少女たちの動機
薄幸の少女には記憶もなければ姓もなかったが、幸いなことに名があった、身体があった、舌があった、胃袋があった。そのどれらも世界最高のものとは言えなかったが、文句を言うつもりはこれっぽっちもない。それぞれのパーツが過不足無く役割をこなしてくれれば何の問題もなく、実際に果たしてくれている以上、不平など贅沢の極みともいえる。
「そうだ、こんな贅沢な物、次はいつ食べられるか分からないんだ」
どうやらナナコの独語が漏れていたらしい。かなえは石器時代の勇者のように豪快に豚の丸焼きにかぶりついていた。
それにはナナコも同意である。ナナコの記憶はさっぱり戻らないが、この舌の感動から察するに、こんな豪勢な物は親戚の結婚式でも食べられない身分の人間に違いなかった。
「ねえ、見てよ、かなえさんにナナコ、そこにあるの本物のキャビアじゃないかな? あたし、結婚式場でバイトしてたから知ってるんだ。それ、披露宴で出る安物じゃなくて、一〇〇グラムうん万円もするベルーガじゃないかな」
春もかなえほどではないが、食事を楽しんでいるようである。
「ベルーガ? なんだか、ホークス辺りで五番を打っててもおかしくない名前だね。おいしいのかね? どれどれ……、あ、やばい、ナナコ、これマジで美味しい。ホークスで五番じゃなく、ヤンキースで三番って感じだ」
王侯貴族が来賓客として来ても、恥をかかぬであろう内装と調度品、皿やその上に乗せられた物も芸術の域に達していると言っても過言ではない。
おそらく一般庶民には一生縁遠いそれらを三人の少女たちは満喫したが、最高の料理と環境に、無粋にも香辛料を掛けるものがいる。
――皮肉と悪意に満ちた香辛料を。
「よくこんなときにキャビアなんて食べられるわね」
侮蔑と敵意を隠さない物言いで言ったのは、高梨冬子だった。
彼女の言葉は敵意に満ちていたし、刺々しかったが、それでも彼女に味方するものも多い。
その態度はともかく、正論だったからだ。
「わ、私もそう思います。こんな非常時になにも……」
築地由佳里もおそるおそる同調したが、かなえが返した言葉には反省の色はない。
「だって仕方ないだろう。用意されたのがイクラではなく、キャビアだったんだから。ボクも日本人なんだから、キャビアではなく、イクラのどぶ漬けの方が食べたいさ。あちらの方がご飯に合うからね」
ナナコがそれに呼応する。
「自分はスジコが好きでありますね。ぷちぷち食感は劣りますが、あれはあれで――」
ナナコの言葉を途中で遮ったのは冬子だった。それも尋常ならざる怒気を持って。
「私が言っているのはそんなことじゃないッ!! よくも自分たちを拉致した人間が用意した物を口にできるわね、と言っているの! あなたたち毒殺は怖くないの? どんな神経してるのよ!!」
冬子の一喝によって場は沈黙に包まれたが、やがて一華や由佳里も追随する。
「一華も冬子さんの意見に賛成です。みなさん怖くないんですか? 犯人は人数分の睡眠薬を調達できるんですよ? なら毒薬だって……」
「まあ、毒薬だって簡単に入手できるでしょうな。生物由来から植物由来、有機化合物、即効性、遅効性、選り取りみどりでしょう」
「何を他人事みたいに言っているんですか。ならすぐにでも吐き出さないと」
「でもよく考えてみてください。ええと、卓弥さんの妹さん、名前は何でしたっけ」
「美月――ちゃんです」
答えたのは一華だった。彼女は美月と仲が良かったらしいが、その言葉にはどこか不明瞭なものがある。もっとも、いまそれを問い質すときではないが。
「その美月嬢が自分たちに殺意があるなら、自分たちはとっくに棺桶に収まっているとは思いませんか? 自分たちが憎くて拉致したのなら、もうとっくに冥界に旅立っているか、中東か中国辺りの富豪のところにでも売られているか」
「……美月さんは私たちに危害を加えるつもりはない、ということでしょうか?」
「今のところはね」
そう答えたのは七面鳥のブルーベリーソース掛けを嚥下し終えたかなえだった。彼女はこう続ける。
「だから、今のうちに食べておくのが吉だよ。君たちは平和な日本で生まれ育ったから、分からないと思うけど、食べられるときに食べる! それが人生と書いてサバイバルと読むこの世界の正しい生き方さ」
冬子は「ふんっ」と鼻を背け、一華と由佳里は顔を見合わせる。三者三様に納得はしたようだが、胃袋の活動を活発化させることはできなかったようだ。三人ともレモン水を口に含むのがやっとのようである。この場合、かなえたちが剛胆なのではなく、無神経と言った方が適切なのかもしれない。
かなえと春、ナナコが食事をし終えると、どこからともなく先ほどの少女の声が聞こえてくる。
