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別離

 その日、冬子は畑の横のあぜ道を通過していると、いつもとは違う視線に気が付いた。


 畑の持ち主や近所の小学生の物ではない。


 少なくともその視線の持ち主は、余った野菜も分けてくれないし、冬子をからかったりもしない。ただ、鋭く射竦めるような視線で冬子を見つめていた。


 冬子は急に走り出したり、携帯を握りしめたりもしなかった。


 まさかこんな白昼に襲い掛かって来るとは思わなかったし、それにその鋭い眼光に重圧は感じても、敵意のようなものを一切感じなかった。


 冬子は凄腕の女エージェントでも名探偵でもなかったが、そのものが祖父の息の掛かったものだと即座に判断することができた。


 実際、アパートの前に訪れれば、普段、祖父が乗っているリンカーンのコンチネンタルなる車が横付けされていた。


 冬子は軽くと息を漏らすと、運転席の窓を叩き、

「ここは邪魔になるわ」

 と、数メートル車を移動させた。


 この期に及んでこんなに落ち着いているのは、もはや逃げ場がないからである。


 よく見渡して見れば冬子を監視する瞳の数は数対に及び、どれも屈強な肉体の上に黒服をコーディネートしている。見慣れた顔もいて過去に総理大臣を警護していたSPも散見される。


 体育の成績は五であり、走りにも自信があったが、いくらなんでもプロの護衛をかいくぐるのは至難の業であろう。


 もっとも、逃亡する理由をアパートに置きっぱなしなのだから、逃亡するなど考えもしなかったが。


 冬子は堂々と自分の部屋に入ると、深く頭を下げ、祖父に久し振りの挨拶をした。

「お久しぶりです、お爺様。お元気そうで何よりです」


 その言葉には皮肉や棘は含まれていなかったが、だからこそ人の心に突き刺さる何かが含まれていた。無論、鉄の心臓を持つ昭和の怪物には突き刺さることはなかったが。


 冬子の祖父である信晴は、

「うむ、相変わらず美しいな。ただ、少し(やつ)れたのではないか」

 と大仰に言った。


「いえ、むしろ太ったくらいですわ、お爺様」


 幸せ太りという奴ですの、今度は皮肉たっぷりに言った。


 実際、冬子の胸回りはここに来て膨張していた。それは食欲のお陰というよりも別な要因なのだが、まあ、幸せであることには変わりなかった。


「そうか……、あの坊主にも女を肥えさせるくらいの甲斐性はあった、ということか」


 老人はそう言うと早速、本題に入った。


「さて、こんな狭苦しいところで長話もなんだ。はよううちに帰るぞ」


 冬子は祖父の腕をはね除ける。


「いえ、私は帰りませんわ。ここを終の棲家にするつもりもありませんが、少なくとも実家には二度と足を踏み入れることはないでしょう」


「そんなにあの家が嫌いかね」


 冬子はゆっくり首を振る。


「私はあの家が大好きです。あそこで生まれ育ちましたし、楽しい思い出もたくさんあります。お父様もお母様もいますし、それにお爺様も尊敬しています」


「なら――」と口を開く信晴の言葉を遮ったのは、冬子の生きる意味だった。


「ですが――、ですが、あの家には卓弥がいません。私のこの世で一番愛おしい人がいないのです。あの家は確かに立派で住みやすい金魚鉢かもしれませんが、そこには肝心の水が注がれていません。水もないのに生きられる魚がどこにいましょうか」


 我ながら安っぽい例えだと冬子は思ったが、今さら言葉を飾っても仕方なかった。


 実際、今の冬子にとって卓弥は魚にとっての水であり、生物にとっての酸素そのものだった。もはやその有無を論じる段階ではなくなっていたのだ。


 無論、祖父は冬子のそんな論理など、意に介せず、無理矢理東京へと連れて帰るだろう。

 そしてさらに厳しい監視下に置かれるかもしれないが、冬子はそれで諦めるつもりなど毛頭なかった。


 というか、冬子は実は今日、この日のことを想定した。


 いくら偽名でアパートを借りているとはいえ、警察にコネクションを持ち、警備会社まで持っている祖父が小娘ひとりの居所を探せないはずなどない。一年、否、半年以内には居所を突き止められると想定して駆け落ちをしたのだ。


