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贖罪

 高梨冬子は過呼吸気味に肩で息をしている。


 まるでフルマラソンを走り終えたあとのようだが、彼女の過呼吸の原因は、生れて初めての暴力だった。


 十全かなえに花瓶を振り下ろし、殺してしまったのだ。


 そうするしかなかったとはいえ、まさか自分が人を殺してしまうなど、有り得ないことだった。


 そんな冬子の心情を察したのだろうか。


 ナナコは死体になったと思われたかなえの脈を取り、瞳孔を確認すると、

「大丈夫、元気とはいいませんが、生きているであります」

 と、宣言してくれた。


 髪を短くした少女は文字通り一息付くと、その場にへたり込む。

 しかし、そうなるとまた別の問題が発生する。


 殺人鬼が、冬子を殺したくて仕方ない女が、同じ館で息をしている、ということになる。何か対策を打たねば、命がいくつあっても足りない。


 しかし、その点もナナコに抜かりはない。調理場からタコ糸を持ってくると、それとスカーフでかなえを拘束し、椅子に縛り付ける。


 可哀想ではあるが、こうするしか方法は残されていなかった。


「しかし、想像以上に体調が悪そうでした。早く医者に診せないと」


「医者に診せる、か。つまり、一刻も早くこのゲームを終わらせるしかないということね……」


 ナナコは無言で頷く。


 本来なら、食料庫に赴き、栄養補給に走りたいところだが、コーラを一気飲みする程度で留め、ナナコたちはさっそく行動に移った。


 まずは厨房で座っている一華の下へ赴く。


 彼女は食堂で死んだはずだが、かなえがここまで移動させたのだろう。恐らく、腐敗させまいという配慮があったと思われる。


 狂っている、という評価は今も変わらないが、少なくとも死者をいたわる気持ちは残されているようだ。


 ナナコたちは一華の前で手を合わせる。ナナコが仏式で、冬子は洋式だったが、その気持ちに大差はなかった。幼気な少女の死を深く悲しんでいるのだ。


 最低限の儀式を終えると、ふたりで分担し、一華の衣服を脱がせる。


 痛々しいまでに痩せ細った背中に描かれていた数字は、一八七、順番は①だった。


「ナナコが八二だから、一八七八二ということね」


「……でも、これじゃあまだまだ何がなんだが」


 ナナコと冬子は顔を向かい合わせると、同時に頷く。

 次は一番最初に死んだ少女の部屋へ向かうことにしたのだ。


 一華の衣服を整えると、ナナコは、「一華殿、もう少しお待ちを」と言い残し、その場をあとにした。


 ナナコたちは駆け足で階段を駆け上がると、由佳里の部屋に飛び込んだ。

 室内は寒気で満たされている。


 これはナナコが窓を開けっ放しにしたためだ。やはり腐敗を恐れてのためである。

 由佳里の死体は冷凍保存までとはいかないが、文字通り芯まで冷え切っていた。


「この子、肌が変色しているけど、数字は読み取れるかしら」


 ナナコは多分、大丈夫でしょう、と口にしたが、自信はなかった。


「……大丈夫のようね」


 冬子はそう言うと、由佳里の数字を読み上げた。


「④番で、数字は一八だわ」


「ええと、①番が一八七、②番が八二、③番が不明、④番が一八、⑤番が不明、⑥番がイコールというわけですな」


「何か閃いた?」


「いえ、全然」


「やっぱり、全員分の数字が必要なんだわ」


「となると、やはり次はお春さんというわけですな」


 冬子は無言で頷く。

 その表情はどこか暗い。

 冬子は春がすでにこの世にはいないと思い込んでいるのだろう。


 ナナコは「そんな縁起でもない」と冬子をたしなめたかったが、それはできない。なぜならば、冬子よりも強く春の死を確信しているからである。


 十全かなえはナナコの顔を見た瞬間、確かに引き金を引くのを躊躇した。


 それはかなえ自身の背中の数字を確認するための手駒を殺すわけにはいかない、という意味があったのではなかろうか。


 そういった前提で作戦を立てたナナコではあるが、実際に的中しているとなると、やはり後味が悪いものである。春との付き合いは長いものではなかったが、ナナコは春の人当たりの良い性格が嫌いではなかった。


