一華と美月
――木村美月は久留里一華の友人だった。
否、親友と言ってもいいかもしれない。さらに付け加えるならば、唯一のという枕詞が相応しいであろう。久留里一華の短い人生において友人と呼べる存在は、彼女ひとりだけだった。
それでは人物名詞を逆にすることは可能だろうか。
――久留里一華は木村美月の友人だった。
一華は改めて黒髪の少女を見つめる。
とても綺麗な黒髪だ。ありきたりの表現を用いれば、カラスの濡れ羽色というのだろう。一華はこんなにしなやかで艶やかな髪の持ち主を、TVCM以外で見たことがない。
長さも特筆に値する。普段は結い上げ子供っぽい髪型をしているが、ほどきあげれば腰のある髪が背中を覆い隠し、お尻の辺りまで覆い隠す。
大体、ほとんどの女の子は少女漫画や童話の影響で、小学校高学年辺りまではこれでもかと髪を伸ばすものである。
だがやがて現実と幻想のギャップ、入浴後の手間、朝の一分の貴重さを身を持って体感することになり、妥協と未練を繰り返しつつ、凡庸という名の終着駅へ向かう。
一華も同じだった。
母親が娘を着飾るのが好きだったため、子供の頃は腰まで伸ばしていたが、やがて母親も本人も面倒になったのか、今では肩までしか頭髪がない。ただ、最近は密かに伸ばし始めているが。
美月に触発された、と言えば話は早いのだが、正確ではなかった。美月のとある言葉に突き動かされたのだ。
「兄さんはああ見えて髪の長い女性が好きなんです」
「え、でも前に聞いたときは、似合っていればショートだろうがロングだろうが、構わないって言ってたけど」
「兄さんはいい格好しいですからね。辺りの障りのないコメントを言わせたら、当選六期目辺りの世襲議員といい勝負をするでしょう」
「……そうかなあ」
「わたしの言葉を疑うなら、今度、兄さんと街を歩くとき、兄さんの視線を追うといいです。前から黒髪の女性が歩いてくれば、顔の造形に関わらず、必ず視線を向けるでしょう」
「…………」
「さっきからわたしが兄さんの悪口を言っているように聞こえる?」
一華は「わあ」と身体を揺らす。思いがけない言葉に戸惑っているのではない、美月が俯く一華の顔を覗き上げて来たため、驚いてしまったのだ。
「一華、そんな顔してた?」
「していた。一華の憧れの人の悪口を言うなんて許せない。きぃ、この小娘め!! 先生の妹じゃなきゃ、生爪を剥いであげる、そんな顔している」
「ど、どんな顔ですか」
「まあ、今、わたしが心不全で倒れても救急車を呼ぼうか三〇秒くらいは迷うでしょうね」
でもね、と美月は続ける。
「あなた、大きな勘違いをしているわ」
「勘違い?」
「そう、勘違い。あなたはわたしが兄さんの悪口を言っているように聞こえたかもしれないけど、わたしにとってはあれは悪口じゃないの。むしろ褒め言葉よ。わたし、兄さんのそういうところが好きななの。ううん、大好きなの」
「…………」
「いい格好しいのところも大好きだし、フェミニストを気取ってるところも大好きだし、平然と嘘をつけるところも好きなの」
それに――
無言で美月を見つめている一華の髪をすくい上げるように触れると、最後にこう嘯いた。
「こんな可愛らしい天使の心を虜にしてしまう罪深いところなんて、ぞくぞくしてしまうほどに愛おしいわ」
木村美月が久留里一華のことをどう思っているかは、定かではなかったが、少なくとも「友人」かそれに類するものだとは思ってくれているようである。
それを証拠にほぼ毎日、LINEのやりとりは在ったし、月に数度は顔を合わせ遊びの真似事のようなことをしていたからだ。
それは互いの好きな人が一緒であると判明したあとも一緒だった。いや、あれ以降、それまでにもまして美月と仲良くなれたような気がした。
付き合い始めて分かったことだが、木村美月は相当変わった女の子だった。
トーク内容こそたわいない女子中学生の交換日記そのものだったが、実際に会って遊ぶことといえば――
「一華さん、勇気王カードは好き?」
「勇気王カード? 小学校のとき、よくクラスの男子が昼休みにやっていたあれですか?」
「そうアレ」
「今でもよく路地裏でやっている子がいますね。うちのクラスでもまだやってる子はいるみたいですが、流石に学校に持ってくる子はいないです。で、勇気王がどうしたんですか?」
「好きか嫌いかを聞いているの」