 実際、逃亡資金は分割して別の場所に隠してあり、もう一度くらい駆け落ちすることも可能だった。今度こそ完全に行方もくらまし、心苦しいが美月やかなえたちとも連絡を絶ち、半年以内にとあることに成功すれば、今度こそ祖父は、


「……仕方ない」


 と冬子たちのことを認めるか。


「……貴様のような娘など、もう知らん」


 と勘当されること必至といえた。

 ちなみにその「とあること」とは、女にだけ許された行為、つまり妊娠である。

 流石に妊娠すれば状況はがらりと変わること請け合いだった。


 先日、卓弥にちらりと提案したことがあるが、

「まだ早い」

 と、一蹴されている。


無論、冬子は卓弥の意思を尊重していたが、不可抗力で「明るい家族計画」に針が刺さってしまうこともあるかもしれないし、あるいは「安全日」の計算方法を間違えてしまうかもしれない。人間、誰しにも過ちは起きうるのだ。


 冬子は己の平たい腹を愛おしげに撫でると、今ここで、

「実は妊娠しているの」

 と、はったりを言ったらどうなるか、さまざまなシミュレートを脳内に巡らせた。


 その結果、どんなパターンも自分たちの不利にならないと確信すると、冬子は口を開き掛けたが、それは祖父の言葉によって中途を余儀なくされる。


「――ちなみに冬子よ、不思議には思わないか?」


 不思議なのは祖父の物言いである。祖父はこのように勿体振った話し方をする人物ではないのだ。だから本当に不思議に思ったが、冬子は無難に、「と、おっしゃいますと?」と言った。


「どこで手に入れたかが知らんが、お前がこのアパートを借りるときに提出した書類は、完璧なものだった。本名、あるいは偽名ならば、すぐに見付けることはできたかもしれんが、この短期間で見つかるのは道理に合わんと思わんか?」


 冬子は、そんなことか、と思ったがそうは口にせず、常識論を口にした。


「恐らくですが、美月、あるいは私の友人の携帯電話の履歴を調べたのでしょう。発信局が分かればあとは虱潰しにすれば良いのではないでしょうか」


「だが、あの小娘との連絡は専用の携帯を用意していたのだろう? それにまさか、お前の級友全員の携帯履歴を調べるのは不可能というものだ。つまり、お前の推理は外れじゃ」


「………………」


 ならばまた誰かが裏切ったとでも言うのであろうか。

 

かなえであろうか。時期的には符合するが、それでもかなえはそんなことをする性格に思えなかった。


 ならば美月ということであろうか。彼女には前科があったが、駆け落ち計画の話をしているときの美月の真摯な瞳に、そんな負の感情は一切見て取れなかった。ただ、美月の場合は祖父に養われているという負い目があり、口を割らざる得ない状況に追い詰められる可能性があった。


「……可哀想な美月」


 祖父に難詰され、兄たちとの信義に苦しみ、涙を流す妹の姿が脳裏に浮かび、冬子は胸が苦しくなった。


 しかし、祖父は冬子が思い描いた犯人像を無造作にも破り捨てる。次いで自分で描いた犯人を大仰に呼んだ。


「入ってまいれ、小僧」


 名さえ呼んで貰えなかった少年は、悪びれずに室内に入ってくると、恭しく信晴に頭を下げた。


 その人物とは冬子にとって世界で一番大切な人だった。


「卓弥――」


 思わず彼の名を口にしてしまう。


「というわけじゃ。この場所を報告、いや、密告したのは、冬子、お前さんの大好きなこの男というわけだ」


 祖父は「感想は?」とは聞かず、残酷な沈黙を持ってその場を支配した。

 冬子も沈黙せざる得ない。考えざる得ない。

 本当に卓弥が裏切ったとでもいうのであろうか、それとも――


(……いけないわ……、そう、そうよ、これはお爺様の罠だわ)


