脱出
白、
白、
白、
見渡す限り、白い世界がそこに広がっていた。
踏みしめる大地も、
吐き出す吐息も、
そしてその精神世界も、真っ白で僅かばかりの濁りもなかった。
冬子は寒さと疲労のため、何も考えることができずにいた。
ゆえにナナコの、
「パンツも白でしょうね、げへへ」
という下卑た笑いも、耳には届いても、脳に焼き付けることはできなかった。
しかし、ナナコの別の言葉には反応する。
「あのぉ、冬子嬢、いい加減、自分をパージしてほしいであります」
「パージ? 戦後の共産主義者追放運動のこと? 私は資本家の娘だから、支持せざる得ないわね」
「じゃあ、自分は共産主義者、ということで」
「ごめんなさい、やっぱり急に資本主義が憎たらしくなって来たわ」
「………………」
ナナコは大きく吐息をすると、素直に日本語で、
「自分をここに置いていってください」
と、今度こそ有無を言わさない口調で言った。
冬子は何も言わずにロープを引く手に力を入れた。
見ればそのロープの先には板とナナコが括り付けられていた。
そう、高梨冬子は、その細腕で同年代の少女を数百メートルも引きずって来たわけである。この極寒の世界に抗うかのように。
ナナコの体重は四〇キロ弱、食糧や水、件のオルゴールを含めれば五〇キロ近い重量を引いてこの場所までやって来たのだ。
板を雪車代わりにしているとはいえ、その苦労は並々ならぬものがある。
ゆえにナナコは先ほどから、いや、館を出る瞬間から、自分を置いて行けと口を酸っぱくするほど主張しているのだが……。
「はーい、自分を置いて冬子嬢がひとり下山した方が合理的であります。無事下山できたら助けを呼べばいいのであります」
ナナコは手を上げ、声高に訴えたが、冬子は沈黙し、心の中で、
(あの館でひとり残されて生きていられるとでも思っているの?)
と、答えると、重苦しい足を一歩前に突き出す。
「冬子嬢、このままでは共倒れですぞ。楢山節考って知ってるでありますか? 今が不法投棄のチャンスですぞ!」
(……乳母捨て山でしょ。私はあの話が大嫌いなの。何かを得るのに、何かを捨てるなんて真っ平ごめんだわ)
冬子はそう口にする代わりに、前足を雪から抜き出す。下らないことをしゃべるくらいなら、その分のエネルギーを運動に傾け、一歩でも前に歩を進め、前のめりに倒れ込みたかった。
ナナコを置き去りにするくらいなら、このまま凍死した方が千倍ましだった。
無論、そんなしおらしい死に方を受け入れる気など毛頭ない。
このままナナコと下山し、あの館で冬子たちを嘲笑っていた連中に一矢報いることしか頭になかった。
ゆえに黙々と雪を踏みしめているのだが、ナナコには冬子の気持ちが伝わらないようだ。ブーブーと文句を言い続けている。
冬子は久し振りに感情を顕わにした。
「黙りなさいッ!! それ以上しゃべったら、指を一本一本へし折るわよッ!!」
冬子の裂帛の気迫に屈したのだろうか、ナナコはそれ以上、みだりに口を動かさなくなった。
あの口の先から生まれ出たような少女が沈黙したのである。
それは十数分続いたが、そうなると冬子には別の焦りが生れる。
つまり、今、冬子が引いているのは死体ではなかろうか、という疑念が湧いたのだ。
当然である。感覚はすでに麻痺してしまっているが、気温はゼロ度を下回っていることだろう。身体を動かしている冬子はまだいいが、雪に全身を晒している少女にとってこの寒さは命取りになるのではないか?
