一華の過去
その生き物は脂っこいものが大好きだった。
カラアゲには大量のマヨネーズを振りかけたし、ラーメンには必ずバターと牛脂をトッピングした。
ペットの飼い主である女性も、ペットの健康よりも、ペットがいかに幸せそうに食事をするかしか関心がないようだった。
それを証拠にカラアゲとラーメンと寿司を平らげた生き物に、ホットケーキを差し出す。
大量のホイップクリームにメイプルシロップ、チョコチップがトッピングされたそれは、スイーツと呼べるような代物ではなく、もはや砂糖と油脂の固まりでしかなかったが、ペットはそれを数分で平らげると、皿まで綺麗に舐め取った。
ペットの飼い主は、そんな食事を日に四度、一日も怠ることなく続けさせた。
無論、運動などさせない。ペットが嫌がるようなことは一切させないのだ。
飼い主にとってペットは愛情を与えるべき存在で苦痛を与えるなど想像さえしたくないのだ。
飼い主は一四年間、一日たりとも手を抜くことなく、ペットに愛情を注ぎ込んだ。
その成果が、この球状生命体だった。
ラードの固まりだった。
生き物はもはや霊長目ヒト科ヒト属よりも、毬藻やある種のほ乳類を想起させた。
極度な肥満体のため、雌雄の判別も困難であるが、その頭髪の長さとリボンなどの装飾類から察するに、恐らく牝だと思われる。
学校に通っていれば丁度、中学生であるが、ペットはこの数ヶ月、登校をボイコットしていた。
ペットにとって学校とは尊厳を傷つけられる場所であり、放課後は惨めにそれを復習する時間でしかないのだ。
ならば行かない方が良いのである。給食は不味いし、量も少ないのだ。
飼い主にそのことを伝えると、飼い主はふたつ返事で了承した。彼女はペットの言うことならなんでも聞いてくれるし、ペットが嫌がることは決してしなかった。
しかし、いくらペットが嫌がるとはいえ、教育を放棄するのは気が引けるのだろうか。
飼い主は生き物が臍を曲げないよう留意しながら、家庭教師を付けるよう提案をした。
ペットは最初、難色を示した。
勉強するのが嫌という気持ちもあったが、それ以上に見ず知らずの他人とコミュニケーションを取るのが嫌で仕方なかったのだ。
家庭教師も客商売であるから、ペットの容姿をあからさまに蔑むような真似はしまいが、心の中で嘲笑われるのは想像するまでもなかった。
結局、同意したのはなぜだろうか。
後年、自身でもそう問い返すのだが、現時点では心の奥底にあった両親への罪悪感がそうさせた。あるいは丁度そのとき読んでいた少女漫画のおかげ、としか説明しようがなかった。
生き物は、愛読書に出てくる白皙の美少年を指さし、この漫画に出てくる人が家庭教師になってくれるなら勉強してもいい、と言い放った。
絶対に用意できないとたかをくくったのだ。
両親はペットのそんな無茶ぶりもあっさりと解決させた。
数日後、顔合わせで初めて見た少年、
彼の魔法が、ペットを人間の女の子に変えた。
久留里一華の初恋の人、木村卓弥である。
一華が卓弥を気に入ったのには、三つの理由があった。
一に、一華が好きだった漫画の卓弥に似ている、という点だ。カロリーと睡眠にしか興味がないように見える一華もやはり女の子で、人並みに異性に興味があるのだ。
二に、話が楽しい、という点だ。実は一華はそれなりに勉強ができる。正直、家庭教師など不要で、今までに手配された家庭教師もどきもすべて三日以内に解任してきた。でも、卓弥は今までの家庭教師と違い、まず一華に不足している部分を補おうとした。実はそれが第三の理由にも繋がるのだが。
卓弥は家庭教師二日目に、一華とその両親の前でこう宣言した。
「娘さんは太りすぎです」
青天の霹靂だった。
自分でも少しぽっちゃりしているかな、と気が付かないでもなかったし、遠回りに指摘されたことはあったが、こうもはっきり面と向かって言われたのは初めてだったからだ。
それは両親も一緒らしい、特に一華を猫っ可愛がりしている父が激怒した。
血管が怒張し、顔の傷から流血しそうなほど、顔を真っ赤にさせる。
「若造がぁ!! お前にうちの娘の何が分かる!! 石を抱かせてS湾に沈めてやろうか!?」