 なぜ、自分が卓弥を疑わなければいけないのであろうか。

 確かに目の前にいる少年は卓弥であり、冬子のもっとも愛する人であった。

 一瞬、偽物では、と頭を過ぎったが、そんなことあるはずがない。


 もしかしたら祖父の言う通り、卓弥が密告した可能性もあるのかもしれないが、きっとそれにはわけがあるのだ。


 例えば――


「……み、美月に泣きつかれたのよね? 私たちが帰って来ないと家から追い出すと言われたのでしょう? あなたってほんと妹思いだもの。それじゃあ仕方ないわよね」


 卓弥は無言で首を横に振る。


「……じゃ、じゃあ、そう、私が駆け落ち生活に疲れ切っていると勘違いしてしまったのね。でも、それはあなたの勘違いだわ、疲れるどころか、今が人生で一番気力体力とも充実してるのよ」


 再び卓弥は首を振る。そしてさらに都合のいい言いわけを考えようとしている冬子の横をすうっと通り抜けると、祖父から紙袋を受け取り、その中身を見せた。


「単純なことだよ、俺はお金で君を売ったんだ。五〇〇万っていう大金でね」


「……う、うそよ、あなたはお金なんかになびかないわ」


「ああ、俺も最初はそう思っていた。でも、ここに来て考え方が変わった。爺さんにあてがわれたマンションに住んでた頃は、本当にその価値を把握していたわけじゃないんだ。一万円稼ぐのがどんなに大変か、生活をするのがどんなに大変か、分かった気になっているだけだったんだ」


「うそよ……、うそだわ……」


「ほんとだよ、五〇〇万+俺と妹の大学卒業までの生活費を天秤に掛けたんだ。確かに君はとても美人だし、世界で一番大切な女性だけど、それでも数千万というお金とどっちを取るかと言われたら……」


 卓弥はそう言うと、「ごめんな」と冬子の頭に一瞬だけ手を置き、きびすを返した。 


「うそよ、うそだわッ!! うそだと言ってよ、卓弥!!」


 冬子はそれでも卓弥の背中に叫び続けた。

 壁の薄さなど関係ない。喉が焼き切れても構わなかった。

 有らん限りの声で叫び続けた。

 しかし、結局、卓弥は一度も振り返ることなく、アパートを去っていった。

 残された冬子たちも、一時間後にはこの場末のアパートをあとにしていた。


 冬子は車の中でも掌に爪を食い込ませ、肩を震わせていたが、それはなかば演技だった。


(……アカデミー賞ものの演技力ね、卓弥は)


 冬子は心の中で呟く。


 確かにあの場を収めるにはああ言うしかなかっただろうし、次の逃避行を考えれば祖父からお金を受け取っておくのも悪くはない選択肢である。


 冬子は恋人の機転を素直に賞賛したが、それでも震える足を収められずにいた。


 仮にもし、仮にあの言葉が、あの表情が、嘘ではなかったら、自分はどうなるのであろうか、と思ってしまったからだ。


 有り得ない前提であるが、仮に卓弥が自分のことを裏切っていたら、冬子は罪人になるしかなかった。


 殺人罪にて立件されるようなことをするしかなかった。

 もっとも、立件されはしても、法廷に立つことも刑務所に入ることもないだろう。

 祖父が揉み消してくれるのではない。

 この国では死人が法廷に立つことも収監されることもないのだ。

 腐った国ではあるが、それくらいの慈悲はこの日本国にも存在した。





誰も居なくなった室内で、卓弥は独りあぐらを搔き、黄昏れていた。

勿体ないことをしたかな、と、祖父に貰った五〇〇万を見つめていた。


 もっと釣り上げることも可能であった、という意味ではない。卓弥は別に守銭奴というわけではなく、自分と妹が困らず生活していければそれで良かった。というか、そこの五〇〇万も実はただの小道具でしかない。


