アイスガール
木材で作られた粗末なドアを閉めると、吹雪はやっと存在主張を止める。少なくともこの小さな山小屋の空気は停滞し、外よりは幾分温かかくなった。
冬子はそこで自分とナナコに付着した雪を払い落とすと、真っ先に薪木となるような物を探した。幸いなことに薪は部屋の一番奥に僅かだけ置かれていた。いや、数年前に置き忘れたといった方が適切かもしれない。それほどまでに少なく、頼りない量だった。
しかし身体が芯まで冷え切った少女たちにとってそれは福音以外の何物でもない。
冬子は不器用な手つきで新聞紙の先に火を灯すと、それを薪に着火した。十数秒で白い煙をもくもくと上げ始める。
冬子はかじかんだ自分の手よりも先に、全身を雪に晒し続けた友人の身体を火の側にやり、次いで少女の身体を揉み始めた。少しでも血行を良くし、温めたいがためだったが、
「はふん」
などと変な声を上げられると、脱力していいのか、喜んでいいのか分からない。
ただ、冬子の行為は数分後には報われる。数分後、ナナコは完全に意識を取り戻すと、
「全身を揉まれるなんて……、もはや冬子のもとにお嫁に行くしかありませんぞ」
と、頬を染め上げた。
冬子は何も言わずにナナコを抱きしめた。
冬子は自分で作ったスープを口に運ぶと、
「まあまあね」
という感想を漏らし、それをマグカップに注いでナナコに手渡した。
ナナコは海の物とも山の物とも分からないといった視線でそれを見つめると、思い切ってスープに口を付けた。
スープは意外と美味しかった。
「カツオブシのスープは飲み飽きていましたが、肉が入るとまた違った味わいになりますな」
「……あなた、吐き出す準備をしながらスープを口にしたでしょう」
「いやあ、冬子嬢は洗剤で米を洗い、ダシなしで味噌汁を作りそうなタイプに見えて」
冬子は失礼しちゃうわね、と頬袋を膨らませたが、あまり強く抗議はしなかった。前科があるからだ。
「でも、こう見ても簡単な料理ならできるのよ、パスタとか」
「自分も得意であります。パスタは安いですからね」
「そう、主婦の味方よね。お米より全然安いし、パスタソースは作り置きができるから助かるわ」
「カレーと一緒で不味く作るのが難しいくらいですからな。生クリームと焼き肉のタレを振り掛ければ立派なクリームパスタになります」
「へえ、参考になるわ」
ナナコと冬子は同時に笑った。ナナコは所帯染みた話しに相槌を打つ冬子の顔が可笑しかったのだが、冬子はなぜゆえにだろうか。ナナコはあえて尋ねなかった。年頃の少女たちの間で交わされる会話を分析をするなど野暮というものなのだ。
次いでナナコは冬子に当たり障りのない会話を振った。暗くなるので家族やこれからのことには触れなかったが、ナナコにはそれ以外にも冬子に聞いて置きたいことが山ほど在った。
「学校は楽しいか、ですって? あなた、学校に通ってみたかったの?」
ナナコは頷く。
「そうね。楽しいか詰まらないかと聞かれたら、大抵の人は詰まらないと言うと思うけど……」
冬子はそう前置きしたが、実際に話す彼女の学校生活はとても楽しいもののように聞こえた。
「うちの学校は小学生から英語でキリスト生誕の劇をやらされたり、乗馬の授業があったり、田植えをさせられたり、普通の学校とは大分違ってそれなりにおもしろかったけど、それでも次生まれ変わるなら、絶対共学の学校に通いたいわ」
「やはり女子だけというのは詰まりませんか」
「それはないわね。私、男子が苦手だし」
つまり要は卓弥と同じ学校に通いたかったらしい。
「それならば、来世では卓弥殿も女の子に生まれ変わって貰いましょう。そうすれば男嫌いの冬子が男と机を並べる必要もなく、思う存分卓弥ちゃんとイチャイチャできるであります」
「そうね……、卓弥は美形だし、こっちの世界でも十分やっていけそうね。それも案外、いいのかもしれない……。少なくとも卓弥が女の子だったら、今もこうして引き離されないで済んだかもしれないし……」
「………………」
あれま、思わぬところから話が暗くなってしまった。ナナコは自分の選んだ選択肢を悔やんだが、セーブポイントには戻れないのでこうなればアクセルを全開にするしかない。
ナナコはできるだけ冬子を傷つけないよう、怒らせないよう、限りなく婉曲的に尋ねてみた。
つまり卓弥を殺したのは冬子ではないか、要約するとそういうことだった。
冬子は少し驚いたようだが、怒ることはなかった。ただ自然に、どうしてそう思ったのか、純粋な目で尋ねて来た。
「あ、ええと、確信があるわけでもないですし、勘違いの可能性もあったのですが、冬子があの死体を見る目付きが時折、とても怖かったもので……」
「そうね、結局、私は最愛の人に裏切られる形になったのだものね。正直に言ってしまうと、殺してしまいたいほど彼を恨んだことはあるわ」
「じゃあ、階段から突き落としたのはあなたなのですか?」
「まさか、それは神に誓ってないといえるわ」
「わたしはその言葉を口にしながら平然と嘘を言える人物を一〇人ほど知っています」
「良かった。じゃあ、一一人目は私じゃないわね。もしも私が卓弥を殺すなら、包丁でお腹を刺して、そのまま自分の首を描ききってやるわ。卓弥をたったひとりで地獄になんていかせない。一緒に私も逝きたいもの」
それが高梨冬子の死生観という奴なのだろう。ナナコは冬子らしいと思ったが、あえてそれは口にせず、代わりに眠るよう提案した。