ナナコたちをこの食堂に誘い、食事を提供してくれたこの館の主の声だ。
「みなさん、食事の味はいかがでしたでしょうか。空腹は満たしていただけましたか?」
凛とした声である。声質は若干、冬子に似ているだろうか。ただ、似ているのは質だけで、冬子の毛羽だった感情を体現したようなヒステリックさはなく、どこか修道女を思わせる慈愛に包まれた口調だった。
「はいはい、こんな御馳走、自分の結婚式でも食べられそうにないです。もっとも、アラブのオイルダラーの玉の輿に乗れば別ですが。あ、これでも自分、お金より愛のある結婚がモットーでして、決してお金目当てでオイルダラーと結婚するわけじゃありませんよ。それを証拠に、オイルダラーとの結婚式に出される御馳走も、たぶん、胸がいっぱいで口にできないと思われます」
一同の視線が集まる。こんなときに軽口か、視線がそう語っていた。
しかし、スピーカー越しの主は、ナナコの言葉を無視するように続ける。
「食欲がない方もいるようですね。このような非礼な招待をしておいて忠告できる立場ではないのですが、この館での滞在は長くなると思われます。食欲が戻られましたら、無理にでも口にすることをお勧めします」
「何をふざけたことを言っているの? 美月! すぐにこの場に出てきなさい! あなた、自分が何をしているか分かっているの? このことをお爺さまが知ったら、あなたなんて――」
「………………」
「しかし、申しわけありませんが、あなたたちの食欲回復を待っている余裕は、わたしにはありません。そろそろ、なぜわたしがあなたたちをこの館に御招待したか、説明させて貰っても良いでしょうか?」
(また無視をする……、この部屋の会話は向こうには聞こえていない? それとも録音なの? どちらにしろ……)
ヒステリックに館の主を誰何する冬子を三人掛かりで制止すると、美月は説明を始めた。
「まず、この館に招待した人たちは皆、わたしの兄の知己です」
皆さんもとっくに気がつかれていると思いますが、美月がそう付け加えるまでもなく、ナナコを除く全員が納得していた。ナナコは無駄を承知で自分が記憶喪失であると伝えたが、美月はそれを丁重に無視する。
「まず、兄の人となりについて、再確認したいと思います。本来、人前で身内を褒めるのはあまり好きではありませんが、皆さんの前でなら恥じることもないでしょう。皆さんもわたしと同じような気持ちを持っているはずですから……」
声の主はそこで言葉を句切る。劇的な効果を狙っているのか、単に息継ぎをしているのかまでは判別できないが、次にもたらされた言葉は彼女の第一印象を一八〇度変えるに十分なものだった。
「まず第一に、わたしの兄さんはちょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー格好いいです」
「……」
ナナコは精神的にも肉体的にも数歩蹌踉めいてしまう。このシリアスな場面にこんな台詞を持ち込める人間など、自分だけだと思っていたからだ。
「どれくらい格好いいか、格好良さを表す単位などありませんので、置き換えになりますが、東京ドームに換算すればおよそ一〇〇万個、地球に換算すれば三つくらい格好いいと思われます」
いえ、それは不適切かも知れません、美月は続ける。
「そもそも兄さんを他のもので換算しようとしたのがわたしの不徳でした。兄さんの格好良さは代替が効くものではありません。兄さんそのものが格好いいのだから。ゆえに格好良さの基準を兄さんにすべきなのです。ハリウッドスターの格好良さはこう表記すべきでしょう。例えばトム・クルーズならば、0.06兄さん、と」
ナナコは思わず天を仰ぎたくなり、周りに同意を求めるかのように視線をやったが、誰ひとり、同意するものはいなかった。それどころか、かなえなどは熱心に頷いてまでいる。
仕方なくナナコは美月の言葉が途切れるのをまったが、兄の格好良さから始まり、センスの良さ、努力家なところ、優しい性格に芯の強さを持ったところなど、聞いてもいないようなことを数十分にも渡って列挙してくれた。
ナナコは木村卓弥になど興味は無く、彼女が語る基準も妹の目から見たものであり、まったく共感など覚えない。
正直、知らない間に生理用品を補充していてくれる男にときめきも胸きゅんも感じない。
「……というわけで、手前味噌ながら、わたしの兄がどんな人物か、分かっていただけかと思います」
日曜の昼下がりの選挙演説よりも苦痛のそれをなんとか聞き終えると、美月は少しずつ核心に入り始めた。
「そんな兄が先日、この世を去りました――」
(死んだ? 冬子嬢も言っていたけど、あの死体が木村卓弥なの?)
