追憶、その1。僕は君を見つけた。
加木裕一の居場所は、児童館に併設された小さな図書室だった。
学校が終わって、ランドセルのままそこに向かう。本棚の間に隠れるように座り、本を読む。
ここの職員には、家が共働きで、親が帰ってこないと嘘をついている。本当は、母と兄が家にいるのだが、そこに裕一の居場所はない。
裕一にとって、嘘をつくのは、息をするよりずっと楽なことだった。
息をするのは、とても難しい。
児童館は、小さな子供たちが遊ぶ場所だった。市の施設であるこの建物では、生け花やら料理やらのカルチャースクールが色々行われていて、若い母親でも参加できるよう、建物の一階にある児童館に子供を預けられるようになっている。
子供たちはおもちゃを投げたりしながらうるさく騒いでいたが、ガラスの扉を一枚隔てた図書室は静かで、裕一は毎日そこで、夕方になるまで時間を潰していた。
ある時、本を読んでいた裕一の耳に、舌ったらずな声が聞こえてきた。
「……る、……な、……な、」
その声は繰り返し、同じ音を繰り返している。気になってそっちを見ると、ピンクのワンピースを着た小さな女の子が、絵本を見ていた。
「る……?」
「何してるの」
普段だったら、小さな子供に声なんてかけない。裕一が声をかけたのは、図書室という、自分を追い出さずにいてくれるテリトリーで、うるさくしないで欲しかったからだ。
小さい子供は、裕一が不機嫌そうに声をかければ、大体なにも言わずに逃げていく。今回もそうだろうと思ったら、女の子はニコニコと近付いてきた。
「本、よんでるの!」
「…………。」
女の子は笑顔で近づいてくる。そして裕一の隣で絵本を開くと、再び字をなぞって読み始めた。
「る、……な」
どうやら、女の子は「る」と「な」の文字しか読めないらしかった。まだ五歳くらいだろうか。
たどたどしい読み方が気になった裕一は、絵本を横から読んでやった。
「むかしむかし、あるところに、とてもきれいな、おひめさまがいました。……」
「……!」
すると女の子は、期待に満ちた目で裕一を見上げてくる。裕一は思わずしまったと思ったけれど、仕方なくページをめくって続きを読んでやる。
「きれいな、かわいい、おひめさま。そんなおひめさまのうわさは……」
その絵本は、お姫様が悪い竜に拐われたのを王子様が助け、二人は結婚してめでたしめでたし、という、ありきたりな内容だった。絵本はあっという間に終わったが、読み聞かせが終わった後も、女の子はパステルでかかれたお姫様の絵を嬉しそうに見ていた。
「お姫様、好き?」
「うん、ルナ、大きくなったらおひめさまになるの!」
赤い頬の幸せそうな女の子は、ドレスを着た絵本の中のお姫様に憧れていた。いつもなら鬱陶しいと思うところだが、何故か、無邪気な女の子が眩しく見えた。
それ以来、女の子は毎日児童館にやってきた。
女の子の名前が「ほうじょう るな」ということは、持ってきた絵本の名前でわかった。いつも裕一を見つけると笑顔で駆け寄ってきて、本を読んでほしいとねだる。
どうやら女の子は、あまり大きな声を出したり騒いだりするのが好きではないようで、他の同年代の子供とは距離を取っていた。
裕一は求められるままに、女の子の好きな本を読んであげた。
ルナは女の子らしく、お姫様の出てくる話が好きだった。白雪姫、シンデレラ、眠り姫。どの物語も、王子が颯爽とお姫様を助けてハッピーエンドだ。
「ルナもおひめさまになりたいな」
「……きっとなれるよ」
「うん!」
純粋な笑顔を向けてくれる存在は、裕一にとってささやかな心の拠り所だった。
だが――
「ごめんね。もう、ここに来れないんだ」
裕一が言うと、ルナはいやいやをした。
「やだ、やだぁ……」
兄、恵一が中学受験をするために、裕一は引っ越さなくてはならなくなった。
裕一も引っ越したくはなかった。それも、自分を見下す兄と、兄だけを大切にし、自分を出来損ない扱いする両親の意向でなど、本当に嫌だった。
だが、裕一はまだ小学生の子供でしかない。
どんな親だろうと、生きていく上では従わなくてはならないのだ。
「おにいちゃん、おにいちゃん……」
「ルナちゃん、ごめんね」
小さな手で自分にしがみつく女の子の手を、上からそっと握った。
裕一の新しい生活は暗黒だった。
兄は進学校に入学したが、妙な時期に転校させられた裕一は、もともと社交的な性格でなかったこともあって学校で孤立する。
加えて、家庭内での裕一の扱いはさらに酷いものとなった。
高校受験、さらにその先の大学受験を見据えて、両親は出来のよい兄にばかり構い、裕一のことはほぼほったらかしである。
それは今に始まった話ではなかったが、新しい服を貰えないのが一番堪えた。今までは、兄のお下がりだけでどうにかやってこれたが、中学に上がる頃には裕一の身長は兄を越えてしまい、兄の古い服だけではひどくみっともない有り様だった。
与えられる小遣いもなく、友人と遊びに行けないことで、さらに裕一は、進んだ中学校でも仲間外れに、いじめの対象にされた。
みすぼらしい格好をして、勉強にもついてこれない、暗い裕一を、教師たちも厄介ごとを避けるように無視するし、裕一も頼ろうとは思わなかった。
どこにも逃げ場も、居場所もなく――何の希望もない日々に、裕一は自然と死を考えた。
自分が死んだところであてつけにもならないだろうが、このまま生きているよりマシだ。
……ただ。
死ぬ前にもう一度、あの子の笑顔が見たかった。
裕一は、自分に笑いかけてくれた、あの女の子を一目見るため、学校をサボって、以前住んでいた街に向かった。
電車で数十分ほどかけて、懐かしい景色の前に立つ。離れていたのはたった3年ほどだが、駅前はいくらか様変わりしていた。
「……。」
あの女の子――ルナは、もう小学生のはずだ。だから裕一は、思い出の児童館ではなく、近くの小学校に向かった。ルナはこの近くの子供だろうから、近くの小学校に通っている可能性が高い。校門で待っていれば、あの子に会えるのではないか――裕一はそう考えた。どこの小学校かはわからないが、いくつか順番に見て回ればいいだろう。
会うといっても、声をかけようとは思わなかった。笑った顔を、一目見るだけで充分だ。
ルナは幼かったし、自分のことなんて忘れているだろう。たった一人、孤独だった裕一にとってルナは特別な存在だったが、ルナにとっては、きっと、自分はそうではないのだから。
チャイムが鳴る。小学校の門の前で立って待っていると――裕一は、はっとした。
――ルナちゃんだ。
背は伸び、記憶の中の姿からだいぶ大きくなっていたが、間違いなく、裕一のことを慕ってくれた女の子だった。ピンクのスカートにブラウス、赤い大きなランドセル。
だが、その表情は暗く、あの時の眩しさはなかった。
裕一はショックを受けた。自分の大切な宝物が、知らないうちに誰かに壊されたように感じた。
「…………っ、」
裕一は、小さな背中を追いかける。
もし一目会えたら、そのままどこかの線路にでも飛び込んで消えようと、思っていた。だが、あんなルナを放っておくことは、できなかった。




