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狂気

 一四日目、最終日である。


 この日の正午丁度に、この辛く長い戦い、無意味にして下らないゲームが終わりを告げる。


 勝者は一週間ぶりの食糧と水分に舌鼓を打つのだろうか。

 敗者は痩せ細った身体を抱え、泣き崩れるのだろうか。


 どちらになるかは分からないが、できれば勝者の側に立ちたいと思うのは贅沢な願いなのだろうか。


 かなえは正午三分前きっかりに自分の部屋を出た。

 途中、大きな欠伸が思わず出る。


「余裕ですな」


 と、道中一緒になったナナコは口にしたが、かなえは冗談じゃない、と思った。


 かなえの欠伸は単に寝不足のせいだったが、その寝不足は己の意志でもたらしたものではない。単に恐ろしくて眠ることができなかっただけだ。


 昨晩、目を閉じて寝ていたら、恐らくかなえは二度と目を覚まさなかっただろう。かなえはそんな恐怖に支配された夜を過ごしていたのだ。


 もちろん、そんなこと口に出せるわけがないのだから、かなえは作り笑いを浮かべると、しわがれた声でナナコに言った。


「ナナコもパンダになっているよ」


 見れば確かにナナコの瞳も窪み、陰ができている。血色も悪く、サナトリウムから脱走してきた、と嘘をついても過半の人間は信じるのではないだろうか。


 それはナナコだけではない。


 冬子も一華も、春でさえも、生きているのが不思議な面相と足取りで、食堂を目指していた。


 パンダとゾンビの行進、といった光景だったが、誰ひとり倒れることなく目的地に着いたのは賞賛に値するかもしれない。


 そこで麗しの美月嬢の玉音が有り難くも下賜される。


 一四日間に及ぶ努力を讃え、苦労を労う言葉に繋いだが、一同がもっとも聞きたかったのは次の言葉だった。


「最終計量は、一〇分後に行われます」


 一同はその短さに安堵するが、すぐに落胆もする。

 美月が一〇分後の計量のあと、もう一度計量すると宣言をしたからだ。


「どうして二回も計らなければいけないの?」


 春が代表して尋ねたが、美月はにべもなく、

「正確を期すためです」

 としか言わなかった。


 しかし、その鶴の一言で二回の計量が決まった。


「嬉しくて涙が出るでありますね」


 とはナナコの弁であるが、他の少女たちも心の中で同意した。


「さて、最後の計量でありますが、これが最後ですし、一刻も早く水を口にしたい人ばかりの筈ですから、ジャンケンで……」


 と、ナナコが提案していると、美月がそれに水を差すかのように発言する。

 いわく、体重測定は美月の指示した順番通りに行わなければいけないらしい。


 美月の指示に不満の声を上げるものはいなかったが、疑問の表情を浮かべる人間はいた。


(……今まで順番の指示は一切無かったのに、なぜ、最後に限ってそんなことを)

 そう思わざるを得ないが、従わざるを得ないのでナナコは最初に体重計に乗った。


「一五〇三グラム……」


 ナナコが呟いた数字が、この三日間の努力の結晶である。


 それに残り一一日の努力の証二六三四グラムを足すと、合計四一三七グラムである。他のメンバーの数値は不明であるが、ナナコ的には満足行く結果だった。正直、細身であるナナコがここまでの記録を出せたのは、偏にポーカーゲームの際に出された食事を誰よりも多く平らげたお陰であろう。ナナコは丈夫に産んでくれた名も思い出せぬ母と、うまい食事を作ってくれたシェフに感謝をした。

  

 次に体重計に乗ったのは見違えるくらいスマートになった田島春だった。彼女はもう見た目からしてダイエットの効果が現れている。特に胸回りは二週間前が「北海道はでっかいどう!」だったのに対し、今は「岩手は一番大きな県です」くらいの迫力になっていた。


 案の定、彼女の減量値の累計は四六五六グラムという好記録だった。

 続いて美月に指名されたのは、冬子だった。

 彼女は覚束ない足取りで体重計にのぼる。


「ちょっと、あの娘、顔色やばすぎない」


 とは、春の囁きであるが、ナナコもそれには完全同意だった。

 冬子の顔色は土褐色で、死人のそれとほとんど変わらない。


 冬子は初回八一七グラム、二回目が一六八二、三回目が四一六、四回目が五〇四、そして最後が一四四四グラムと、好記録を連発してきたが、それがあの顔色に結びついているのだと推測できた。


