由佳里と卓弥
築地由佳里は自室へ飛び込むと、鍵を掛け、全身を使い呼吸した。
過呼吸気味に酸素を浪費すること十数分、室内の二酸化炭素濃度が高まると、由佳里は鏡を探したが、どこにでも有り触れたそれは今や同質量の黄金よりも希少な物になっていた。
「……鏡なんて大嫌いだったのに」
鏡など、自分の劣等感を助長するだけの無用の長物だと思っていたのに、いざなくなるとこんなに困るなど思っていなかった。
由佳里は諦めると、大きなベットに身体を預けた。
嘘のように力が抜ける。
ベットが上質なのか、緊張の糸が解けたのだろうか。
どちらかは分からないが、このまま本能の赴くまま目を閉じてしまってもいいような気がしているのだけは確かだった。
感覚的には数秒、実際にはもっと長い間、瞳を閉じ、思考を停止させてしまっていた。
このまま眠りの世界の住人になってしまおうか。
由佳里の理性はそう囁きかけていたが、本能は対極の指示を出していた。
高らかに笑い、敗者を蔑む少女、
敗者を慰めながら、心の中であざけり笑う少女、
敗者を歯牙にも掛けず、存在さえ認めようとしない少女、
先ほどまで一緒にいた少女たちの顔が、次々と浮かび消えていった。
「……いやっ……、絶対にいやよ……」
由佳里は勢いよく上半身を起こすと、大きく首を振った。
「……いや、あんな奴らに負けるなんて絶対にいや」
偽りのない本心を吐露した。
「そうよ……。私は絶対に負けない……、負けるわけがないのよ」
そう自分に言い聞かせるように呟いた。
そう、負けるわけにはいかないのだ。
築地由佳里こそこのゲームに勝利し、卓弥の思い人の名を聞く資格があるのだ。
由佳里は確信していた。
確信はしていたが――
「…………でも」
由佳里は急に気弱になる。
勝利への信念が揺らいだわけではない。
ただ、由佳里は信念が強いものが必ず勝つなどと、体育会系の指導者が標榜しそうな幻想には囚われていなかった。
皮肉にも築地由佳里という少女の短からぬ人生経験が、強い思いを持ち続ければ、それが具現化する、などという幻想を遠ざけてくれたのだ。
「この勝負に勝つには頭を使わないと……」
このゲームに勝つには秘策がいるが、何もナントカ孔明だの、ナントカ官兵衛だの、歴史に名だたる人物と知恵比べをするわけではない。
相手は由佳里と同じ女子高生である。
彼女たちのひとりを出し抜きさえすれば、このゲームは勝てるのである。
そう考えれば、そこまで気負う必要はない。
五人の中の誰かに脱落して貰えばいいのだ。
「じゃあ、誰を?」
そして、
「どうやって?」
当然の疑問に行き当たる。
しかし、誰を、は考え込むでもなく、即座にとある人物の顔が思い浮かぶ。
先ほどからヒステリックに喚き散らし、協調性の欠片もないあの女――
高梨財閥の当主の孫にして、現県知事の娘――
そして信じられないことに卓弥と木村美月の従姉妹――
高梨冬子こそ、敗者に最も相応しい人物のように思えた。
高梨冬子と築地由佳里に今日まで面識はなかった。
正確に言えば、由佳里は冬子の存在を知っていたが、冬子は今日の今日まで由佳里の顔はもちろん、名さえ知らなかったはずだ。
当然である。
彼女は数代遡れば華族や教科書に載っているような偉人にたどりつく名家の御息女で、通っていらっしゃる学校もその家柄や財力に相応しいお嬢様学校である。
一方、由佳里はと言えばどこにでもあるような公務員家庭の娘で、卓弥のクラスメイト、という接点とも言えないような接点しかない関係なのだから。
しかし、冬子は知らなくとも、由佳里は冬子のことをよく知っていた。
高梨冬子が嫌な女であることは、この館にいるすべての人間が共有できる認識であるが、由佳里はそのことを他の少女たちよりも遙か前に知っていたのだ。
「木村くんには妹さんがいるんですね」
由佳里はぎこちなさを自覚しながらも、勇気を振り絞り、自分から話題を振った。
卓弥は由佳里の小さな勇気に敬意を表してくれたのだろうか、親しげな笑顔と共に応えてくれた。
「ああ、うん、妹がひとりいるよ。ちなみにすごい可愛い。写メ見る?」
「……あ、いや、その、い、いいですよ。きっと、木村くんの妹なら可愛いに決まってますし」
「そうかな、女の子で俺に似たら可哀想だぜ。つうか、遠慮しないで見てよ、ほんとすげい可愛いんだからさ」
