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羽化登仙

 高梨冬子の所有する辞書には、蛍光ペンで重要な文字に赤線が引かれている。


 全体的に満遍なく赤線は引かれていたが、冬子に対する悪口だろう部分に重点的に引かれている。


 カマトト、高慢、傲慢、不遜。

 無論、自分で引いたのではないとここに宣言しておく。


 自宅用の辞書なので捨てはしないが、冬子は最近、赤ではなく、青色の蛍光ペンで好きな言葉に線を引く習慣を付けていた。


 羽化登仙(うかとうせん)

 比翼連理(ひよくれんり)

 鴛鴦之契(えんおうのちぎり)

 敬天愛人(けいてんあいじん)


 好きな言葉というよりは、今現在の心境に線を引いていると表した方が適切であろうか。


 夏休みのあの旅行以来、高梨冬子の辞書の「相思相愛」の欄は、折り目が付き、簡単に開くようになっていた。


 そう、冬子と卓弥は恋人になることができたのである。

 とてもめでたいことだった。

 子供の頃から恋い焦がれていた人と結ばれたのである。

 巷では初恋は実らないともっぱらの評判であるが、冬子は見事成就させたのだ。

 はしゃぐな、という方が無理な相談である。


 しかし、互いに愛し合っていたことが判明したとはいえ、冬子たちの関係は「順風満帆」ではなかった。


 ふたりの気持ちが一致していても、ふたりが結婚できる。あるいはそれ以前に恋人同士になれる、ということに繋がらないからだ。


 繰り返すが、高梨冬子は日本有数の財閥の御令嬢である。


 それに比べ卓弥はその財閥の当主に煙たがれている一介の高校生にしかすぎない。


 家族はもちろん、世間からも祝福されるような間柄ではなかった。


 冬子は仮にもし、あの日、別荘に行かず、互いの気持ちに気が付かなかったとしたら、どうしていたか、バスの中で問うたことがある。


 卓弥の言葉は明快で単純だった。


「官僚になる――。東大に入って国家一種に合格して、経産省に入って、政治家の娘と結婚して、立候補して、当選を繰り返して、大臣になって、賄賂を貰って、総理大臣になって、爺さんを、いや、高梨家を見返してやるつもりだった」


「高梨家に復讐するの?」


 周りには聞こえぬよう、小声で卓弥に確かめる。


「かもな……。その頃には爺さんはいないけど、君もいいおばさんになってて、誰かと結婚してて、君に似た美人の娘がいて、土壇場で復讐を思い止まるんだ」


「嵐が丘のヒースクリフみたいね」


 冬子は卓弥の目を見ずに笑う。


「もしくは、映画監督になって、白髪交じりになったふたりが車の中で逢い引きする、というエンディングも悪くない」


「……その話も最後は結ばれないでしょう」


 考えて見れば富豪の娘と庶民の男が結ばれるという作品は思いの外少ないような気がする。


 冬子は悔しくなったので、なんとかハッピーエンドの作品を思い起こそうとしたが、なかなか思い浮かばない。


「……あ、そうだわ。卒業がある。あれならハッピーエンドだわ」


「結婚式場に飛び込んで、冬子の名前を叫んで、君を連れ去るのか」


「そう、あれなら私たちの未来に相応しいわ。それにとてもロマンティックだし」


 冬子は見る見る上機嫌になる。あの映画のラストシーンに心躍らない女性などいないということだろうか。


 ただ、卓弥には別の見解がある。


 卓弥であるダスティン・ホフマンがヒロインであるエレンを(さら)うまでは確かに劇的であり、感動的でさえあったが、ドレス姿の花嫁の手を引き、バスの後部座席に座るシーンは何度見ても気が滅入るのだ。


 結婚式場から逃げ出してほっと一息付いているのだろうが、その草臥れた表情が、彼らの未来を象徴しているようで、どうも胸騒ぎを覚えるのである。


 しかし卓弥は大人であり、またお嬢様の扱いには慣れているので、そのことは口にせず。


「……君はエレンというより、スカーレット・オハラかな……」


 という微妙な表現をすると、バスの停車ボタンを押した。

 冬子は名残惜しげに卓弥の指を離す。


 恋人同士になれたふたりだが、帰宅時のバスの数十分という時間が貴重であることに代わりはなかった。


 冬子はいつものように振り返ることなくバスを降りる。

 いつか、この時間の希少性が薄れる日が訪れるのであろうか。

 この手に残る温もりをいつでも感じられる日が来るのであろうか。 

 