真剣に尋ねる美月に少し驚いたが、一華も言葉を選び、真摯に対応することにした。
「ええと、触ったこともないので、好きか嫌いかと問われても。でも、嫌悪感はありません。男の子たちがあんなに夢中になるのだから、きっと楽しいんじゃないでしょうか」
一華は当たり障りのない言葉でお茶を濁したつもりだったし、別段、そのときは深くも考えなかった。ただの茶飲み話の種と理解したのだ。美月は女子校に通っており、共学に通う一華に男子の流行でも聞こうとしたのだろう。
そのときはそう思ったのだが、まさか翌週、一華が訪れると、件のカードゲームを手渡されるとは夢にも思っていなかった。
「や、やり方なんて分かりませんよ」
と声を上げる一華の背中を物理的にも精神的にも押すと、
「わたしが教えてあげる」
と、「でゅえるすてーじ」なる場所へ誘う。
そこで、
「蒼眼の究極破界龍」「暗黒魔術師」「天空の猛禽獣」「七枚羽の堕天使」など、一度聞いただけでは、否、何度聞いても覚えられないような言葉を連呼され、されるがままにデッキを手渡される。
結局、その日の「デュエル」は美月の満足行くようなものではなかったようだが、美月の勇気王ブームはそれなりに続くことになる。
美月の奇行はそれだけに留まらない。
彼女は普通の女学生が興味を抱かないこと、つまり男の子の遊びを特に好んだ。
血豆ができるくらいにバッテッィングセンターに通っていた時期があると思えば、
「知っている? 完璧なナックルボールを投げられれば、中年のサラリーマンだってメジャーリーグで二桁は勝てるんですって」
と、一華をキャッチャーにしてナックルボールの練習に励む時期もあった。
「だから、女子中学生でもマスターできれば、……やっぱり無理ね。日本人のプロでさえ投げられないんだもの」
美月はボールとグローブを投げ捨てると、一華の手を取り、
「秋葉原へ行きましょう」
と、にこやかに言った。
一華たちの住むK県からは近いとはいえ、一華は一度も秋葉原に行ったことはない。
特に行く理由がなかったからだ。
家電製品は今やどこにでも売っている上、ネットで購入した方が安いという御時世である。わざわざ県境をまたいでまで行くようなところではない。
それに仄聞するところによると、秋葉原はもはや家電の街でなくなって久しいらしい。
所謂ヲタクと呼ばれる人たちの聖地になっており、一介の女子中学生である一華たちが近寄るべきところではないのだが、一華は美月にうながされるまま、秋葉原デビューを飾る。
――それもコスプレなるものまでされて。
聞いたこともないようなアニメのキャラの格好をさせられ、色々な人から携帯で写真を取られるのは恥ずかしかったが、美月は気にした様子もなく、秋葉原の街を闊歩する。
それに男の人しか入りそうにない、マニアックな店に入ったり、外国人観光客に積極的に話しかけたり、とにかく、思い出すだけでも恥ずかしくなるような真似をいくつもさせられた。
美月は気にする様子もなく、一華を奇行へと誘うが、ある日唐突に意外な言葉を口にしてきた。
一華は思わず「え?」と問い返してしまった。
まさか美月の口から、
「スティールドラゴンのLIVEに行きましょう」
などという言葉が出てくるなど、夢にも思わなかったからだ。
美月の口から出てくる言葉の多くは、
「横浜対ヤクルトの試合を見に行きましょう。どうせガラガラで詰まらないけど、発情したカップルが乳繰り合う姿は後学になるわ」
とか、
「ロボットアニメのBDBOXを見ましょう。コメンタリーも聞くから、一日作業になるわ」
とか、女子中学生の食指や琴線に触れない提案ばかりだったからだ。
もっとも、スティールドラゴンのLIVEに行こう、という提案も意外なものではあったが、実は一華の興味をさほど刺激はしなかった。
スティールドラゴンとは、最近人気が出てきたロックバンドのひとつで、若い女性を中心に人気がある。所謂、インディーズ系バンドの系譜という奴で、もうじきメジャーデビューすると、クラスメイトの女子が騒いでいた記憶がある。ちなみに本人やファンの前でインディーズ系やらスティドラやら呼称すると機嫌を損ねて帰ってしまうので注意だ。
「美月ちゃん、スティドラのファンだったんだね。意外、演歌しか聴かないと思っていた」
美月は一秒で一華を蹌踉めかせる。即座に否定したからだ。
