肉塊
ナナコは言い知れぬ焦燥感に駆られていた。
今ほど美月のことを呪ったことはない。
もしかしたら木村美月という少女は、ナナコが考えていたよりも遙かに悪魔めいているのかもしれない。
なぜ、美月は最後の計量を二回と定めたのだろう。
なぜ、美月は計量の間に休憩タイムを挟んだのだろう。
なぜ、彼女はサンルームにあのような危険なものを置いておいたのだろう。
考えれば考えるほど美月の巧緻さ、その冷酷さに溜飲が込み上げる。
「杞憂であってくれるといいけど」
ナナコは先ほどから念仏のように心の中で唱えていた言葉を口にした。
もちろん、それは古代魔法文字ではないので、言語化した瞬間に願望を叶えてくれるわけではない。それを証拠にかなえは最悪の形でナナコの前に現れた。
青息吐息、立っているのが、いや、生きているのがやっとなのだろう。相棒のショットガンはもはや凶器ではなく、自身の身体を支える最後の拠り所となっていた。
だが、そんなかなえの苦労を無視するかのように美月は口を開く。
「どうか悔いの残らぬよう体重計にお並びください」
その言葉はかなえのみに向けられていることは明白だったが、かなえはすべて受け入れると、鉛のように重い舌を動かした。
「……ヘイ、美月ちゃん、相談があるのだけど」
「………………」
美月は沈黙を持って応えた。
「……んもう、相変わらず本筋以外、何も話してくれないね。でも、そんなプチ冬子みたいなとこがとてもキュートだよ」
「………………」
冬子もその軽口を丁重に無視する。
「じゃあ、ボクのお願いがOKなら沈黙を持って答えて、駄目なら上からタライでも落してよ。あ、このお願いはみんなにも関係あるから、心して聞いて」
かなえはそう前置きをすると、意外な提案を一同に示した。
「服を着て計量したい、ですって?」
声を上げたのは冬子だった。意外な提案だと思ったのだろう。当然だと言える。これまでの計量でもかなえは真っ先に肌を晒してきた。冬子辺りに言わせれば「露出狂」である。
それがこの期に及んで肌を隠したいなどとは、にわかに信じがたい。
それに付け加えれば服など着て計量しても、当人にはなんのプラスにならない。己の体重を羽毛のように軽くする天女の衣でも持っていれば話は別なのだろうが、どんなに凝視してもかなえはいつもの制服姿だった。
「別に好きにすればいいじゃない。あなた以外、誰も困らないわ。私はもちろん下着姿で計量させて貰うけど」
冬子の鶴の一言で決まった、というわけではない。誰も反対する理由がないだけだった。
ほぼ全員が賛成の色を見せたため、かなえの提案は了承された。
ちなみに賛成の意思を表示しなかったのナナコである。ナナコはかなえの制服の端に染みついた赤い色を見逃さなかった。
「あなたという人は――」
十全かなえはナナコの警告を無視し、禁断の儀式に挑んだようである。
十全かなえは悪魔に魂を売ったのだ。
このことをナナコは他の少女たちに知らせるべきだろうか。
ナナコは激しく心を揺さぶられたが、結局、口を開くことはできなかった。
かなえがした行為はルール違反ではない。いや、それどころか主催者が望む行動をしたにすぎない。もはやナナコは美月の悪魔性に疑いの余地を挟んでいなかった。
仮に今、ここでそのことを指弾し、かなえの計量を邪魔しても、彼女の決意に水を差す行為以外の何物でもない。ある意味、ナナコこそがかなえの悪魔になってしまうのだ。
ならば早く計量を終わらせてあげるというのが、親切心というものである。ナナコは一番疲弊している一華の肩を担ぎ、無言で計量を終わらせる。
他のメンバーもそれに習う。
一刻も早くこの悪夢を終わらせてしまいたいのだろう。
