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幼き日の冬子

 高梨冬子は祖父の愛情を一身に受けて育った。


 財閥を築いた父の溺愛した孫娘でもあったし、その孫娘が産んだ唯一の子供だったからだ。


 家祖である源三郎の遺訓で、雪子の血筋が高梨家を次ぐことになっているのだ。


 親戚中から敬われた、いや、媚びを売られながら育てられた、と言っても過言ではない。

 

 誕生日、クリスマス、桃の節句、子供の日、一族郎党は理由を見付けるたびに、冬子の下へ赴き、外国製の玩具や衣服を贈った。さながら子供部屋は小さな玩具店であり、クローゼットはブティックといったところか。


 冬子の子供部屋は世界中の幸せを詰め合わせたかのように煌めいていたが、物質で溢れてはいても、幸せで溢れていたわけでなかった。


 世の道徳論者が言うように、心は物質では満たせないのである。

 高梨冬子は感情を持て余すかのように、使用人に当たり散らしていた。


「なによ、これ」


 雇われたばかりの女中は小さな暴君の詰問に恐れおののく。


「す、すみません、わたし、外国のボードゲームなんてしたことがなくて……」


「私が言っているのはそんなことじゃないわ。どうして手を抜いたか聞いているの」


「そ、そんな、手なんて抜いては……」


 嘘だった。女中は確かにドイツ製のボードゲームなどしたことはなかったが、小学生に負けるほど知能が低いわけでもない。むしろ手を抜くくらいの目端は持っている。


 だが、冬子お嬢様はそれが勘に障るらしい。


「あなた、私が子供だと思ってばかにしているでしょう。私は子供扱いをされるのがこの世で一番嫌いなの」


 冬子はそう言うと女中をその場で解雇させた。


 冬子は彼女が就職難の中、やっと女中という職を手に入れ、家族に仕送りを送っていることも知っていたが、それでも翻意する気にはなれない。


 二度と顔を見たくなかったからだ。


 他の女中たちも、同情はしたが、

「お嬢様、どうかお情けを」

 と、身を挺して庇おうとするものはいなかった。


 ただ、「運が悪かったわね」と館を去りゆくものの背を見送った。

 実際、この女中は運が悪かった。


 この女中が全力を出し切り、冬子を負かしていたとしても、それはそれで、


「なによこれ、あなたいくつなの? 子供相手にむきになって恥ずかしくはないの」


 と、職を失うことは必定だった。

    

「奥様が入院なさると、冬子お嬢様は荒れる」


 とは暗黙の了解であり、ゲームの相手を所望された時点で女中の運命は決まっていたといえる。


 ゆえに冬子がボードゲームの箱に目を付けた瞬間に部屋から遠ざかったものがいたとすれば、そのものは如才ないといえるだろう。もっとも「冬子付きの女中」として雇われている以上、いつまでも小さな暴君から逃げ回っているわけにもいかないが。


 先ほどはなんとか逃げおおせた女中は、三時になるとシルバーワゴンにティーポットとスコーンを乗せ、冬子の部屋を訪れた。マーマレードとストロベリーとラズベリー、三種類の自家製ジャムを用意した理由は、今さら言う必要もないだろう。


 女中は最適の温度に冷ました紅茶に砂糖とミルクを入れると、冬子に差し出した。


 冬子はそれを受け取り、口に付けると、すぐにそれを離し、女中に話し掛けてきた。


 女中は次の職は何にしようか、紹介状は書いて貰えるだろうか、さまざまな心配をしたが、意外にもそれは杞憂に終わった。

 

「ねえ、あれはなにかしら?」


「あれ、で御座いますか?」


 見れば冬子は窓の下の景色を眺めていた。


 この館の庭はとても大きく、また手入れもされており、耳目を引くものに満ちあふれている。自分の目で確認しなくては、とても憶測で答えることは難しいが、今回に限り、冬子が指しているものを即答できた。


「ああ、あの少年と少女のことで御座いましょうか」


 子供たちのはしゃぐ声がここまで届く。


「そうよ、ここは高梨家の庭でしょう。部外者を入れてもいいの? 警備員は何をしているのかしら」


「あの方たちは部外者ではありません」


「部外者ではない? 親戚か何か? どちらにしろ高梨家は託児所ではないわ。すぐに追い出しなさい」


「はあ、ですが……」


 冬子の命令は絶対であるが、女中にもできることとできないことがある。


「しかし、あの子たちは冬子お嬢様の従兄弟で在らせられます。わたくし如きが追い出すことはとても……」


「従兄弟? 信昭叔父様の子供にあんな子たち居たかしら」


「あの子たちは(あおい)様の御子息と御息女で御座います」


「……葵?」


 冬子は聞いたことがないわ、と口にしたが、すぐに思い出した。


「ああ、お父様の末の妹ね。確か男と駆け落ちをして勘当されたと聞いたけど。……御爺様がお許しになったの?」


「いえ、お許しにはなっていません。今も敷居を跨ぐことはできないでしょう」

「じゃあ、なぜ、あの子たちはここにいるのよ」


「それは……」


 女中は言い淀んだが、結局、冬子に真実を話した。


「ふうん、母親に先立たれて、父親に棄てられたのね……」


 冬子は「可哀想ね」とは結ばず、代わりにこう尋ねた。


「で、まさかあの子たちをこの家に引き取るとか言うのではないでしょうね」


 女中は冬子の冷徹な言葉に今さら驚かなかった。


「はい、養育先が決まるまでは暫く……、ただ、御前様からは、使用人と同列に扱うよう言明されていますので、食卓で顔を合わせることも、ここに来られることもないでしょう。寝起きも使用人の部屋と同じ区画で御座います。ですから、お心を煩わせるようなことは決して」


 女中は思わず少年たちを庇う。


 少年たちがこの館にやって来てすでに一週間、幼い妹を健気に守る兄の姿は、女中たちの間で話題になるほどだった。


 冬子は、そんな女中の心を知ってか知らずか、いつものように血の通わぬ言葉を投げかけて来た。


「――それにしても五月蠅いわね。早くあの子たちを黙らせて」


「……畏まりました」 

 

 正直、女中は安堵した。即座に兄妹を追い出せ、御爺様にこのことを言う、などと言われたらどうしようかと思っていたからだ。


 親に棄てられ気落ちしている兄妹に静かにするよう諭すのは気が引けたが、追い出されるよりはましであろう、


 女中は深々と頭を下げ、庭に赴こうとしたが、それを遮るものがいた。


「ところで、あの子たち、何をしているのかしら?」


 見れば冬子は興味深げに窓の下を見下ろしている。


 どうやら彼女は「ダルマさんが転んだ」というポピュラーな遊びも知らないらしい。


 女中は「庶民の子供がする遊びです」と無難な説明をしたが、冬子は詰まらなそうに、


「そう……」


 と言うだけだった。


 翌日、華麗なる冬子お嬢様の絹のお召し物は、泥だらけに汚れたという。

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