「冬子嬢は夜中になると必ず舘の外に出ていましたよね」


「そうなの? 気が付かなかったけど」


「出ていたのですよ。自分も何をしているか、訝しがったものですが、先日やっと何をしているのか推察することができました」


「へえ」


「冬子嬢は外に出るとき、必ず空の水筒を握りしめていたのですが、どうやら館に戻ってくるときは、その水筒が何かで満たされていたようなのです」


「この吹雪の中、何かを入れに行ったとでも言うの? 雪ならともかく、まさか近くに養老の滝でもあるとかいうんじゃないでしょうね」


「ですから雪を詰めていたんですよ」


 春は「ずこっ」と自分で擬音を発しながら身体を蹌踉めかせたが、ナナコの推理を聞くと、顔を真っ青にさせながら問い返した。


「……つまり、冬子はこの吹雪の中、雪を取りに行っていたというの? そしてその雪を使って身体を冷やしていた……」


「恐らくは」


 春は、そんな馬鹿な、とは言わなかった。冬子の顔色と累計値の五〇六八グラムという数値がその言葉を封じたのだ。


「雪を食べて身体を冷やしたのか、湯船に浮かべて熱を奪ったのか、もはやダイエットとは言えない苦行ですが、彼女はそうして体重を減らしたのでしょうな」


「ダイエットには水泳が一番だと言うけど、あれは水の負荷もそうなんだけど、水温によってカロリーが奪われることも大きいらしいわ」


「水は体温をダイレクトに奪いますからな。例えば九〇度のサウナには人間、長時間入っていられるものですが、九〇度の水には数秒も入っていられません。水というのはそれほど温度を伝達しやすいのです」


 春は氷風呂に浸かる自分の姿を想像して身震いがした。

 そしてそこまでする冬子には、賞賛の念よりも純粋に恐怖を感じた。

 このような感情を人は「畏怖」と呼ぶのかもしれない。


 春の心の中で、「魔女」というあだ名が付いた少女の計測が終わると、次に名が呼ばれたのはかなえだった。


 彼女の足取りも冬子に負けず劣らず辿々しいが、顔色は幾分か穏やかだった。

 残念なことに、それが結果となって現れる。


 モニターに映し出された数値は一〇三三、今までの累計の六〇パーセントに及ぶ高数値だったが、累計値の一五〇七を足しても暫定三位のナナコに一五〇〇グラム以上離されている。


 これで勝負は一華とかなえに絞られたわけである。

 一同は誰ひとり意外な顔はしなかった。当初の想像通りだったからである。


 この勝負、最初から削るところが少ないふたりの一騎打ちになると、当人たちを含め全員が予見していた。それが現実になっただけである。


 何ひとつ意外さはなかったのだが、最後に久留里一華が体重計にあがると響めきが起こる。


 想像していなかった数値がモニターに映し出されたからだ。


 彼女の今までの累計は、一一六六グラム、正直、予想通りで、断トツの最下位でもあった。だがどうだ、一華はこの三日間で、今までの累計の四倍の減量に成功したことになる。


 彼女の一四日間の累計減量値は、五五六六グラム、圧倒的と思われていた冬子さえも凌駕していたのだ。


 一華の元の体重は三八八九九グラム、そこから五五六六グラムを削ぎ落とすと、三三キログラムしかないのだ。これは一〇歳児の平均体重よりも少ない。一華は二週間で四歳以上若返った計算になるが、この部屋にいるもので彼女を羨むものはいない。