かなえの鬼気迫る表情は、この部屋にいるすべての人間に伝搬していた。
「ふう、大取りはボクか。いやあ、絶景かな絶景、十三階段の一二段目ってこんな風景なんだろうね」
かなえは体重計の前で一旦止まると、一同の前に振り返り、にやりと白い歯を見せた。
「みんな、ボクが負けると思ってるでしょ」
「………………」
「あらあら、冬子ちゃんまで黙っちゃって。沈黙はイエス派なんでしょ」
かなえは冬子に視線をやったが、冬子が視線を合わせようとしないので、吐息するとその視線をナナコに移した。
「ナナコちゃんはっと……、ふむふむ、やっぱりナナコちゃんだけか、ボクの一発逆転を信じてくれているのは」
全員の視線がナナコに注がれる。
ナナコは吐息を漏らす。この期に及んで時間を浪費するかなえに呆れたのだ。一刻も早く体重を量り、即座に水分と血となるような食糧を口にしないといけないのは、かなえ自身なのだ。ナナコは苛立ちを隠さなかった。
「さあ、もういいでしょう。自分は確かにかなえ嬢の勝利を信じていますよ。はっきり言ってしまえば自分は元から是が非でも勝とうと思っていなかった。だから、ここで勝ち抜くのはあなたが相応しい。さ、早く計量を――」
しかし、かなえはナナコのそんな忠告にも従わず、「ふふん、やっぱりナナコでもこの戦いの本質が分かっていなかったか」と鼻で笑った。
「本質、でありますか……?」
「そう、ナナコはもちろん、ここにいる全員が、このゲームは一番我慢強いものが勝つと思ってるでしょ」
でも、それは違うんだな、とかなえは上機嫌に続ける。
「このゲームの本質はそんな単純なことじゃないんだ。実はこのゲーム、誰よりもイカれてる奴が勝つようにできてるんだ」
それを証拠に、とかなえは冬子を指さした。
「冬子のダイエット法なんかも尋常じゃないよ。はっきり言えば狂ってる。一歩間違えたら死んでたよ」
当の本人は「ふんっ」とだけ漏らし、鼻を背ける。
次いで指をさしたのが一華だった。
「それに一華ちゃんも相当なものだ。いや、ボクたちを欺いていたことじゃないよ。その精神力と根性に賛辞を送りたいね。二週間も絶食して体中の水分を飛ばすなんて、狂気に足を踏み入れた人間じゃないとできないよ」
一華は項垂れるだけだった。
「かなえ嬢、いい加減にしてください。早く水分を口にしないと死んでしまいますよ。あなたは自分の血を抜いてこの場に立っているのでしょう。このままでは本当に――」
「こ、この女、自分の血を抜いたの……?」
冬子がその重い唇を開いた。
もはや誰もかなえの狂気を無視できなくなっていた。
「ええ、最後のプレゼントに、剃刀と瞬間接着剤が置かれていたんです。気が付かない人も多かったですが、あのプレゼント群には主催者の明確なメッセージが隠されていたんですよ」
「……剃刀で自分の血管を……、ま、まさか美月がそんなことを……」
「美月ちゃんがほんとの黒幕かは早計ですがね。ですが、主催者様は追い詰められた人間が禁断の果実に手を出すと読んでいたんです。剃刀で手首を切り、血を抜いたら接着剤で止血しろってね」
「……でも、大量に血液を抜いたら人間は死んでしまうんでしょ? あの女はぴんぴんしているとは言わないけど最低でも一五〇〇グラム近く血を抜かないとあなたに勝てないわ」
「そこなんです。そこが自分にも分からない。もちろん、血を抜くこと自体、狂気じみててもはや自分の範疇外ですが、かなえ嬢は医学の、いや、人体の常識を越えている」
「なんでそんなに血を抜いたのに、生きているんだ、ってこと?」
春はおそるおそる尋ねる。
ナナコは神妙な面持ちで頷く。
「ええと、出血多量の致死量は全血液のおよそ三分の一だっけ」
かなえは他人事のように応えると、
