインクでさらさらとものが描かれていく。
最初に描かれたのは、シンプルな人の体だった。その中、胸の中心辺りに滴が一つ描き加えられる。それは人の肉体に魂が入ったものを図式化したものだったのだろう。右隣に右を示す矢印を描き加えた後、万年筆はそのさらに右隣に中に何も無い人型と、人型の外にある滴を描いた。
そして、人型の方に、万年筆は大きくバツ印を描いた。心持ち筆圧高めに描いたのだろう、線が人型を構成する線よりも太かった。
「今の圭子ちゃんは、こんな形」
「なるほど」
「で、私がこれを、確保した」
これ、という言葉と同時に万年筆は滴をぐるりと丸で覆った。そして、その丸から斜め右上に線を持っていく。先にちょんちょんと線を足して長い線を長い矢印に変えた後、万年筆は矢印の先が人型の胸の中に来るようにまた一つ人型を描いた。その人型の魂は、今引っ張ってきた魂だよ、と言うように。
実際万年筆はそう言いたいのだろう。どこか達成感のようなものを感じる雰囲気を纏わせつつ、かちゃりとキャップをはめ直して、矢の形をしたペンクリップが私の方にくるように向き直った。
たぶんだけど、ペンクリップが顔みたいなもんなんだろう。あの矢の形は実際パーカー社の「顔」なわけだし。
そんなことを考えつつ、私は顎に指を置き、一つ呼吸を置いて、今考えているのとは別の感想を口にした。
「色々と言いたいことはあるけど、とりあえずさ、壊れた玩具から乾電池を抜いて別の生きてる玩具に入れるみたいなこと言わないでくれる?」
「的確な例え、さんきゅー」
ツッコミを入れると万年筆はキャップを外しながら空中で一回転し、キャップを外したペン先でビッと私を指してクールに言った。なんだかキメポーズをキメられた気がするが、そしてそれに無性にムカつくが、そんなことはどうでもいい。
私は顎に置いていた指を離し、矢印の先を胸の中に埋め込まれた人型を指さした。
「魂のない体に入れる、って何!? 何かに取り憑くってこと!?」
「取り憑くとは失礼な。取り憑くっていうのは、体の中に別の魂があって、そこに無理矢理入り込む行為のことを言うのよ。先住民が出て行った肉体に入り込むことは取り憑くとは言わないわ。乗っ取るというのよ」
「余計悪いわ」
「いいじゃない。追い出すわけじゃないんだから。圭子ちゃんってそういうところがきっちりしてるというか、融通が利かないわよね」
融通が利かない。よく言われた言葉である。思わずむぐりと口をへの字にして閉じると、ペン先で指した後閉じていた万年筆のキャップがほんの少しだけ開いた。これたぶんニヤニヤ笑い状態だ。なんで万年筆の表情がわかるようになっているのだろう私。
「とにかく、そういうわけで、行き先の体はもう用意してあるから。行く手続きも済ませてしまっているから。そこらへんは諦めてね」
「諦めてね、って……」
「その代わり聞きたいことには答えられる範囲で答えるから、どんどん聞いてね。あなたと喋れるのなんて、もうこの先ないのだから」
「ん?」
それは一体どういうことか。万年筆と喋ることができるという希有な状態であることをひとまず棚の上に置き、私は片眉を持ち上げて聞いてみた。
「この先ない、とは一体どういうことよ」
「文字通りよ。さっきはつくもがみ、って自分のことを紹介したけど、所詮はそれになる条件を満たさなかったただの万年筆よ、私は。
使ってくれた恩に報いるために最後の力を振り絞って今こうしているの。あなたを生かすことが、私の最後の仕事なのよ」
「それはつまり、私を生かすために君が死ぬということ?」
「死ぬ、というか、消滅する、というか。まあそんなところね」
出会ったばかりで即死別。なんだか、あんまりいい気分にはなれないことだ。
「そんな顔はしないで。私の代わりにあなたを守る存在もちゃあんと用意してあるわ」
「守る存在?」
「そう。あなたが私で『紡いで』『生み出した』ものが、あなたを守ってくれる。
あなたの肉体を探す時にね、親切に私に声をかけてきてくれた方がね、それを携えてくるのなら受け入れられるよって教えてくれたの」
「意味分からん。それって誰だ?」
首を傾げると、万年筆は悪戯っぽく笑った。
「ふふふ。それはついてからのお楽しみ。……色々聞いてって言ったのに、答えられなくて、ごめんなさい。それと……そろそろおしゃべりはお仕舞いみたい」
名残惜しそうな柔らかな声とともに、ぱき、と何かが割れる音がした。音源を探して辺りを見渡し、二秒かけて音源になりうるものが目の前の万年筆しかないことに思い至る。であればこの不穏な音は万年筆からかと思って宙に浮くそれに目をこらすと、美しい緑のペン軸に、ぞっとする黒い亀裂が走っているのを見つけた。