「もう! じゃあ、なんでLIVEに行こうなんて言うの。また一華に変な格好をさせて、何かやらせる気なの?」
「変な格好はさせるけど、コスプレじゃないわ。これを着て貰う予定」
「なんですかそれは……」
美月が端を掴んで披露している服は身体の線がはっきり出る大人びた服だった。
「これを着てLIVEに行きましょう」
一華は暫く考え込んだが、結局は断ることにした。
「いやよ、そんなに露出が多い服を着て行くなんて。大体、LIVEって大抵夜からなのよね? パパとママが絶対に許してくれないよ。第一、子供だけでLIVEハウスに行っても、入り口で追い返されるような気がするんだけど」
美月は一華の言をすべて肯定した。
美月自身もこんな趣味の合わない服に袖を通すのは嫌だったし、一華の両親がLIVEに行くために外出許可をくれるとは思っていない。さらに言えばLIVE会場はお子様御禁制なことで有名な硬派なLIVEハウスである、お子様だけはもちろん、保護者同伴でも駄目なことは明白だった。
「それに第一、わたしはインディーズ系バンドが自転車に乗りながらスマホを操作してる奴と同じくらい嫌いなの」
「じゃあ、なんで行くの」
と、一華は口に出さなかった。とあることに気が付いたのだ。
一華と美月の付き合いは決して長いものではなかったが、一華は美月の行動原理を熟知できるまでになっていた。
美月が野球に興味を持っているのは、卓弥が野球が好きだからだし、先日、恥ずかしいゲームを買いに行かされたのも明らかに卓弥の影響があった。タイトルに「お兄ちゃん」と付くなど、それ以外考えようもない。
カードゲームやアニメはいまだに意味不明だが、恐らく卓弥が好きなのだろう。会話の端にこそ登ったことはないが、別段、珍しい趣味でもない。
そして卓弥にはもうひとつ、趣味があったはずだ――
いや、こちらの方が本命なのかもしれない。
彼の部屋は七〇年代八〇年代のロックスターで埋め尽くされていたし、指には特有のタコができるほど熱心に練習もしているらしい。
一華の家庭教師のアルバイト代で、ギブソンのビンテージを買った、と自慢している姿も見たことがある。
「――ちなみに先生は今日どちらに?」
気分は時代劇の越後屋だ。
「ふふふ、臨時のバイトが入った、と言っていたわ。LIVEハウスに行く、ともね」
「一華、聞いたことがあります。スティドラは暫く活動を休止していたのだけど、その理由が、ギターが脱退したからだって」
「ちなみにスティドラのボーカルの人は、兄の知己なの。前々から誘われていたらしいわ。お前が入ればグルーピーがさらに増えるって。そして活動再開したということは――」
もはやこうなれば、魚心に水心、以心伝心である。
ふたりは美月が用意した服に着替えると、互いに化粧をし合った。
「一華さん、バットマンに出られるわ。キャットウーマンではなく、ジョーカーとして」
「美月ちゃんこそどこかの部族みたい。ちょっとこのモップを持ってみて、あはは、槍みたい」
コントに出てくるようなけばけばしい女がふたり誕生したわけだが、今のふたりは丁度良いのだ。別に美しくなろうとメイクをしているわけではない。要は年齢不詳という称号が得られればいいのだ。しかも悪い意味で。
一華と美月は胸に詰め物をすると、LIVE会場へ赴いた。
もちろん、どちらも保護者の許可無く。
件のLIVEハウスは繁華街の外れにあった。
商業地区と大人の街の中間にあるような立地で、時間が時間ならば客引きが溢れかえるような場所だ。
だが、意外なことにそこに溢れかえっていたのは、一華たちと同じ世代の少女たちだった。
まだ日が落ちていない時間帯、というせいなのかもしれない。
「馬鹿ね、あの子たち、このLIVEハウスがお子様厳禁って知らないみたいよ」
美月は軽くほくそ笑む。
「でも、前に並んでる子たち、ノーチェックで入っていきますよ。子供厳禁なんて建前だけみたい」
「そうね、あの子たちが入れるなら、子役時代の安達祐実や大橋のぞみだって入れるわ。楽勝ね。でも、油断せず、作戦通りに行きましょう」
美月は軽く目配らせする。
一華が頷くと、丁度、入室確認のスタッフがもぎりをするため、チケットと身分証を求めてきた。
「あら、身分証ね、ちょっと待って、免許証があるから」
(ど、どこでそんなものを!?)
