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駆け落ち

 まだ一一月だというのに、街はクリスマスムードに包まれていた。


 気の早い日本人たちは一ヶ月近く前から、異教の神を祝おうと街中の木々に電飾を飾り付け、延々とクリスマスソングを流していたが、その光景を真っ当なクリスチャンが見たらどう思うであろうか。


 少なくとも高梨冬子なる人物は軽蔑と皮肉混じりのコメントを残したであろうが、高梨という名を捨てた今は些かもささくれ立つことはなかった。


 むしろ幸せそうに腕を組む恋人たちはもちろん、ひとり寂しく哀愁を漂わせる人たちにも自分の幸せを分けて上げたいくらい寛容な気持ちになっていた。


 高梨冬子は初冬といっても良いくらいに冷え切った街の中、ひとり夢見心地に佇んでいた。


 時折、楽しげに鼻歌を歌ったり、何もない空間を一点に見つめながら顔をにやつかせている。


 不審者そのものともいえるが、その端正な顔立ちと小綺麗な格好が通報を躊躇わせる。


 それどころか数人の若者にナンパされたりもしていた。むしろその幸せそうな表情が世の男を惹きつけるのかもしれない。以前の険のある雰囲気のときには考えられなかった事態である。


 無論、どの男も冬子の気を引くどころか、まともに相手さえして貰えなかったのはいうまでもないが。しかし、それでも罵声を浴びせなかっただけ進歩しているといえるのかもしれない。


 冬子は三人目の男をつれなく袖にすると、四人目の襲撃を背中から受けた。


「かーのじょ、今、ひま?」


 とても軽薄そうな声と口調だった。


 冬子は振り向くのも惜しい、といったていで、

「人と待ち合わせしているの」

 と言い放った。


 無論、そんな言葉だけで諦めるものがこの高嶺の花に声を掛けるわけがない。


「そうかー、でも非道いなあ。こんな美人をこの寒空の下に待たせるなんて。俺が君の彼氏なら絶対そんな真似はしないんだけどね」


「そうかしら、あなたは軽薄そうだから、信用ならないわ」


「いやいや、見た目こそモヒカンで鼻ピアスだけど、こう見えて女の子に尽くすタイプなんですよ。まあ、口で言っても信憑性ないか」


 男はそう言うと、「あ、そうだ」と手を小突く。


「ここはお試し期間と思ってさ。振り向いて君の彼氏がまだ来ていなかったら、俺と付き合ってみない?」


 無論、そんなことに同意する理由などない。冬子の心の中にはすでに卓弥しかいなかったし、その卓弥が消え去ることも、他の男が割り込む余地も、今後一〇〇年は有り得ないだろう。