 冬子と卓弥が愛し合っていることを知っている人物は、この世に四人しかいない。

 当人たちを除外すればふたりしかいないのである。

 その貴重なひとりが卓弥の妹、木村美月だった。


 高梨冬子は木村美月の想いに気が付いていたが、あえて、いや、だからこそ卓弥と自分が愛し合っていることを彼女に告げた。


 隠し通せることではなかったし、それに美月には例え時間が掛かったとしてもふたりの想いを認めて貰いたかったからだ。


 美月はふたりから報告を受けると、一瞬、言葉を無くしたようだが、すぐに、


「……へぇ、そうなんですか。びっくりしました。でも、兄さんも冬子さんも美男美女なので、とてもお似合いだと思います」


 という言葉をくれた。


 心からの祝福ではないと、冬子などはすぐに悟ったが、しかし、形の上だけでも認めてくれるのはとても嬉しかった。


 高梨家からはもちろん、世間の目も誤魔化さなければならないふたりとしては美月の協力が不可欠なのである。


 実際、恋人同士になれたふたりだったが、デートは木村家のリビングのソファーと相場が決まっていた。


 万が一、仲睦まじくしているところを高梨家の縁者や学校の人間に見られでもしたらどうなるか、考えるまでもなかった。


 当然そうなれば、近所のレンタルビデオ店でDVDを借りることが多くなり、やたらと映画に詳しくなるのは避けようがない。


 レンタル店の棚をすべて借り切ったと豪語はしないが、めぼしい物は見尽くした、といってもいいだろう。


 しかし、冬子は別にそれを不満に思うことはなかった。


 例え久し振りのデートがDVD鑑賞だとしても、卓弥を挟んだ向こう側に彼の妹がいたとしても、卓弥と過ごす時間はとても貴重であり、充足感に包まれていた。

 その砂時計の砂の価値は黄金よりも希少なのである。


 ただ、少しだけ贅沢を言わせて貰えれば、高校を卒業するまでに一度、卓弥と大手を振るって街を練り歩き、ふたりでひとつのソフトクリームを分け合ってみたかった。


「なあんてね。でもいいの。卓弥と一緒にいられるだけで幸せだし、これ以上の贅沢なんて……」


 卓弥と恋人になったことでさえ望外であり僥倖なのだ。これ以上、何かを望んでしまえば罰が当たるというものである。


 しかし、卓弥は少女のそんなささやかな望みを果たしてくれる。それも完璧な形で。


 卓弥は隣県にできたというクラゲ専門の水族館のチケットをはためかせる。


「今度の水曜って、うちの創立記念日なんだ」


「でも、うちは休みじゃないわ。それに……」


「確かにそうだ。ずる休みはよくない。……でもさ、水曜日辺りに風邪を引くってこともあるんじゃないか?」


 卓弥はわざとらしく咳き込む。


「S女は冬子みたいな真面目っ子しかいないんだろ。まさか学校をふけてまでクラゲを見に来るような奴がいるとは思えない」


「連れて行ってくれるの? ほんとにいいの?」


 冬子の顔が華やぐ。


 問題はどうやって学校をふけるかだが、それもそんなに悩む必要はないだろう。真面目な冬子が一日くらい学校を休んだところで、不審に思うものはいない。卓弥が家人の声色を使って電話するという手もあるし、親戚である美月に伝えに行って貰うという手もある。

 

仮に問題があるのだとしたら、それは異常に興奮してはしゃぐ冬子をどう冷静にするかの一点に絞られるだろう。


 そこには学院一の才女という肩書きも、クールビューティーという称号もない。

そこにいるのは初めての遊園地に浮かれる幼児そのものだった。





日曜の昼下がり、高梨冬子はテラスで本を読んでいた。

 今日は卓弥と逢えない日だったが、冬子の機嫌は麗しかった。

 冬子の無聊(ぶりよう)を慰めていたのは、卓弥との思い出だった。

 先日の水族館、つまり初デートが想像以上に楽しかったのだ。


 卓弥と電車に揺られるのも初めてだったし、思う存分、手を繋いで外を歩くのも初めてだったし、一緒にお弁当を食べるのも初めてだった。


「クラゲの前でキスをするのもね……」


 冬子は声にならない声でそう口にすると、自分の唇に触れた。

 そんな冬子に話し掛けて来るものがいる。


「紅茶のお代わりは入りますか?」


 と、女中がシルバーワゴンを引いてやってきた。

 冬子が「そうね」と言うと、女中はカップに茶を満たし、レモンを添えた。

 ついで女中は楽しげに微笑む冬子に、機嫌の良さの秘訣を尋ねた。


 仮にこの空間が七年前にタイムスリップしたのだとすれば、女中のその行為に周囲の人間は震え上がっただろうが、もはやこの屋敷に「小さな暴君」と渾名された鬼姫は存在しなかった。