残念なことに僅かに残された薪も底を尽きようとしていた。
それはふたりの少女の運命がそこで尽きることも意味していたが、ふたりは何も言わず床についた。
眠りにつく直前、ふたりの少女はこんな会話をしていた。
仮にもし、今、この瞬間、人類が滅亡したとする。
そしてふたりはこの山で氷り付けにされるのだ。
何百年、何千年、何万年も。
そしてやっとふたりは氷から解放される。
解放してくれるのは誰でもいい。
僅かに生き残った新人類でも良かったし、チワワが進化して知的生命体になった犬類でも、地球外生命体でさえ良かった。
その何万年後かの地上の支配者たちは、地層の奥深くから見付けたふたりの少女の死体に何か適当な名前を付ける。
アイスガールという独創性も捻りもないものだ。
そして少女たちに断りもなく、研究を始めるだろう。
髪の毛の成分から普段どんな物を食べていたとか、処女なのか非処女なのか、経産婦なのかそうではないのか、着ている衣服から身分を推定したりとか、ほんと余計なお世話なことを延々と調べ、最後には得意げに学会で報告することだろう。
しかし、得意げに分かった気になっているチワワたちにも、絶対に分からないことがある。
少女たちをどんなに解剖しても、
少女たちをどんなに分析しても、
少女たちが誰を愛し、何を大切に思い、
どんなくだらないことで笑っていたか、
そんなことさえ彼らには分からないのだ。
夜半、冬子が目覚めたのは、物音のためだった。
冬籠もりに飽きた熊が闖入して来たのなら一大事であるが、物音の原因が友人の呻き声なのだから、ある意味、熊以上の一大事といえた。
冬子はナナコの肩をさすると、友人を悪夢から解放した。
ナナコは「もう食べられないであります」とコミカルな寝起きの言葉を漏らしたが、その呑気な台詞とは対極の表情をしていた。
顔色は死人のような土褐色で、体温は有り得ないくらい冷たかった。
血が引くとはこういうときに使う言葉なのだろう。冬子は文字通り慌てふためいた。
どうすれば友人の顔色が元に戻るか、その体温が戻るか、ありとあらゆる方法を模索したが、何も思い浮かばなかった。
「……裸になっても……無駄で……あります……すよ……、それは迷信です……」
服を脱ぎ始めた冬子を制止したのはナナコの言葉だった。
「……スキントゥスキン……より、温かい飲み物が欲しいかも……であり……んす」
なぜか花魁言葉になっている。
冬子はナナコの言葉に従い、お湯を探したが、そんなものは当然、この狭い小屋に存在しない。もはや一遍の木材さえ、この小屋には残されていなかった。
それどころか、最後の頼みの綱である飲料水も飲料することも水と呼ぶことも叶わなくなっていた。
「……水を……一瞬で、氷にするには……どうすれば……いいで……しょう……か?」
「……点を入れるのでしょう!」
冬子は思わず叫んだが、答えは「山小屋に一晩置く」だった。もはや一瞬でもなぞなぞでもなかったが、冬子は思わず涙せずにはいられなかった。
「やっと……、やっと友達になれると思ったのに……、私たちはここでお別れなの? 私もあなたも、ここで死んでしまうの……?」
このままではナナコは確実に身罷ることだろう。だがそれは単に友人を見送るという辛い儀式を他方に押しつけるという贅沢にしか過ぎなかった。
「させない……、そんなことは絶対にさせないわ。死ぬならば絶対一緒によ。少なくとも私よりも先に死なせてたまるものですか」
冬子はそう言うと、ナナコの願望を叶えるため、己の手首に傷を付けた。
自殺をするためではない。
ナナコが欲して止まない「温かいもの」を飲ませるためである。
冬子はナナコの上半身を起こすと、ナナコに自分の血を吸わせた。
「……吸血鬼みたい……であります……」
とは、ナナコの言葉だったが、この期に及んでそれを拒否するつもりはないようだ。
ナナコは「不味い」と苦笑いを漏らしたが、吐き出すことはなかった。
いや、吐き出したのだが、それは嘔吐物ではなく、感謝の言葉と温かい感情だった。
「……へへ……、これで自分と……冬子は……もう……姉妹であり……ます……」
それが冬子が聞き取れる最後の言葉だった。
以後、死の淵に至までの数分間、譫言のように何かを呟いたが、冬子にはそれを聞き取ることができなかった。最後にナナコはオルゴールを指さしたような気もするが、それも冬子の勘違いなのかもしれない。
しかし、冬子はオルゴールに手を伸ばさずにはいられなかった。
確かに人の魂は死んだ肉体には宿らないかもしれない。
恐らく生前大切していた物にも宿ることはないだろう。
だが、冬子はそれでもそれを、ナナコが大切に抱えていたそれを、疎かにすることはできなかった。
冬子はそれがまるでナナコの魂そのものであるかのように抱きしめると、それと共に夜明けを待った。
そして友人の、いや、姉妹の遺体を一瞥しただけで、無言で立ち上がり、外の世界へと続く扉に手を伸ばした。
仮にそこに広がる世界がこの世でもっとも険しいものだったとしても、
吹雪が荒れ狂い、一瞬で少女の身体と心を凍結させてしまったとしても、
冬子は躊躇することなく、歩みを進めることことだろう。
それが生き残ってしまったものの、
生きていかなければいけないものの定めだった。
冬子は意を決すると、粗末な扉を開け放った。
そこは――
空は――
嘘みたいに晴上がっていた。