「趣味で探偵物の漫画を読んでて良かったわ」
と笑った。
「んで、人間の体重のおよそ八パーセントが血液だっけかな。合ってるかな、ナナコ」
ナナコは黙って頷く。
「ちなみにボクのさっきまでの体重は四四キロぐらいだから、その八パーセントは、ええとぉ、もう頭回らないな、くそ」
「およそ三.五二キロぐらいであります」
「そそ、それの三分の一無くなったらやばいんだから……」
「約一.二リットル、つまり一二〇〇グラム以上失われると、生命の危機に瀕します」
「え、それじゃ……」
春が不可解な顔をする。
「ナナコとかなえの差は一五〇〇グラムだわ。……致死量の血液を抜かないと勝てない」
「かなえさんはそんなに血を抜いたのに? それってやばいんじゃ」
「そうなんですよ、だから早く――」
慌てふためく少女たちだったが、それを嘲笑うものがいる。
渦中の人であるかなえだった。
「おいおい、さっきから聞いてれば、まるでボクが化物みたいじゃないか」
「……実際に化物でしょう。いくら勝ちたいからって普通致死量の血を抜く? 早く血を補充しないと」
「あのね、冬子ちゃん。だからボクはそこらを歩いてる女子高生と大差ないよ。血液を一五〇〇グラムも抜いたら死んじゃうって、いや、ぎりぎりの一二〇〇でも多分死ぬね。だってこの一週間なんも食べていないし、ほとんど水さえ飲んでいないんだよ? そんな状況でそんなに血を抜いて生きていられるわけがない」
その言葉を聞くとナナコは破顔する。
「じゃあ、馬鹿みたいな真似は……」
ナナコの満面の笑みも数秒の寿命だった。
かなえが思いがけない物をナナコに持たせたからだ。
ナナコは表情を引き攣らせる。
「バ、バーナー……」
確かこれは二回目のプレゼントのときに置かれていたものだ。
ナナコは結局、これの有効的な使い方が思い浮かばなかった。
「お春さんにはこれをあげよう」
かなえはそう言うと隠し持っていたノコギリを春に渡した。
困惑の色を隠せない春……。
だがそれとは対照的に、ナナコは小刻みに身体を震わせ始めた。
「……ま、まさか………、か、かなえ嬢………、あなたという人は………」
かなえは軽くウィンクをすると、「そ・の・ま・さ・か」と戯けて見せる。
「あ、あぁ、そうだ、実は冬子にもプレゼントがあるんだけど、怒らないって約束してくれる?」
通常時の冬子なら、無視するところだろう。
だがこの状況下では、「なによ」と言うのが関の山だった。
「怒らないって約束してくれなきゃやだ。いやだいやだ、ボク、いつまでも体重計に乗らないぞ」
冬子は歯軋りしつつも約束する。それしか選択肢が残されていなかったのだ。
「やっとデレ期到来かな。ま、別に危険や悪意あるプレゼントじゃないから安心して。むしろ一番心の籠もったプレゼントだよ。なんせ先ほど切ったばかりのホカホカだからね。まだ人肌だよ」
かなえはそう前置きすると、「はい、プレゼント」と言った。
その布に包まれた物体を受け取った冬子の表情は、意外にも無表情だった。
最初、それが何か分からなかったのだ。
冬子はすでに熱が失ったそれの感触ではなく、また乾き始めた液体でもなく、満面の笑みの少女の肩口を見て、それが何か悟ることができた。
それが何か察した冬子は、この場に最も相応しい謝礼の言葉を贈くることにした。
「――あなたが一番狂っているわ」
高梨冬子に手渡されたそれは、身体の一部だった。
かつてはかなえの肩に付いていただろうその結合部からは、黒く濁った汚泥のような血液がしたたり落ちていた。
十全かなえの一部だったそれは、もはや一遍の生気も孕んでおらず、こう呼ぶに相応しい物体になっていた。
――肉塊、と。
かなえは己の腕を切り落としたのである。




