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逃避行

 亀山夫妻が借りたアパートは確かに小さなものだった。


 六畳のフローリングに小さなダイニングキッチンがひとつ、トイレと風呂は辛うじて別々になっていたが、風呂は足を伸ばすことも叶わないほど小ぶりなものだった。


 築年数もそれほど経っておらず、小綺麗ではあるが、やはりどう取り繕っても単身世帯向けの安普請で、唯一の商品価値は徒歩で行ける範囲にスーパーなどがあることだろうか。これは免許を持っていない人間にはとても有り難い。


「はあ……」


 と、大きな吐息を漏らしたのは卓弥の方だった。

 

卓弥は別に贅沢に慣れているわけでも憧れているわけでもない。高梨家の援助でそれなりのマンションに住まわせて貰っていたが、それも妹が居ればこそで、自分ひとりだけなら四畳半の風呂無しトイレ共同でも一向に構わなかった。


 それではなぜ、溜息を漏らしたのかといえば、前途の遼遠を思ってのことだった。


(……この部屋、あいつの部屋のクローゼットよりも狭いんじゃないだろうか)


 不動産屋の説明には熱心に聞き入っていたが、冬子はこの部屋を借りたのではなく、この建物全体で月五二〇〇〇円(諸経費込み)だと思い込んでいるのではなかろうか。卓弥は今さらながらに不安に思った。


 しかし、その不安を消し飛ばすかのように冬子は玄関を開け放ち部屋に入ってくると、


「スーパーって閉店間際になると安くなるってほんとうなのね」


 と、興奮していた。


 どうやら、『あの』高梨冬子お嬢様がこの生活を満喫していると分かったのは、ここに居を構えてから一週間が過ぎた頃だった。


 最初は三日で「もう耐えられないわ」と音を上げると思っていた卓弥だが、時間が経てば経つほど、冬子はこの暮らしに馴染んでいった。


 スーパーの売れ残りの総菜を本当に美味しそうに食べる姿にも驚かされたし、ファッションセンターいまむらなる地方の激安衣料品店の服に嬉しそうに袖を通す姿にも驚かされた。毎日、プロのシェフの料理に舌鼓を打ち、オーダーメイドの服を一度しか着ない筋金入りのお嬢様がである。


 それどころか、


「でき合いのお総菜ばっかりだと健康に悪いわ。手料理のひとつもできないなんて卓弥のお嫁さんとして鼎の軽重を問われるし」


 と、料理まで覚えようと奮闘する姿には本当に驚かされた。


 でき上がった料理は自他共に認める非道いものだったが、それでも一生懸命に料理に奮闘する姿は卓弥の琴線に触れる何かがあった。


 実際、「旦那様のために料理が上手くなりたい」と指を絆創膏だらけにする可憐で健気な少女がいて、後ろから抱きしめても怒ることはなく、それどころか頬を桜色に染め上げ、上目遣いに見つめ、自分のポケットに〝明るい家族計画〟 が入っていたとしたら、男ならどうするべきであろうか。


 やることはひとつに決まっているが、卓弥は欲望に忠実にはならずに、冬子に刃物の使い方の基本を教える。


 冬子は残念そうに頬を膨らませたが、三日連続で隣人から壁を叩かれるのは流石に気が引けた。やはりこのアパートの壁は値段なりの厚さなのだ。





 冬子は今の自分の姿をかなえに見せたくて仕方なかった。


 かなえは事あるごとに、「君はお嬢様」「庶民の生活なんてできるわけがない」と冬子のことを馬鹿にしていたが、冬子は一週間も掛からずにこの生活に溶け込んだ。


 今では値引きシールを貼っているおばちゃんに、堂々と「これも貼って」と催促できるし、カルピスの味と経済性を両立させた濃度も心得ているし、スーパーの詰め放題で効率的に野菜を詰め込む方法もすでにマスターしていた。


 今の冬子はポンと目の目に給料袋を置けば、三つ指でそれを受け取り、少ない給料の中から蓄えも生み出すほどの良妻賢母だった。


 もっとも、給料袋も子供も存在しないが――


「さあて、ここでの生活にも慣れてきたし、仕事を探さないと」


 とは、卓弥の発言だったが、冬子は全面的に賛同しかねた。


 一応、亀田一郎なる人物は高校卒業をしていることになっているが、偽名ではやはり碌な職に就けないであろうことくらい分かっていた。


 できれば卓弥には、卓弥の名前で学校に通って貰い、正道を歩んで欲しかった。それには金銭的時間的余裕が必要だったが、冬子はそれらのためなら、スーパーでレジ打ちをしたり、野暮ったい頭巾を被って清掃に精を出すのもやぶさかではなかった。