冬子は慌てて後ろに振り返ったが、
そこには――
珍妙な表情を作っている少女がいた。
「………………」
冬子は何事もなかったように前を向くと、'再び歩みを進めた。
次いで冬子は久し振りに無駄なことにエネルギーを消費する。
「ナナコ、あなたは家族が好き?」
冬子は唐突に語り出した。
威厳ある祖父のこと、気の弱い父のこと、身体の弱い母のこと、
特に祖父には愛憎が渦巻き、一言で表することはできなかった。
「……お爺様は大嫌い。私から卓弥を引き離した張本人だから……」
しかし、祖父のことを「嫌い」「憎たらしい」の一言で片付けることは困難だった。
冬子のことを誰よりも可愛がってくれているのは事実だったし、何よりも冬子は一代で会社を興し、それを世界的な規模にまで育て上げた祖父を心から尊敬していた。
冬子はさまざまな思いを包み隠すことなく話すと、最後にこう結んだ。
「……みんな、今頃何をしているのかしら……」
祖父は気丈に振る舞いつつも裏で警視庁長官や警備会社の社長を怒鳴り散らしているかもしれないし、父と母は慌てふためいているかもしれない。あるいは母はショックのあまり倒れているということも有り得る。
冬子は不謹慎にも笑ってしまった。笑いが込み上げ止まらなかった。
不条理であり、意味のない笑いであったが、その笑いを止めたのは、冬子の理性ではなく、ナナコの言葉だった。
ナナコも家族について語り出したのである。
「――自分の母親は変わった人でありました」
「――あなたを見れば察しが付くわ」
ナナコを見て「普通の親」を想像することは困難である。ただ、冬子が想像した変人ではあるが愛情深い母親の姿はそこにはなく、ナナコが話す母親はどこか機械のように冷徹な人間のように思えた。
「……まるで娘を着せ替え人形かなにかだと思ってるような母親ね」
「なるほど言い得て妙ですな。確かにコンテストの衣装を選ぶときは目が輝いていたような気がするであります」
「私の母親は、私に自由意志を持たせてくれたわ。自分のやりたいことをして、なりたいものになりなさい、と言ってくれた」
「いいお母さんでありますな。でもピアニストもそうですが、特定の職業は、親の援助というかやる気がないとなれないものでありますから」
「それにしても非道いわ。学校にも通わせずにピアノ漬けにするなんて。だからこんな変な娘に育ったんだわ」
ナナコはその言葉に思わず笑ったが、「まあ、そんなに怒らないでください」と前置きをすると、
「変な母親で、仮にアメリカなら児童虐待で逮捕されるような人ですが、……それでも自分の母親でありますから」
と、自分の母親を庇った。
そう言われてはそれ以上文句など言えない。
冬子はしばし沈黙したが、とあることに気が付き、再び口を開く。
「……母親……って、あなた、もしかして記憶が戻ったの? 自分のことを思い出したんじゃ!?」
冬子の疑問はもっともであり、実際にナナコは記憶を取り戻していたのだが、ナナコはあえてそのことは伝えず、代わりに一年前のでき事を昨日起きたことのように語り出した。
冬子は聴力に神経を集中した。
ナナコが自分語りをするなど、希有なことだったし、ナナコの過去は傾聴に値するものだったからだ。
「――自分で言うのもなんですが、自分にはピアノの才能がありました」
ナナコの口調は自慢げでなく、むしろ淡々としており、まるでどこか他人事だった。
「母もピアノを囓っていましたし、父親も……、会ったことはありませんが、血統上の父親もピアノの才がありました。音楽に遺伝が関係するかはさておきますが、少なくとも環境面では考えられる限り、最高のものを用意して貰いましたから」
その結果が、国内のあらゆる賞を総なめにした天才少女、というわけである。
ナナコはティーンエイジャーになる前に日本でできることをやり尽くすと、当然のように海外へと羽ばたいた。元々、ナナコの母親は国内など眼中になく、海外を視野に娘を教育していたのだ。
母親が選んだのは芸術の都巴里だった。
「言葉には不自由しませんでした。ピアノのレッスンの合間に語学の勉強もさせられていましたし。それに自分たちは語学を学びに来たのではなく、ピアノを披露しに来たわけですから」
ナナコは「音楽に国境はありませんしな」と、少し照れた表情を浮かべた。
むしろ困ったのは食生活の方である。欧米の外食は総じて高い。感覚的には日本の三~四倍といった感じで、またスーパーの閉店間際の値引き弁当などもなく、料理下手な母親が自炊せざる得なかったのが、今でも一番の苦労だと断言することができた。
「毎日、サンドイッチとインスタントスープ、それに野菜ジュースでした」
ですがナナコと母親はそんなことで弱音を上げるような人間ではなかった。
巴里で治安と家賃と交通の便のバランスが良い賃貸住宅を見付けると、そこを拠点に活動を始めた。日本では有名人のナナコであるが、巴里では無名の東洋人である。まずは泊を付ける必要があった。