卓弥はそういうと、さり気なく由佳里の肩を引き寄せ、携帯のディスプレイを開く。
普通、こういうことをする男子は遊び人かスケコマシと決まっているものだが、卓弥という少年はまったく厭らしさを感じさせず、自然体でそれができた。
女兄弟がいて、なおかつ仲が良いためできる所行なのだろうか。
否、それは違うと思う。
由佳里にも兄がひとりおり、仲も悪くはなかったが、あの朴念仁の兄が、卓弥のようにスマートに女の子を扱う姿は想像できない。
由佳里が観察する限り、卓弥は女性と歩くとき、必ず車道側を歩く。
階段を上るときも、必ず女性の後ろにいるし、踊り場などでは軽く腰辺りに手を添える。
そんなことになんの意味があるの? あるいはキザな奴、という感想を抱く男子も多いかもしれないが、そんな感想を抱くものは、由佳里の兄も含め、なかなか女性に縁のない人生を送るだろう。
実際、卓弥はよくもてる。
由佳里が知る限り、由佳里のクラスで卓弥に好意を抱いていない女子はひとりもいない、と断言できる。もちろん、すべてが恋愛感情を抱いているとは言わないが、例えば卓弥が「付き合ってくれ」と告白すれば、すでに彼氏がいる女子を除けば(除かなくてもいいかも)、ほぼ全員、首を縦に振るのではないかと思われた。
幸いなことか残念なことかは分からないが、卓弥が誰かに告白した、などという話しは聞いたことがなかったが。
だが、逆に卓弥に告白した、という話しは数週間に一度は由佳里の耳に入る。中には虚偽や捏造もあるはずだが、由佳里の耳に入らない話しもあるはずで、少なくと見積もっても一学期に四~五人から告白されている計算になる。
しかし、一学期にそれだけ告白されているということは、一学期にそれだけ断っている、ということでもある。
告白した子の中には、女子から見ても申し分ないほど可愛い子や性格の良い子もおり、なぜその花々の中から彼女を選ばないのか、と、ちょっとした学校のミステリーに数えられるほど、興味の対象になっていた。
「卓弥くんは実は男しか愛せない身体なのよ。だからどんな綺麗な子でも彼を振り向かせられないの。キャー」
この説を支持したのは、文芸部や漫研を中心としたナントカラブ好きの面々である。
他にも、ちょっと変わった性癖があるとか、実の妹を愛しているので他の女に目がいかない、
などという意見もあったが、これはあまり支持を得られなかった。
卓弥が妹を大切にしているのは周知の事実だったが、その可愛がり方は過保護な父親そのものであり、そうした倒錯的なものではないと誰の目からも明らかだったからだ。
ではなぜ卓弥は異性に興味を示さないのだろうか。
由佳里は家に帰ると教科書を開くでもなく、推理や妄想を巡らせたものだが、思わぬところで謎を紐解くチャンスを得ることになる。
それは放課後、いつものように帰り道を歩いているときだった。
ほんの数メートル先にいる思い人。
あとほんの少し歩調を早めれば周囲の人間は恋人と認識してくれるだろうか?
そんな大それたことを考えながら卓弥の背中を見つめていると、彼の背中が大きくなったことに気が付く。卓弥が歩みを止めたのだ。由佳里などは止まる必要も資格もないだろうに、同じように歩みを止めてしまう。流石に話し掛ける勇気も隣に並ぶ勇気もないので、思わずブロック塀の陰に隠れてしまったが。
由佳里の視界に入ってきたのは黒塗りの外車だった。セダンがフランス車のことだと思い込んでいた由佳里には車種は分からないが、由佳里の父親の車数台分の値段はすると推測はできた。
そしてその車から横柄に降りてきたのが、高梨冬子だった。
思わず息を呑んでしまう。
黒真珠を溶かして編み上げたような黒髪、
白磁器で造られたかのような白い肌、
眉目も秀麗で、一見しただけで気品や知性を感じさせるような顔立ちだった。
……要は由佳里の持っていない物をすべて持ち合わせている少女だった。
そんな物語りの中から抜け出てきたような少女は、車から降り、卓弥の前に立つと、
「使えない男ね」
と、卓弥に弁明の機会も与えぬまま、頬を勢いよく叩いた。
最初は何が起きたかよく分からなかった。女が男に平手打ちを入れるのは、ドラマや映画の中では定番と言えたが、現実世界ではそうそう見かけることはない。しかも、この往来で卓弥にそれを行う人間の存在など想定外もいいところだった。