 それほどまでに彼女の身体は痛々しかった。


 正直、身体からは女性らしさがなくなっていたし、立っているのもやっとといった風体は正視することができない。


 それは本人も気が付いているのだろう。


 一華は好記録を出し、勝利が確定したというのに、喜びの表情さえ見せることなく、無言で食堂の椅子に腰掛けた。


 そうなれば自然と視線は彼女の元に集まる。

 このゲームの敗者の元に……。


 無論、まだ確定したわけではない、一時間後、最終測定のときに確定するのだが、かなえを除く全員が、最終測定は不要では、と思っていた。


 無論口にこそ出さないが、やはり表情には表れてしまうものである。

 露骨に傷心を慰められる言葉も気にいらなかったのだろう。

 かなえは、この部屋に残る全員に聞こえる大きな声で、こう宣言をした。


「トイレに行ってデカイのを落としてくるよ。一キロくらい捻り出せばボクもまだまだやれるさ」


 その手の言葉を嫌う冬子の耳にも入ったはずだが、彼女は一言も発しなかった。

 敗北が定まったものに鞭打つ気にはなれない。冬子の背中はそう語っているように見えたが、かなえはそれを完全に無視した。






 かなえはサンルームに赴くと、持てるだけガラクタを抱え、それを自分の部屋に運んだ。


 刃物類も気にせず抱え込んだものだから、腕から血が出ていたが、一向に気にした様子もなく部屋に運び入れる。


 部屋に運び入れ、鍵を掛けると、かなえは文字通り一息つき、次いで偽ざる気持ちを吐露(とろ)した。


「さあ、どうしようか」


 かなえは抱えてきたガラクタに視線をやる。

 最初に目が言ったのは下剤だった。


 先ほどの女子高生とは思えぬ発言とリンクする薬剤であるが、かなえはそれを口にする気にはならなった。すでに数日前から服用し、もはや効果がないと分かりきっているからだ。


 かなえは下剤を投げ捨てた。


 次に視線が移ったのは干し椎茸である。ここ数日、お世話になりっぱなしの恩人ではあるが、かなえはその恩人もベッドの後ろに投げ捨てた。もはやかなえの口内は乾ききっており、僅かばかりの水分も出ることはないだろう。


 ならば――

 と、かなえは最終手段に目をやった。 

 そこにはT字剃刀が置かれていた。


「多分、これで体毛を剃れってことなんじゃ」


 春の言葉が真っ先に浮かんだが、かなえは結局実行しなかったのだ。

 億劫だったわけではない。単にかなえには剃る体毛が残されていなかったのだ。


 体毛の薄い体質を呪ったが、全身の体毛を剃ったところで何グラムになるというのだろう。


 かなえは馬鹿馬鹿しく思い、首を振るが、その視線が鏡の前で止まる。

 鏡の前まで歩みを進めると、かなえは、ふとこんなことを考えてしまう。

 髪の毛って何グラムあるのだろうか、と――


 馬鹿げた考えであるのは分かっていた。仮に三〇〇グラム前後あったとしても、それだけでは到底、四位のナナコにさえ及ばない。


 坊主頭になった上、敗者にもなる。

 これほど惨めなことが他に在ろうか。

 何度も言うが、かなえはどうせ死ぬにしても女らしく死にたかった。

 女を捨ててまで生き延びたくなかった。


 だから、毛先を数センチ切り、「枝毛を切ったんだ」と強弁する以外、何もしなかった。


 何もできなかった。

 しばし鏡を見つめていると、かなえはあるものに目が止まった。


 先ほど、ノコギリを抱き上げたときについた切り傷である。そこから薄く血が広がっていた。


 かなえはそれを指でぬぐい取ると、口に含む。

「……しょっぱい」

 血の味がしたが、少しも恐ろしくは感じなかった。


 そもそも女と血の付き合いは古くて長い。月に一度は顔を合わせる仲なのである。

 そう思えば忌避する理由などないのだ。 

 不意にナナコの言葉が脳に響き渡る。


「馬鹿なことは考えるものじゃありませんよ」


 彼女はそう言ってかなえの前から瞬間接着剤を隠した。


 瞬間接着剤は、実は傷を塞ぐのに有用なのである。医療用の瞬間接着剤もあり、医療用とそうでない物の差は実はほとんどない。


 かなえの視線が当然のようにT字剃刀へ向く。その表情はまるで玩具をねだる幼児のように純粋だった。


 かなえは己の欲求を満たすため、剃刀を手に持つ。


「……四位のナナコとの差は一五六七グラム…………」


 かなえは徐ろに剃刀を手首に添える。

 痩せ細った手首からは浮き上がった血管が脈動していた。


「……人間の血液の量はおよそ体重の八パーセント……、そして……その三分の一が致死量……」

 

 かなえの愚挙を制止できる人間はこの部屋にいなかった。

 それが神の采配なのだろうか。

 ならば神とはあまりに無慈悲で残酷な存在なのかもしれない。

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