美月は身分証を差し出すと、大人っぽい声を意識しながら、一華に話し掛けた。
「はぁ~あ、最近の政治は最悪ね。小泉政権の頃はとってもよかったわ、そうよね、律子」 一華は慌てて美月に合わせる。
「そ、そうね、姉さん。で、でも、いち、いえ、あたしは中曽根のときが一番かな」
「あら、風見鶏政権とは渋いわね、浮沈空母万歳、プラザ合意万歳、ってね」
「…………」
美月は沈黙しているスタッフから免許証を取り上げると、
「行かせててもらうわ」
と、モンロー張りのウィンクをし、LIVEハウスに入ろうとした。
一華もそれに習う。
だが、スタッフは慌ててそれを制止する
。
「ちょ、なによ、離しなさいよ!! わたしたち大人よ。二四歳の大人なの。前に入っていった子なんてどうみても中学生じゃない、早く行って注意してきなさい」
騒ぎを聞きつけたのだろう、辺りにいたスタッフたちが一華たちの周りに集まってくる。
美月はそれでも諦めが付かないのだろう。執拗に抗議するが、スタッフのひとりが口にした魔法の言葉により、急激に力を奪われることになる。
「今日はティーンズLIVEだよ。一〇代限定なんだ」
結局、一華と美月はLIVEハウスに入れず引き返すことになるのだが、翌日、卓弥から「昨日、頭の変な女の人がLIVEハウスに来て一悶着あった」という言葉を聞いてさらに気分をげんなりさせた。
さらに追い打ちを掛ける。
スティールドラゴンに新規参入したギタリストは卓弥ではないらしい。
それを証拠に卓弥はあの日以来、LIVEハウスに通うことはなかった。どうやら昔のバイト仲間から急なヘルプを頼まれ、一日だけスタッフを引き受けただけらしい。
その事実が少女たちの心を慰めたか、余計に沈めたかは定かではないが、一華はひとつだけ確実に言えることがあった。
このような馬鹿騒ぎなど、親友と呼べる存在としか体験できないということだった。
こんな無意味で馬鹿げたことなど、『今しか』できないのである。
一華はなんだか、美月がとても愛おしくなり、彼女を抱きしめたくなった。そしてすぐにその願望を現実のものにする。
美月は一華の突飛な行動に驚くも、いつも通りのクールな表情で言った。
「や、止めなさい、は、恥ずかしいでしょ」
「いーや、だって美月ちゃんは一華の親友だもん」
一華はそう言うと美月の頬にキスをした。
彼女は気が付いているのだろうか。
一華の思いに――
彼女は感じているのだろうか。
一華の心に――
久留里一華は、頬にキスをしただけで顔を朱色に染め上げる美月が好きで堪らなかったが、同時にこうも思っていた。
「――はやく死んじゃえばいいのに」
木村美月は気が付いているのだろうか。
久留里一華の愛憎が入り交じったこの感情に――