 ナナコと冬子は、無言で立ち上がると、暗黙の了解でそれぞれの持ち分を担当した。


 由佳里と一華の死体の場所は容易に想像が付いたが、春がいる場所はまったく分からなかったからである。ふたりで手分けをして館中をしらみ潰しにするしかない。


 ――一時間後、由佳里の部屋の前で再び顔を合わせると、互いの表情を読み取った。


「見つかりませんでした」


 と、宣言し合う必要もなく、成果がなかったことが分かる。

 だが、ふたりは慌てふためいたりはしなかった。

 まだ最後の部屋が残されていたからである。


 その部屋にふたりが立ち入らなかったのは、そこにすでに死体が安置されていたからだ。


 身元不明の男の死体――


 状況と経緯から、卓弥その人だと思われる死体である。


 ナナコは、

「自分が見てきましょうか?」

 と冬子を気遣った。


 だが、冬子はゆっくり首を振ると、ナナコの手を握りしめ、一緒にその部屋に入った。


 ――やはり、そこに田島春はいた。

 物言わぬ死体となっていた。


 腹は無残にも撃ち抜かれ、しかしそれで死ぬことも叶わなかったのだろう。部屋中をのたうち回った形跡がある。


 そして最後に自分の死を確信したのだろう。


 最後はせめて自分の愛する人の横で、そう思いながら部屋を這いつくばり、そこで息絶えた。


 冬子にはそのときの情景が思い浮かぶようだった。

 無言で春の隣に寄り添うと、恨めしそうに見上げている春の瞼を手で閉じた。

 そして己が信じる神に、春の魂の救済を願った。


 ナナコはそれを見届けると、背中は無事でありますように、と願いながら、血の乾いた衣服を捲り上げる。


 背中は血に染まっていたが、数字は確認できた。ナナコはほっとしながら、数字を読み上げる。


「③番目で、数字、いや、記号かな、プラスマイナスの+が描かれています」


「一八七八二+一八(ここがかなえの数字)=(イコール)が、暗号の答えになるわけね」


 冬子は男の死体を視界に収めないよう留意しながら、そう呟く。

 冬子は一応、これで分かった? と尋ねたが、ナナコは首を振る。


「まあ、あとは椅子に縛り付けているかなえの背中を見れば分かることだし、ここで推理をしていても始まらないわ。さあ、食堂へ戻りましょう」


 冬子はそう言うと真っ先に部屋を出る。

 やはり冬子はあの死体が恐ろしいのだろうか。

 愛する人の首なし死体など、凝視したくはないのだろうか。


 あるいは突拍子もない考えではあるが、あの死体を卓弥のものだとは思っていない可能性についてもナナコは考慮した。


「………………」

     

しかし、ここで考え込んでいても埒があかない。

 ナナコは冬子を追いかけるように食堂へ向かった。




 ナナコたちが食堂に入ると、彼女は盛大な拍手で迎えてくれた。

 もっとも、すでに片手がないので、擬音による拍手だったが。


「パチパチパチ、いやあ、おめでとう、数字を五つも読み取ったみたいだね」


 見ればかなえを縛り付けていた椅子は倒れている。


「タコ糸じゃなくて、荒縄と鉄球を調達して置くべきだったね」


「今からでも探してくる、というのは駄目ですか?」


 かなえは可愛らしく舌を出し、「駄目」と微笑んだ。

 次いでかなえは冬子に視線を移す。


「いやあ、それにしても見違えたよ、冬子ちゃん。あの少女漫画から抜け出てきたような黒髪をばっさりだもん。流石にお姉さん、びっくりしちゃったよ」


「……昔、あなたに貞子って言われたから、ちょっと気分転換に切ってみたの」


「で、その髪で即席ウィッグ、ああ、エクステって言うんだっけ? 昨今のジョシコーセーは。まあ、いいや、つまり付け毛を作って、ボクを惑わした、ってわけだ」


 かなえはそう言うと即席エクステンションを自分の髪に装着する。


「普段からいい物ばっかり食べてるから、最高級のエクステだね」


「そう、気に入ったのなら、あなたにあげるわ。良かったら使って」


 冬子がそう言うと、かなえは臍を曲げエクステを暖炉の火の中に放り込んだ。

 そしてゆっくりと銃口を冬子に向ける。


 今度こそ間違うことなく、ナナコの存在さえ目に入らないようだ。

 

「……ボクは君と友達になれると思っていた」


「思うだけなら自由だわ」


「……君となら卓弥をふたりで分けていいとさえ思っていた」


「私はそんな気、毛頭ないわ。今もね」


「……君が憎くて仕方ない」


「奇遇ね、私もよ、あなたが大嫌いだった」


「……君は死ぬべきだ」


「私もそう思うわ。でも――」


 冬子はそう言うと、一歩前に出て、自ら胸を晒した。


「死ぬのは少しも恐ろしくないわ。いいえ、むしろ今の私には喜びでしかない。できれば髪を元の長さまで戻したかったし、卓弥を殺した犯人を確かめたかったけど、まあ、言っても詮無いことね。さ、早く私を撃ち殺しなさい」