母親はヨーロッパ中の権威あるピアノ・コンクールに応募すると、鈍行列車、格安航空券を駆使し、娘をコンクール会場へと連れて行った。
ヨーロッパの音楽会は総じて保守的である。しかし、先人たちの努力でそれも大分緩和されていた。今は実力さえ伴っていれば、例え東洋人の小娘でも評価される時代なのである。
実際、どこの会場でもピアノを弾き終えれば、ナナコは喝采を持って迎えられた。
「素晴らしい」
「この子は天才だ」
国によって言語こそ変わるが、どこも同じような美辞麗句を持って受け入れられた。
ナナコは某国の権威あるコンクールに最年少で入賞するという快挙を達成する。
「今回は少し緊張していたようですが、来年こそは間違いなく優勝でしょう」
審査員に言われた言葉である。
「……すごいわね」
それが冬子の率直な感想だった。ナナコの腕前を確認していなければ「信じられない」の一言なのだろうが。
「それで、翌年は優勝できたの?」
ナナコは無言で首を振る。
「翌年は二位でした。準優勝という奴です」
しかし、それでも大したものである。冬子が記憶する限り、そのコンクールで優勝した日本人はいなかったはずである。冬子はテレビはあまり見ないが、きっとニュースでも取り上げられる偉業と言ってもいいのではないだろうか。
「ちなみにその翌年も二位でした」
「……二位でもすごいじゃない」
「そうですね。母以外の人は皆そう言ってくれます」
「………………」
「ちなみに、その年に参加したコンクールでは、すべて入賞し、最低でも三位でしたが、それでも一位にはなれませんでした」
「きっと審査員との相性が悪かっただけ――」
ナナコは、
「そうでしょうか」
と、冬子の言葉を句切った。珍しく感情的になっている。
「……いえ、そうなのかもしれません。そもそも、音楽に採点を下すなんて、神ならざる身に不可能なことだと思いますから……」
ナナコは、「――でも」と言葉を続ける。
「自分の母親はそうは思っていなかった。娘が優勝できないのは、東洋人だからだと思ったようです。だから母親は娘の髪を金髪に染めたりもしました」
「効果は……」
と冬子は言いかけて止めた。あるわけがない。
「次に母親は国籍がいけないのだと思ったようです。金持ちの好色白人を見付けると、即座に入籍しました」
ナナコの母親はその愛してもいない夫の財力と発言力に期待したようだが、クラシック界にコネないと露見すると、即座に三行半を突きつけた。
母親は何がいけないのだろう、どうすればいいのだろう、自問自答を重ね、僅かでも効果がありそうなことはなんでも試した。
一方、娘の方も唯々諾々と母親に従ったが、娘の髪を染めたり、好きでもない男と寝たり、霊媒師にまですがる母親をどこか冷めた視線で見つめていた。
(……そんなことをしても無駄なのに)
と、思っていたからだ。
ナナコがコンクールで優勝できない理由は簡単だった。
奈央子自身に実力が伴っていないからにすぎないのである。
さまざまなコンクールに参加し、入賞を果たしたナナコであるが、ナナコより上位のものは、皆、ナナコよりも旨くピアノを弾きこなしていた。
「……冬子嬢に分かりますか? 母子揃ってピアノに人生を、いえ、命を掛けて来たのに、一番になれない苦しみが。母子揃ってもがき苦しみ、藁にでもすがるようになんでもした滑稽さが。自分は一番になるためにこの世に生を受けたのです。最高の精子から誕生し、最高の環境を与えられた。しかし、それでも最高の結果を残せなかった人間の気持ちが、冬子嬢には分かりますか?」
「………………」
「分かるわ」などと気軽に言うことはできなかった。また「分かってあげたい」と偽善者ぶることも冬子にはできなかった。
「………………」
冬子は沈黙せざる得なかったが、それが卑怯だとは思わなかった。
笑うことしか、戯けることしか知らなかった少女が、肩を震わせていた。
涙を流し、嗚咽を漏らしていた。
誰にも分かるはずなどないのだ。
己の気持ちさえ掴むことができない人間に、他人の気持ちを推し量るなど、傲慢としかいいようがない。
ゆえにその後、ナナコが犯した愚かな行動も、冬子に批判などする権利はなかった。
ナナコは「これで最後」と心に決めていたコンクールで銀賞を取ると、控え室で悲嘆に暮れている母親の背中に、
「……飲み物を買ってきます……」
と、声を掛けた。
母親はうんともすんとも言わなかったが、それが母と娘の今生の別れとなった。
――少なくとも次に母親が見た娘の姿は、以前とはかけ離れていた。身体はもちろん、その精神さえも。
母親は病院のベッドの横で泣き崩れた。
それは変わり果てた娘の姿のためだろうか、
それとも二度と歩けないと医者に説明されたためだろうか。
どちらかは分からないが、少なくとも娘はこう思っているようだ。
五トントラックの前に飛び出しても死ねないなんて、自分はどこまで運が悪いのだろう。
万木奈央子はそれでも自分の下半身に張り付いている両足を詰まらなそうに見つめると、季節が移ろい始めた窓の外の風景に視線を移した。