出て行って仲裁すべきだろうか。
仲裁すべきである。
卓弥が彼女に何をしたかは知らないが、こんな往来で弁解も差せぬまま殴られるほど罪深いことなどするはずもなく、仮にしたのだとしても由佳里は全面的に卓弥を庇う動機と理由があった。
だが、実際に卓弥の前に立ち、事情を聞いたのは、一方的に冬子が捲し立て、卓弥が深々と頭を下げたあとではなく、数日後、偶然、話をする機会を得たときだった。
彼は開口一番に深々と頭を下げた。
「ごめん、由佳里」
「え、え? ど、どうして私に頭を下げるの? 木村くん」
「あ、うん、そうだな、ここはごめんというより、お願い、かな。ははっ、日本人って変だよな、頼み事するときにもまず謝るんだもんな。まあ、理不尽なお願いをするんだから、頭を下げたくなるのも道理なんだけど」
彼はそういうと手を合わせ、本当に申しわけなさそうに掃除当番を代わってくれるよう懇願してきた。
無論、由佳里に断る理由はない。
卓弥には何度も掃除を手伝って貰っていたし、卓弥が面倒だからという理由で由佳里に掃除を押しつけるなど、絶対にあり得ないと思っているからだ。
しかし――
「構わないのだけど、でもどうして……?」
断る気など毛頭ないが、理由を知りたいとは切実に思っていた。
恐らく妹さん関係なのだろう。仄聞するところによると、彼は妹さんとふたり暮らしらしく、必然的に兄である彼が妹さんの保護者代わりにならなくてはならない。妹さんが病気で寝込んでいるなどという事態は容易に想像できる。
あるいは急にバイトのシフトが入ったという線もある。彼がバイトをいくつか掛け持ちしているというのは有名な話で、彼に好意を寄せる女生徒達が連携して彼のバイトシフトを割り出し、バイト先に客として赴くというのは、一種の恒例儀式になっている。
由佳里は何気なく前述のふたつについて尋ねてみたのだが、卓弥は申しわけなさそうに否定すると、「う~ん」と低く唸った。
理由は言いたくない、だが、面倒ごとを頼むのに理由も無しでは、卓弥の困惑する表情は人の良さを如実に表していたが、そんな彼の顔を見ながら、「ええと」「その」だのと言った気の利かないことこの上ない言葉しか発せられない由佳里は無能の極みだった。
「分かったわ、木村くん。木村くんのことだから急に外せない用事が入ってしまったのよね? 木村くんにはいつもお世話になってるのだから、今日は何も言わずに私に任せて」
どうしてこのような簡単な台詞が言えないのだろうか。臆病で口下手な自分を今日ほど呪ったことはなかったが、その口下手さがあの女の底意地の悪さを知る機会にとなったと思えば、そう悪い物でもないような気がした。
「うーん、由佳里ならべらべらと人にしゃべるような娘じゃないし、それに別に聞かれても困る類の話じゃないし、話してもいいかな」
卓弥はそう前置きをすると、自分の生い立ちを話してくれた。
「俺が妹とふたり暮らしだってのは知ってるよね?」
由佳里は首を縦に振る。
「母親とは死別なんだけど、親父はまだ生きてて、まあ、この日の本の空の下、勝手気ままに生きてると思う。要は俺と妹を養育する気がナッシングというわけさ」
「………………」
「というわけで、木村兄妹はお袋が死ぬと、お袋の親父、つまり母方の祖父を頼って養育して貰うことになったんだけど、実はその爺さんって高梨信晴なのよ。知ってる? 高梨源三郎の長男の信晴」
由佳里は首を横に振った。彼の口ぶりでは有名人であると推察できたが。
「ほら、よく日曜の昼下がりにやってる紀行番組あるでしょ。それなりに売れてる芸能人がアフリカのサバンナやアジアの秘境に行って地球の雄大さを強弁するアレ。あれって大抵、一社提供でトヨタとか日立とかがスポンサーじゃん。で、そのスポンサーの中に高梨グループ提供ってたまに出てくるよね? あれが爺さんの会社なんだ、実は」
「え……、高梨グループ……」
それならば由佳里も名前くらいは知っていた。確か戦後に勃興した財閥のひとつで、由佳里の好きな出版社のひとつもグループの参加だったはずだ。
「じゃあ、木村くんは財閥のお坊ちゃまなんですね」