「兄の喪失は世界の喪失を意味します、……少なくともわたしの中では。いみじくも先ほど、兄は地球三個ほどに匹敵するといいましたが、その言葉に偽りはありません。仮に人類すべての人間を天秤に掛けても、僅かも躊躇することなく、兄の命を優先するでしょう」
美月は淡々と続ける。
おそらく、彼女の言葉には嘘はないのだろう。彼女は兄を救うためなら、喜んで人類滅亡の引き金を引けるタイプだ。その淀みない達観したかのような口調がそれを証明していた。
「ゆえに、わたしは憎いのです。兄の生命を奪った人間が……、わたしから兄を、いえ、すべてを奪った人間が……」
「気持ちは分かります! で、でも、木村くんは事故で死んだのでしょう? 階段を踏み外してしまい打ち所が悪かったって。私も散々悔やんだけど、悔やんだって人のせいにしたって、木村くんは帰って――」
「違うっ!!」
空気を切り裂き、心臓を鷲掴みするかのような言霊だった。
木村美月は築地由佳里の言葉を全身全霊を持って否定した。
あるいはそれは彼女が初めて見せた人間らしい感情と言えたかもしれない。それまでの彼女は兄の美点を話すときでも、どこか人形めいたところがあった。そんな彼女が初めて生の感情をむき出しにさせたのだ。
もっとも、それも長くは続かない。彼女は再び、淡々とした口調で語り始めた。
「……兄は階段を踏み外して死んだのではありません。第三者によって背を押され、たった一七年の人生に幕を下ろしたのです」
「でも、警察は……」
「あなたは警察の言うことならなんでも信じるのですか? 予算が無ければ、こめかみにナイフが刺さっていても事故死で片付けるような組織を信じるのですか? あなたが言うとおりの組織ならば、冤罪で苦しむ人間など日本にはいないのでしょうね」
戦後、無実の人が警察の捏造や拷問により、犯罪者にされた例は山ほど有り、また警察の怠慢や不正により未解決に終わった事件はそれよりも遙かに多い。日本人などは警官の制服を見れば安心する人間が多いようだが、警官を見れば、悪い意味で恐怖を抱き、侮蔑の感情が湧くのが世界の標準といえる。
美月が言いたいのは、卓弥の死が事故死ではなく、第三者による殺人、立派な刑事事件だということだ。
美月は警察という組織を信じてはおらず、またその件を司直に委ねるという発想もないのだろう。だから、この面子をこの場に集めた。そしておそらく、卓弥を殺した人物、彼女がそう信じて疑わない少女がこの中にいるのではないか、ナナコはそう結論づけていたが、それは美月の言葉によって補強される。
「勘の鋭い方なら、もう気づかれているでしょうが。わたしは――主人美月は、この六人の中に、わたしの兄、卓弥を殺した人間がいると、確信しております」
「!?」
それぞれの表情で息を呑む五人、ナナコを除く全員が動揺していた。
ただ、それぞれの表情は違えど、五人全員に憎しみの炎が宿っているように見えるのは、気のせいだろうか。
誰もが、全員、犯人を見つけ、くびり殺してやろうとしているように見えるのは気のせいだろうか。
「この中に犯人がいるですって? それは本当なの? 美月」
やはり最初に食って掛かったのは高梨冬子だった。
「美月ちゃんは何か証拠を掴んでいるのかな? もちろん、どこからそんな証拠を見付けて来たんだ、なんて野暮なことは言わないよ。ボクの知らない間にこんな大がかりなことをができる大物になったんだ、調査くらいわけないよね。だから、ボクにだけでもその証拠を見せてくれないかな?」
声色は温厚で淑女(紳士?)的だったが、目が笑っていない。この場に美月が居て証拠を持っていれば奪いかからんほどの何かを感じさせる。
「ちょ、ちょっと待ってください。皆さん、なぜ美月ちゃんの言葉を信じるんですか? あ、いえ、美月ちゃんがウソツキって言ってるわけじゃないからね。そう、うん、美月ちゃんも美月ちゃんだよ、誰に調べて貰ったかは知らないけど、なんで卓弥先生の友達をこんな非道い目に合わせるの? 一華はもちろん、卓弥先生の友達が卓弥先生に非道いことするわけないじゃない」
必死の懇願だった。それが彼女の本心なのだろう。彼女の世界では人が人を傷つけるわけもなく、ましてや友人を殺すなど、考えもつかないのだろう。
五人が全員、一華と同じ考えではない。だが、似たような思考をするものはたくさんいる。田島春と築地由佳里も友人の妹を諭すかのように説得を続ける。
卓弥が良い人間であることはこの場の誰もが知っている。
その卓弥の友人が、卓弥を殺すわけがない。
要約するとそんな主張になる。小学校の道徳の時間の教材にでもするべき論法である。
だが、少女はそれが欺瞞であるとすぐに見抜いた。
彼女たちの本心ではないとすぐに悟った。
少女はそれを彼女たちに指摘したが、彼女たちはそれを認めなかった。
認めたくなかった。
だから少女は凍てつく言葉によって殺意という名の動機を紡ぎ出す。
少女たちが隠しに隠してきた事実を、
胸の奥に秘めていた想いを、
衆目の前で一糸纏わぬ姿にさらけ出す。
だって、あなたたちも兄さんのことを愛していたじゃない――
少女にとって動機など、それだけで十分だった。