 卓弥がこの館に来て以来、この屋敷を理不尽に首になった女中はひとりもいない。


 ゆえに主の機嫌の良さを喜び、その理由を知りたがる女中も存在するというわけである。


「そんなに機嫌が良さそうに見える?」


「本日は一段とご機嫌麗しゅう御座います」


 あと、一ヶ月、ううん、三ヶ月はこの気持ちのままでしょうね、冬子はそう思ったが、口には出さず、代わりに、


「面白い本に出会うと、ついね」


 と、本の背表紙を女中に見せた。

 ついで逆に質問をする。


「あなた、学生時代にずる休みをしたことはある?」


 女中は質問の意図を計りかねたが、正直に答えることにした。


「ええ、はい。まあ、人並み」


「人並みってどれくらい?」


「年に一、二度でしょうか。ゴールデンウィークの谷間にずる休みして、家族で長期旅行に出かけたこともあります」


「そう、やはりみんなそんなものなのね……」


 実は、件のデートのあと、冬子は卓弥に、「月に一回はずる休みをしましょう」と提案をしていた。もっとも常識人である卓弥は言下に拒否したが、冬子はそれでも食い下がらず、「じゃあ、二ヶ月、ううん、三ヶ月でもいいわ」と提案したのだが、デコピンをされ相手にして貰えなかった。


 半年に一回くらいならば、卓弥は了承してくれるかもしれないが、残念なことに季節は秋に差し掛かろうとしていた。半年後にはもう卒業である。


 冬子は心の中で溜息を漏らす。


「――下がってもいいわ」


 と、大仰に命じる冬子に、女中は「言い忘れていました」と、前置きした上で、「御前様が夕食の前に大切なお話があると申しておりました。本日は外出なさらないようにしてください」と付け加えた。


「分かったわ」


 冬子は生返事をすると、再び視線を本に戻した。


 祖父の用件は計りかねたが、今日はどんなに逆さしても卓弥に逢えない以上、外出する気など一切起きなかった。


 こうして高梨冬子は本を読むふりをしながら思い出に浸るという行為にふけるのだが、それも一七時丁度に中断されることになる。


「御前様お呼びです」と女中がやって来たからだ。

 冬子は黙って頷くと、祖父の書斎に赴く。

 祖父はやって来た孫娘を一瞥すると、無言で写真を紫檀(したん)の机の上に広げた。

 そこには水族館で戯れる年若い恋人たちが写されていた。


 とても仲睦まじい恋人たちで、その輝く瞳からは、希望と未来という単語が溢れ出ていた。


 冬子は、


「私に似ているけど、他人の空似ね」


 とも、


「合成ですわ、お爺様」

 

 とも言わず。代わりに開き直り、自分がどれほど卓弥を愛しているか、切々と語り始めた。


 無論、祖父の耳に冬子の必死の懇願は届かない。


 代わりに学校以外への外出の禁止、車での通学を強要されると、携帯も没収された。


 当然であるが、卓弥への接見も固く禁じられた。

 冬子は唯々諾々とそれに従う。

 木村家の援助を打ち切る、と言われればそうするしかなかった。

 形だけでも従うそぶりを見せるしかなかったのである。


(……私は諦めないわ、絶対に)

 

 と、心に誓うまでもなく、冬子にとって卓弥への想いは心の一部ではなく、心のすべてになっていた。


 もはや卓弥を諦めるということは、人生を諦めることと同義なのである。


 冬子は長々と続く祖父の説教を右から左に流しながら、とある少女の心配をしていた。


 その少女も、あの日、風邪を引いて学校を休んだはずである。


 彼女は病の身体に鞭打ち、隣県の水族館まで訪れ、カメラマンまでこなしたはずだが、その無理が祟ってはいないだろうか。


 また、卓弥にこのことがばれ、兄妹関係がぎくしゃくしないだろうか。

 冬子は将来、自分の義妹になるべく少女に、心から同情をした。

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