「お坊ちゃま? 俺が? まさか。名字を見ても分かるだろ。母方の外孫だし、母親は駆け落ちで家を出たから、孫である俺たちは半分厄介者扱いさ。ただ世間体があるから、衣食住の世話と学費は払って貰ってるけど、同じ家に住んではいないし、顔を合わせたのも数度、って間柄だよ」
「………………」
「おっと、そんな沈まないでよ。別に小公女みたいに虐められてるわけじゃないんだぜ。それなりのマンションに済ませて貰ってるし、妹なんてS女に通わせて貰ってるんだぜ。クソ親父はともかく、爺さんを恨んだことは一度もないよ」
S女は由佳里も知っていた。県内、いや、日本有数のお嬢様学校である。実は由佳里も憧れていた口で、通学路でその制服を見かけるとしばし見入ってしまうこともある。
(……制服)
先日の光景がフラッシュバックのようによぎる。
そういえばあのとき、卓弥に平手打ちを入れていた少女、あの美しい少女が身に纏っていた制服はS女のものではなかっただろうか。いや、見間違えようもない。あの少女はS女の生徒である。ならば先日の少女は彼の妹なのだろうか? 確かに眉目に血縁を匂わせる共通点がいくつかあった。先日見せて貰った写メの少女が順調に成長すればあのような容姿の少女になるのではないだろうか。
由佳里は幾通りかの推理をしたが、卓弥に答えを聞くまでもなく、彼は少女の正体を明かしてくれた。
「んで、ここからが本題なんだけど、爺さんには息子もいて、その息子には娘がひとりいて、要は俺の従姉妹なんだけど、なんというか、彼女、すごくわがま、いや、我のつよ……、これも不味いな。うーん、ちょっと個性的な娘でね」
「……気が強そうでしたものね」
由佳里は卓弥の耳には届かないよう口の中で言った。
「S女は、ほら、お嬢様学校だろ。んで、良家の女子ばかりが通うし、防犯上の理由もあるから、車で通学してもいいことになってるんだ。でもさ、彼女、ええと、名前は冬子って言うんだけど。その冬子お嬢様、お嬢様の癖にお嬢様扱いされるのを嫌がるというか、車でドアトゥドアの通学するのをとても嫌がっててさ、ほとんどバスで通学してるんだ」
「……変わってますね」
仮に由佳里がその冬子様とやらの立場ならバスなんて面倒な乗り物より、黒塗りのリムジンを選ぶのに、と思った。
「だろ、まあ、そこまでは個人の趣味だし、自分の足で通学するのはいいことなんだろうけど、それで終わらないのがお嬢様って人種なんだよ」
卓弥は軽く嘆息する。
「…………?」
「いや、ひとりで通学する分には問題ないんだけど、バスは混んでるから嫌いだって言うんだ」
「……え? でも、車は嫌なんですよね?」
「そう、矛盾するだろ? じゃあ、リムジンバスでも手配しろよ、って言ってやりたくなるんだけど、まさか本家のお嬢様にそんなこと言えないしな。それで妥協案として、朝は一緒に登校してるんだ」
「…………?」
「いや、混むのは避けられないけど、少なくとも俺が一緒に乗ってれば、隣の席に見知らぬ男が座ることはない、っていうのが彼女の論法でね。つうわけで、定期まで持たされて山の手の本家まで毎朝迎えに行ってるのさ」
卓弥はそう言って肩をすくませると、「まあ、同じ路線でうちの学校まで行けるのが唯一の救いかな」と戯けてみせる。
「まあ、養われている身だし、朝の護衛役くらい、いつもより一時間早く起きれば済むことなんだけど」
卓弥はそう言うが、端から見れば理不尽なことこの上ないような境遇である。いくら本家のお嬢様とはいえ、従兄弟にそこまでさせる権利があるのであろうか。――あるわけがないが、由佳里にそんなこと断るべきだ、と提案する権利も勇気もない。
「んで、そのお嬢様が数週間前からかな、さらに要求を増やしてきてね。要は帰りも同伴しなさい、という有り難い勅令が下ったってわけさ」
「朝夕、ですか……、それは非道いですね……」
「非道い、確かに非道いよな。朝はともかく、放課後はバイトを入れてたり、夕飯の支度なんかもしなきゃいけないのに。でも、彼女、冬子お嬢様は爺さんに目茶苦茶可愛がられててさ、彼女の鶴の一声で木村兄妹は世間の荒波に放り出されるということも有り得るんだよねえ……」
卓弥はどこか他人事のように言うと、
「というわけで、今日もこれから、お嬢様のお守り。今度、必ず埋め合わせをするから、今回だけ、掃除当番を代わって貰えないかな?」
幾人もの女の子の心を虜にする笑顔で卓弥はそう結んだ。