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由佳里の過去

 茜色に染まる教室、

 窓の外から漏れ聞こえる運動部の掛け声、


 数刻前までの喧噪が嘘のように静まりかえったそこには、三つ編みの女生徒がひとり、取り残されていた。


 彼女はただ、一対の机と椅子を見つめていた。

 いつまでも、いつまでも、

 どこにでもあるありふれた物を、

 飽きることなく、

ただ見つめていた。

 どれくらい見つめていただろうか、

 ほんの一瞬だったような気もするし、

 己の足が苔生(こけむ)すまで見つめていたような気もした。


 しかし、実際は時計の短針はそんなには動いてはいなかったし、長針の位置は想像した場所とは違う場所にあった。


 築地由佳里は、放課後の教室でそんな時間の流れに身を任せていた。

 幸せな時間と言い換えてもいいのだろうか?

 夕暮れに染まる教室、そこで思い人の机をただ眺める。


 由佳里の好きな少女趣味な小説の定番の風景であり、憧れでもあったが、実際に経験してみれば思っていた以上に充足感を得られる行為だった。


 例えその代価としてこの広い教室をひとりで掃除しなければいけなくなったとしても、由佳里は悔いることはないだろう。


「……まあ、例えじゃないのだけど」


 由佳里は夢の国から無事帰還すると、突きつけられた現実と向き合った。


 ほどほどに広い空間と三〇組の机と椅子、

 それに立ち向かうは箒とちり取りを持った細腕の少女ひとり、

 ……要はこの広い教室を由佳里ひとりで掃除しなければいけないのである。

 非道い話しではあるが、理不尽な話しではない。


 仮に教師が何の罪もない女性徒に掃除を押しつけたのであれば、由々しき問題なのであろうが、教室の掃除は元々、五人一組でやるものと決まっていた。


 単に由佳里以外の四人がのっぴきならない理由で参加できないにすぎないのだ。


 部活動で忙しい、

 彼氏とデート、

 友達とカラオケ、

 メンドイ、


 理由こそ違えど、由佳里以外の全員が抱いた心情を言語化すればこうなる。


「あいつなら断らないだろう」


 四人が四人ともそう思い、計り合わせることなく導き出した答えである。

 そしてその答えは間違っていなかった。


 築地由佳里という少女は、ちょっと強気に、もしくは真摯に頼まれれば、首を振ることができないのである。


 由佳里も由佳里で、

「帰ってもやることはないし……」

 と、自分の運命を許容してる節があった。


 S本くんは、一年生にして野球部のレギュラーであるし、

 K林さんは、大学生の彼氏と付き合ってるのは事実だし、

 T中さんは、プロのミュージシャンを目指してるのは誰もが知っていたし、

 Y城くんは、天性のめんどくさがり屋なのだ。


ひるがえって由佳里と言えば、帰って塾に行くでもなければ(進学は諦めてる)、家の手伝いをするのでもない(専業主婦である母親の家事に付け入る隙がない)。


 かといって普通の高校生のように、友達と遊んだり、寄り道をしたりするようなタイプでもなかった。


 寄り道するにしても、自分の好きな文庫レーベルの発売日に、駅前の本屋を覗くくらいで、見栄を張って時間を使ったとしても、せいぜい小一時間が良いところである。


 あとは家に着くなり、制服を脱ぎ捨て、夕餉の支度が調うまで現実世界から逃避するだけだった。


 つまり、五人の需要と供給がぴったりと一致しているだけといえる。


 端から見れば理不尽にして憤懣やるかたない話しのように見えるが、誰ひとり傷ついていない、という点においては、最もスマートな解決法なのかもしれない。

 由佳里は皮肉でも逃避でもなく、真剣にそう思っていた。


――とある少年に意識改革をうながされるまでは、であるが。


 少年はなんの前触れもなく、教室の扉を開けると、長い影法師を作っている主を即座に視界に納め、大きな吐息を漏らした。


「また掃除を押しつけられたのかよ、由佳里」


「由佳里……」


 声にならない声で自分の名前を反芻する。


 由佳里のことを由佳里と呼ぶ人間は、おそらく、地球上で彼ひとりあろう。友人は言わずもがな、両親でさえ「ゆーちゃん」などといった愛称で呼ぶ。


 由佳里のこと由佳里などと親しげに呼んでくれるのは、恋愛小説でヒロインの名前を無理矢理脳内変換してるときだけだった。


「あ、ごめん、ちょっと馴れ馴れしかったかな。ごめんね、俺ってちょっと図々しくてさ、年上や嫌いな奴以外、知り合いは名前で呼ぶようにしてるんだ」


 由佳里は三つ編みが凶器にならんばかりに首を振る。


 本来なら彼、卓弥に声を掛けて貰うだけでも望外であるのに、名前を呼んで貰えるなど僥倖(ぎようこう)以外の何物でもない。できればすぐに、


「そんなことないよ、木村くん、同じクラスで席も近いんだし、遠慮無しに行こうよ。あ、そういえば私、木村くん、なんて呼んでるね。じゃあ、私も卓弥くんって呼んでいい? これでおあいこってことで」


 などと気の利いたことを言えばいいのに、

 由佳里から漏れる言葉は、


「うぅ……」

「……あ、あの」

「ええと……」


 といった、やたら母音が多く、また発展性に欠く言葉ばかりだった。


 手話をするチンパンジーでさえ、もっとまともなコミュニケーションを取れるのではないだろうか。


 由佳里は卓弥を視界に納めた瞬間から染め上げていた赤い顔を、さらに朱に染め上げる。もはやその赤さは夕焼けのせいと言い張ることはできないであろう。案の定、卓弥はそれにすぐ気が付いた。


「由佳里、なんか顔赤くないか? もしかして熱でもあるんじゃ?」


 卓弥は当然のように由佳里の額に触れると、自分の額にも手を伸ばし、温度を比較した。


 その行為自体が由佳里の体温を急上昇させる効果しかないのだが、由佳里は察知される前に僅かに後ずさりした。


「う、ううん、そんなことないよ。さ、さあて、掃除を終わらせないと」


 由佳里はそういうと卓弥に背を向け、掃除を始めた。


 端から見れば典型的な幸せを逃すタイプに見えるかもしれない。せっかく、思い人が自分に触れてくれたのだから、その感触を時間が許す限り楽しめばいいのに。


「まったく、仕方ないな、つうか、明日、あいつらに注意してやるから、由佳里ももっと自分の権利を主張しろよ」


 卓弥はそう言うと、ロッカーから掃除用具を取り出した。

 由佳里は卓弥へ振り返り、頭を深く垂れた。


 言葉にしようとしても、今の由佳里ならば金魚のようにぱくぱくと口を動かすのが関の山だからだ。


 それに、「ごめんなさい、木村くん。これは私が勝手に引き受けたことで、忙しい木村くんが付き合う必要なんて少しもないわ」などいう台詞を言う資格は由佳里にはない。


 なぜならば、夕暮れに染まる教室で、触れ合うふたつの影法師――


 そんな古典的恋愛小説の一場面を思い描いたのは、いや、脚本を書いたのは築地由佳里その人なのだから。


 築地由佳里はある意味、彼女に仕事を押しつけた四人よりも遙かに悪辣なのかもしれない。


 築地由佳里は、卓弥にとって三〇分という時間がどれほど貴重であるか知っていた。


 築地由佳里は、卓弥が絶対にその貴重な三〇分を自分のために使ってくれると確信していた。


 やはり築地由佳里という少女は、周囲が思ってるよりもずっとしたたかな少女なのかもしれなかった。

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