 卓弥が後悔しているのは、麗しの恋人、冬子についてだった。


 高梨冬子という少女は美しかった。世間的にでもあるが、卓弥にとっては世界一美しい人であった。その容姿も心もである。今後、彼女よりも情熱的に、あるいは命懸けで人を愛することなど、もうないだろう。


「あちゃー、一七にして燃え尽き症候群かよ」


 卓弥は力なく、フローリングの床に背を預けた。


 つい昨日まではそうすれば世界一の微笑みと共に膝枕をしてくれる女性がそこにいたが、今はもう誰もいない。そして恐らく二度とそのような女性は現れないであろう。


 卓弥はそれほどまでに大切な存在を、必要な女性を、僅かばかりの金で売り払ったのだ。最悪の商人だといえる。道義的にも、能力的にも。


 ただ、不思議なことに、後悔の念は想定したほど強いものではなかった。


 今から冬子の乗った車を追いかけ、彼女を連れ去るような気力もなかった。冬子がそれを望んでることを知ってたが、実行する気にはなれないのだ。


「――どうして? 私のことを愛していると言ったのは嘘だったの?」


「嘘なものか。今でも世界一愛してる」


「――じゃあ、どうして、私を裏切るような真似をしたの? 私と一緒にいるのは詰まらなかった?」

 

「飛んでもない。君と過ごした日々は俺には黄金期そのものさ」


 ただ……、と卓弥は俯く。

 確かに冬子との同棲生活は、卓弥にとって心地よいものだった。

 ふたりで買い物をしたり、

 ふたりで料理を作ったり、

 ふたりでくだらないテレビを見たり、


 世間の人がしている当たり前のことを当たり前にするのが、楽しくて仕方なかった。


 彼女といる間はあらゆる苦労が報われ、正直、ただひとりの肉親である妹のことさえ忘れてしまうほど、幸せに包まれていた。


 ならばどうして自分は冬子を裏切ってしまったのだろう。

 この世で一番大切なものを捨ててしまったのだろう。

 そう自問すると、なぜだか母親の顔が浮かんだ。


 母親もまたお嬢様だった。高梨信晴の娘であり、何不自由なく蝶よ花よと育てられた温室の花だった。


 そんな麗しい花が、路傍の雑草に恋をし、贅沢な生活を捨て去り、駆け落ちをした。


 駆け落ちは成功し、ふたりはふたりの子宝に恵まれ、幸せに暮らした、というわけではなかった。


 卓弥が物心つく頃になると、ふたりの愛情は冷め切っていた。

 美月などは罵り合いが子守歌代わりだったはずだ。


 女と酒にうつつを抜かす父、贅沢な暮らしを捨て去ったはずなのに昔が忘れられない母、どちらが悪いかはこの際どうでもいいが、その家庭環境は卓弥の人格形成に重大な影響を与えているのは確かだった。


 有りていに言ってしまえば、卓弥は冬子が自分や子供を罵る姿を見たくなかった。


 無論、それは卓弥の一方的な考えで、冬子は本当に贅沢な暮らしを捨て去り、普通に生活することができるのかもしれない。あるいはそれを望み、その生活を楽しむことさえできるのかもしれない。


 ただ、卓弥はそういう生活を望んでいなかった。

 彼女にそういう生活をさせたくなかった。



 スーパーで好きな銘柄のヨーグルトと特価のヨーグルト、どちらを買おうか一〇分近く迷ったりして欲しくなかった。



 市井の主婦のように悩む冬子の姿に、卓弥は耐え難い違和感を覚えた。

 それが冬子を、この世でもっとも大切な人を、二束三文で売り払った理由だった。

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