 しかし、そんな冬子が口にした言葉は意外なものだった。


「いいわよ。仮にもし、振り向いてもそこに彼がいなかったら、あなたの唇にキスをしてあげる」


 冬子はそう言い放つと、ゆっくりと振り返った。

 そこにはモヒカンの男などおらず、よく見知った人物が微笑んでいた。


「残念、美人のキスを貰い損ねた」


 そう、うそぶき、悪童のような表情を浮かべる。


 冬子は卓弥のその表情が大好きだった。だから思わず「あなたのことなんて知らないわ」と、卓弥の腕の中に飛び込み、彼の唇を奪った。


 往来を歩く人たちの視線が集中したが、冬子にはそんなことどうでも良かった。

 ただただ、久し振りの感触と温もりに身を任せていたかった。


 冬子の感覚では一瞬、時間にして数分間はそうしていると、冬子はやっと卓弥から離れる。正確にいうと卓弥に引き離されると、スマホのディスプレイを指さされた。


 どうやら時間が迫っているらしい。

 名残惜しいが、いつまでもここでこうしているわけにはいかなった。

 冬子と卓弥を互いの指を絡め合うと、ターミナル駅の中へ入っていった。

 まるで婚前旅行に向かう恋人たちといったところである。


 その幸せそうな表情からは悲壮感や不安などといったマイナスの因子は読み取れない。


 今のふたりを見て、〝駆け落ち〟を想像するものがいたとするならば、そのものはとても優秀な捜査官か検察官になれることであろう。





 ふたりの駆け落ち計画は、綿密に計画されたものではなかった。

 少なくとも卓弥はそう思っていたようだ。


 懇意にしている女中の手引きで、屋敷に忍び込むことができた卓弥だったが、そこで冬子に「駆け落ちをしましょう」と泣き疲れたとき、表情に困った。


「俺たちはまだ学生だ」


「私はもうじき卒業だわ」


「そういう意味ではなく、食べていけない、と言ってるんだよ」


「私は愛を食べれば満腹になるわ、仙人だって霞を食べているじゃない」


 真顔で言ったので、一瞬、冬子の正気を疑ったが、すぐに冗談だと訂正する。


「ふたりで働けばいいわ。小さなアパートを借りて、贅沢をしなければ十分、暮らしていけるもの」


「……無理だよ」


「やらなければ分からないでしょう」


「分かるさ」


 卓弥はそう言ったが、それ以上は口にしなかった。明らかに冬子が泣きそうな顔になったからだ。卓弥は幼き頃よりこの顔にとても弱かった。


 だから現実的な不備よりも、心情的な面で攻めることにした。


「駆け落ちか……、それも悪くないかもな。うちの母親も駆け落ちして俺たち兄妹を産んだのだしな。姪っ子と実の息子がそれに習うのも悪くないかもしれない」


「じゃあ」と冬子の顔が華やぐ。


「でも、俺には妹がいるんだ。たったひとりの肉親なんだ……」


 卓弥はそれ以上言葉にしなかった。


 冬子は卓弥が妹である美月を可愛がっていることを知っていたし、彼女の父親代わりを自負し、遺漏なくそれを実行していることも知っていた。今さら、美月を放りだして何もかも捨てることなど、今の卓弥には到底できないことも知っていた。


 しかし、冬子はその足枷を魔法の言葉によって解放する。

 これは美月も承知してくれているのよ、と冬子は卓弥の耳に囁く。

 

「あの子は、あのことをとても後悔していたのよ」


 あのこと、とは件の密告のことを指しているのだろう。

 実際、美月は密告したのは自分だと素直に認め、涙ながらに許しを請うてきた。


「兄さんが冬子さんに取られてしまうと思って……」


 美月はそう言って、卓弥はもちろん、冬子にも頭を下げたが、謝意の言葉と気持ちだけではなく、行動でも冬子たちをサポートしてくれていた。


 連絡手段を奪われ、接見も禁じられているふたりにとって、同じ学校に通う美月は最適な橋渡しなのである。美月は喜んでメッセンジャーを引き受けてくれた。正直、美月がいなかったら今日この日、こうして逢うことさえ不可能だったといっても過言ではない。


 そんな美月が、卓弥たちの駆け落ちを承認してくれたのである。


「承認どころか、美月は駆け落ちを勧めてくれたわ。ううん、後押ししてくれたといってもいい」


 冬子はそう言うと、もはや駆け落ちをするしかないでしょう、と言わんばかりに卓弥の胸に飛び込み、上目遣いに尋ねた。


「決行は明後日夜八時よ。M駅からS駅に行って、そこから深夜バスに乗るの」


 冬子は「来てくれるのでしょう?」とは尋ねなかった。卓弥は必ず来てくれると信じていたからだ。実際、卓弥はそこに赴くし、駆け落ちも成功するのだが、卓弥の迷いは、あるいは未練は、深夜バスの中でも、いや、降りたあとも消えることはなかった。


 



 駆け落ちの地として北関東の小都市を選んだのは、冬子の意外な抜け目のなさを示すものだった。


「駆け落ちと言えば、ううん、逃避行と言えば北と昔から相場が決まっているの」


 無論、それは建前であって、本当の理由は関東圏で人口が多く紛れ込みやすい。また製造業が盛んで仕事もありそう、という現実的な理由があった。卓弥ならこれから冬だからという理由で意味もなく南に行きそうだが、やはり意外と女の方がしっかりしているということなのだろうか。


 しっかりしていると言えば、深夜バスの中で見せられた札束にも驚かされた。

 聞けばこの日を想定して、現金を少しずつ貯めていたらしい。


 家人が気が付かぬよう少しずつ少しずつ貯蓄し、ときにはカードを現金化したり、父の使っていない金時計なども拝借して貯めたお金だった。


「これで当座の生活に支障はないわ。アパートも借りられるし」


「最近は敷金保証人なしの物件もあるしな。でも、流石に身分証はいるだろうけど……」


 しかし、冬子はそれもあっさり解決する。

 齢二十歳の若夫婦の身分証をどこからともなく取り出す。


「どこで手に入れたかは聞かないで頂戴」


 とのことだが、確かに怖くて聞けたものではなかった。


 しかし、夫婦、と言う言葉に看過できぬものがある。無論、そうなるのはやぶさかでもないのだが、今の自分たちを見て夫婦と勘違いをするお人好しがこの日本に何人いるか。


 どう贔屓目に見ても初々しい彼氏彼女程度にしか見えないのでは……、卓弥はそう思ったが、あえて恋人の機嫌を損ねる必要などどこにもなく、スルーすることによって節度を守った。


 しかし、卓弥のその配慮も、初日に泊まった旅館で水の泡にされる。


「まあまあ、一緒にご旅行ですか。ほんとに仲の良い姉弟だことで」


 と、旅館の仲居に言われたのだ。

 お陰で卓弥は冬子の機嫌を取り持つのに苦労を強いられた。

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