 しかし、卓弥にそれを言えば、

「駄目」

 の一言で済まされる。


 卓弥がヒモという職業に嫌悪感を覚える性格なのを今さらながらに確認した。


さて、こうして毎朝、職探しに出かける卓弥にお弁当を持たせて、見送るのが日課になっている冬子だったが、家事を完璧にこなしても午後には暇になった。


 この狭い部屋ではどんなにゆっくり掃除洗濯をしてもそれくらいで終わってしまうのだ。


 そうなれば備え付けられた小さなTVのスイッチを入れて暇を潰すか、町を散策するくらいしかないのだが、その日は何気なく視界に入った携帯電話に自然と視線が向かった。


 そのスマホは卓弥とお揃いであり、冬子のお気に入りだった。安物で碌な機能がなかったが、それでも過不足なく通話とLINEくらいはできた。


 冬子は暫くディスプレイを見つめると、意を決したようにアドレス帳から義妹の名前を選択した。


 時間は午後三時でまだ授業が残っている可能性があったが、運が良ければ出てくれるだろう。そう思って掛けたのだが、美月は一二コール目で電話を取ってくれた。

 冬子は挨拶もそこそこに用件を切り出す。


 ことさら、美月をないがしろにしてるわけでも使い立てているわけでもなかった。美月とは毎日のように連絡を取り合い、近況を報告し合っているのだ。


 密告をした娘と連絡だなんて、と思う人もいるかもしれないが、冬子は美月の、

「兄さんをよろしくお願いします」

「幸せになってくださいね、冬子さん」

 という言葉を全面的に信用していた。


 それに美月は冬子たちの健康や現状を心配しても、居場所を聞くようなことは一切なかった。第一、高梨家の影が、祖父の手が、ここまで伸びてくる兆候さえなかった。そもそも自分の妹を疑う姉などどこの世界にいようか。


「ええと、番号は――になります」


 美月は冬子の意外な願いに一瞬戸惑ったようだが、すぐにいつもの冷静さを取り戻すと、彼女の電話番号を教えてくれた。


「ありがとう、美月――。あなたにも苦労を掛けるわね」


 冬子はそう言うと電話を切った。


 冬子はチラシの裏にメモをした数字の羅列を暫く見つめると、それを辿々しい手つきで入力した。


 彼女もまた授業中かもしれないが、冬子は美月のときのように迷ったりはしなかった。


 十全かなえならば、例え授業中でも、

「先生、産気づきました!! 一週間ぶりです!!」

 と、大きく挙手をし、堂々とトイレに行く姿が想像できた。


 それにかなえは冬子が授業を受けているときでもお構いなくLINEや電話を掛けて来て、無視すると「君はソウルメイトを無視するのか」と怒ったものである。逆の立場になるのは神が定めた運命といえた。


 かなえは三コール目で電話に出た。

 どうやらもう授業は終わっていたらしい。

 懐かしい声が聴覚を刺激した。


 数瞬、声が出なかったのはそのためだったが、十数秒、沈黙をもたらしたのは罪悪感のためだった。「図々しい」「鉄面皮」とはかなえの主張するところだが、それでも冬子は恥くらい弁えているつもりだった。


 恥知らずにも同盟を裏切り、駆け落ちまでした女に、かつての友人に掛ける言葉など、容易に見つからなかった。


 しかし、それは冬子が一方的に思っていることで、かなえは違ったようだ。

 かなえは開口一番に怒気を発した。


「今までどうして連絡をくれなかったんだ!」


 かなえが怒っているのは裏切りではなく、冬子の薄情さだった。

 いわく、「どうして卓弥と上手くいったことを報告してくれなかったんだ」


 いわく、「どうして駆け落ちの計画を相談してくれなかったんだ。何も言わずに全財産をポンと渡す女気くらいあるのに。……八〇〇〇円しか貯金ないけど」


 要約すると、あれ以来、連絡を絶った冬子の狭量さを責めているようだった。

 実際、冬子は狭量な人間なので沈黙するしかなかった。

 しかし、かなえにはそれが気に入られない。

 ここぞとばかりに冬子の悪口、いや本質を次々と射貫く。


 自分勝手、我が儘、唯我独尊、視野狭窄、およそ考えつく限りの冬子の欠点を上げたが、最後にひとつだけ冬子のことを評価してくれた。


「――でも、でもさ……、よく電話してくれたよね……」


 かなえは最後に冬子の勇気だけは褒め称えてくれた。


 そしてそれ以上何も言わず、あのとき、最後に別れたときと同じ口調で、卓弥のことを話し始めた。


 まるで今だけ、この空間だけ、あのとき、ファミレスで時間を浪費していた時に戻ったような錯覚を覚えた。


 もちろん、時間は不可逆であり、人の身である少女たちにそんなことは不可能だったが、冬子は久し振りに年相応の少女の顔を取り戻していた。気丈に振る舞ってはいるが、いや、気丈に振る舞っているからこそ、冬子は大人にならざるを得なかったのだ。

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