「……そうか。やはりそうか、君は卓弥の思い人など、鼻から興味はなかった。なぜなら、自分がそうであると確信していたから。君がこのくだらないゲームに参加し続けるのは、卓弥を殺した人間を捜すため、あるいは死に場所を求めて、というわけか」


 かなえはそこで言葉を止めると、自嘲気味に笑った。


「自信家の君らしいよ、ほんと。で、卓弥を殺した人間を見付けたらどうするつもりなんだい? 殺すのかい? それともそれだけじゃ飽き足らない?」


「………………」


 冬子は沈黙を持って答えるしかなかった。


「言い残すことは? 辞世の句でもいいよ? ……それもなしか……」


 冬子はかなえが期待したように慌てふためくこともなく、また、命乞いさえしなかった。


 冬子の死んでもいい、という言葉はその場を取り繕うものではなく、心の底から漏れ出た真実なのであろう。


 卓弥がいない世界などに未練がないのだ。

 一刻も早く卓弥と同じ場所に赴きたいのだ。

 では、なぜ早くそうしないのだろうか。

 彼女がクリスチャンだからだろうか?


 キリスト教徒は自殺が禁じられている。自殺すれば地獄堕ちると信じているのだ。


 あるいは、冬子は最初から卓弥の死に疑問を感じ、卓弥の敵討ちをする気でいたのだろうか。


 かなえは他人の心を知る秘術など持ち合わせていないが、後者こそ正解なのではないだろうか、と思っていた。


 自信家の、いや、激情家の冬子に相応しい生き様のような気がする。


 冬子は卓弥を殺した人間が誰か分かれば、見境なく攻撃を始め、その命を奪うことも躊躇しないだろう。


 ――例えそのものが猟銃を構えていたとしても。


「――仮にもし、……もしもだよ。もしもボクが卓弥を殺していたのだとしたら、君はボクを殺すかい?」


「……仮定の話に興味はないわ」


「だろうね……、君は昔からそうだ。未来を想像するのが、苦手な娘だった」


 かなえはそう言って微笑むと、ショットガンの銃口を裏返し、それをナナコに渡した。


 ナナコは驚いた表情を見せたが、「どうして?」とは問わなかった。

 その銃が無用の長物であると知っていたからだ。


「ナナコが弾を抜き忘れるなんて有り得ないからね」


「……弾は隠しました。この館にはもう物騒なものはありません。つまり、それは自分たちが再び協力できる、ということではありませんか?」


 ナナコは真摯な瞳で懇願したが、そんな瞳をされても、いや、そんな瞳だからこそ、今さら、投降などできなかった。


 かなえは隠し持っていた肉切り包丁を取り出すと、それを己の首筋に押し当てた。


「このゲームの勝者はひとり。つまりボクか冬子だ。今さら、仲良くなんてできないよ。それにボクの手はもう血で汚れている……」


 田島春のことを指しているのだろうか。かなえと春の間に何があったかは想像するしかないが、罪悪感にさいなまれているのは確かなようである。


「……最初はこの包丁で冬子を殺そうと思った。でもできなかった」


「友達、だからでありますか?」


 かなえはまさかと自嘲的に首を振る。


「あ、いや、ボクはそれでも冬子と友達だと思ってるけどね。冬子はどう思っているかは知らないけど……」


 冬子は微動だにしない。


「ただ、友達だから殺さない、友達だから憎まない、というのはなんか違うような気がするんだ」


 かなえの右手に力が込められる。首筋からは一筋の鮮血がこぼれ落ちる。


「ボクは友達だからこそ冬子を憎んでいるし、友達だからこそ冬子を殺したかった」


 じゃあ、なぜ、私を殺さなかったの?

 じゃあ、なぜ、そんな優しい眼差しをしているの?


 冬子の瞳はそう尋ねていたが、かなえからもたらされた答えはある意味とても残酷なものだった。



「君は生きるべきだ」



 その言葉には無限の意味が込められている。

 生きて苦しむ抜くべきだ。

 またあの鳥籠で捕らわれの姫に戻るべきだ。

 卓弥との僅かな思い出を糧に、好きでもない男との結婚生活に耐えるべきだ。

 そして毎晩、親友が首を搔き切り、苦しみ悶える姿を夢に見るべきなのである。

 それが彼女の、冬子の罪だった。

 ――十全かなえが架した贖罪だった。

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