「!」
長年使ってきたものが目の前で壊れた衝撃は、例えようがないものだった。思わず駆けだし、空中に浮いたままになっていたそれを手にとる。咄嗟に傷を指でなぞれば指の腹に亀裂が引っかかった。模様ではない。確かな傷だ。
その引っかかりに、全身の皮膚がぞわりと粟立った。まるで、まるで、思いかけず死体に触れてしまった時のような。そんな嫌悪感が脳を介さずに体中を駆け巡った。
そんな感覚を得たのは、これが私にとってただのペンではなく、欠ければ悲しいと思う、大切なものだからなのだろう。
「え、こ、壊れるの、えっ」
四本脚のテーブルからいきなり脚が一本消えたようなぐらつきが、私を襲う。ぐらぐら揺れだした声に、万年筆は、少し前までの張りのある声が嘘のような弱々しさで答えた。
「力を使い切ったから、ねぇ。それに、これから行く世界は、今まで圭子ちゃんがいた世界じゃあない。生まれてくる命達に混じって、全く別の世界に魂だけ行くの。私は、ただの万年筆は、どのみちついて行けないわ」
声が小さくなっていく。まるで曾祖父が亡くなる時に、その呼吸音がだんだん小さなものになっていった時のように。
か細くなっていく声に反比例して、手の中の緑の軸に一つ、また一つ、と亀裂が増えていく。思わずそれを止めようと握りしめたが、握ったところで崩壊は止まらない。
なんだか無性に悲しくなってきて、私の目の端から涙がぽろりと落ちた。この万年筆との付き合いは長いのだ。会話したのこそついさっきが初めてだけど、中学に進学した時に曾祖父から戴いて、それからずっと側にいた。悲しいことも楽しいことも嬉しいことも悔しいこともこの万年筆で書いたことがある。最近は誰にも見せたくない秘めたる楽しい物語を書くためだけに使っていた、秘密を唯一知っている存在である。
そういう意味で、これを――彼女を、友、と。
言っていいと、私は思う。
「泣いてくれるの」
「そりゃあ……」
「うふふ、うれしい。圭子ちゃん、あっちでも元気でね。あなたの『子』に、よろしくね」
耳に近づけねば聞き取れぬほどの小さな声で、万年筆はそう言った。それと同時に周りの光が強くなってくる。自分の手の中すら見えなくなってくる。
細めた目の向こうで、手の中で、音を立ててぱきぱきと万年筆が壊れていく。
「ま、待って。早いよ! まだ話し始めたばかりじゃない!」
聞きたいことは色々ある。私という魂が入る先の肉体ってどんなんなんだ、とか、どこかの日本人の体に入るのか、とか、そもそも人間の体に入るのか、とか。
でもそれ以上に聞きたいことがある。万年筆が、彼女が、こうして意思と心を持つのであれば、聞いてみたい一言がある。
答えてほしい問いが、私にはある。
それを知ってか知らずか、私の唇を押さえる柔らかい声が、光の剥こうから聞こえてきた。
「本当なら、話せなかったのよ」
自分はただの万年筆で、ただそれだけだった。使われるだけの、ただ少し古いだけの道具だった。
万年筆はそれを当然と受け入れた。でも、それでも、最後に奇跡があった。
それがたまらなく嬉しいのだと、それが泣きたくなるほど幸せなことなのだと、殆ど聞こえなくなった小さな小さな声で、万年筆は言った。
「だからね、圭子ちゃん。話せただけ、御の字よ」
手の中で、ぼろり、とものが崩れる感触があった。崩れたものが指の間から零れ落ち、やがて冷たくて尖った何かが指先に触れる。咄嗟に金色のペン先だとわかった。
一般的な万年筆と違い、フードを被ったパーカー51のペン先はほんの少ししか見えない。それだというのに指の腹で感じる形は一般的なペン先の、蠱惑的なラインである。フードすら壊れてしまったのだ。もう、ペンをペンたる存在にするものが、ほんの少ししか残っていない。
強すぎる光に思わず瞼をぎゅうっと閉じ、同時に手を同じくらい強く握りしめる。まるで山の頂上にもう少しで辿り着くような息の詰まる苦しさの中、私は叫んだ。
「最後に、一個だけ答えて!」
答えは聞こえない。答えられるかどうかもわからない。それでも私は手の中に向かって叫んだ。
「あなたは幸せだったの!? おじいちゃんも、私も、あなたを大事に出来ていた!?」
その崩壊に思わず涙を流す程度には心に重い存在だった。
だから放った咄嗟の問いに、鈴が鳴るような笑い声とともに、焼けるような光の中、小さな小さな声は答えてくれた。
――――もちろん。だからこそ、私はあなたを違う世界に導いてまで、生かすのよ。
私はパーカーよりもセーラー派です。あとパイロットのkakuno使ってる。