一華の父は血気盛んなことで有名な某コンサルティング会社を経営しており、日々、舎弟企業や捜査四科と熱い闘争を繰り広げているのだ。
「お、落ち着いてください、お父さん」
「じゃかぁしぃッ!! 貴様に父呼ばわりされる所以などありゃせんわッ! さては貴様、うちの娘を狙っているな!? もう、勘弁ならねえ、その青白い首、へし折ってくれるわ」
父親の暴走を止めたのは、初めて父親をぽかぽかと殴りつけた一華だった。
「あいたたッ、てめぇ、何しやがる、亭主に向かっ……って一華……」
そう言って振り返る父親は絶句した。
初めての反抗期に戸惑ったわけでも、娘の意外な行動に驚いたわけでもない。
娘の泣き顔を見てしまったからだ。
一華は「先生をそれ以上虐めないで」と言うと、その場にへたり込んだ。
「お、お前、泣いているのか? そ、そうかッ、こいつがお前のことをデブなんて言うからだな、畜生、俺の娘を傷つけやがって!?」
「違うッ!! 違うの!! だからパパ、もう止めて」
「い、一華」
卓弥の首筋三ミリ手前のところで包丁が止まる。
「一華は嬉しかったの」
「嬉しかった……? 太っているって言われたことが、か?」
父親は娘の顔を覗き込むように問うた。
一華は鼻水混じりに首を縦に振った。
「だって、そんなことを面と向かって一華に言ってくれる人は初めてだった。先生だけだった。パパやママはもちろん、クラスメイトだってそんなにはっきり言わなかったもん」
「そ、そりゃあ、お前は太ってないからだよ」
「嘘よ、パパは私がデブだって思ってる。だってパパの会社の人が、一華のことをぽっちゃりって言ったとき、パパ、あの人に怒ったでしょう? あのあと、あの人、指に包帯巻いてたもん」
「……いや、ありゃ、その……」
沈黙を貫いていた少年が重い腰を上げた。
「あ、あぁ、うーん、一華ちゃん、多分、それは一華ちゃんのお父さんとその人が喧嘩したんだよ。一華ちゃんは知らないだろうけど、人の指って案外繊細で、人を殴ると折れちゃうことがあるんだ」
「……若造」
「喧嘩?」
「そう、多分、一華ちゃんを傷つけられたと思って、かっとなっちゃったんだ。多分、今もそう。一華ちゃんのことが本当に可愛いから、少し過敏になっているだけですよね?」
卓弥はそう言って父親に目配せする。
意を察した父親は、愛想笑いを浮かべながら、「おうよ」と言った。
この一件で、卓弥は父親の信任を得、家庭教師就任日数の新記録を更新することになり、さらに「跡目」やら「娘婿」という言葉が会話の端々にのぼることになるのだが、ともかく、その日がカロリーと怠惰への決別となる。
卓弥が立てたダイエット計画は、理想的なものだった。
別段、一華を鶏ガラやスーパーモデルにしようというわけではないのだ。
卓弥は、
「女の子は少しくらいぽっちゃりの方が可愛いよ」
と前置きをすると、軽い食事療法と適度な運動を提案した。
日に四度五度の食事を三度に改め、マヨネーズの量を減らし、牛脂とバターを取除き、コーラをダイエットコーラに換えさせ、スイーツの量を三分の一にさせた。
「ゆっくり食べれば、その分、お腹が膨れる」
卓弥はそうアドバイスすると、家に招いてくれたこともあった。
そこには(一華から見れば)鶏ガラみたいに痩せ細った少女がいて、妹だと紹介してくれた。
「うちは飯どきにTVは見ないけど、よく妹と会話するんだ。今日は学校でこんなことがあったとか、映画とか小説の話とか」
一華はその日、会話も食卓の一部だと悟った。父親は忙しく、特に夕食は一緒に摂ることができなかったし、母親と食事をしても料理の味以外、会話の種が見つからないのだ。
「いいなあ、美月ちゃんにはいつも一緒にいてくれるお兄さんが居て」
一華はぽつりと漏らしてしまう。
「一華さんはひとりっ子なのですか?」
一華は大きく首を振る。
「ううん、歳の離れたお兄ちゃんがひとりいるよ。……いや、居た、かな」
「居た……、ですか?」
「うん、何年か前にパパと喧嘩して出ていっちゃったの。パパ、私には甘いけど、お兄ちゃんには厳しくて……。立派な跡継ぎにしたかったらしいけど、今じゃ、先生を跡取りにするって意気込んでるよ」
一華は少し冗談めかしながら、
「だから美月ちゃん、卓弥先生を貰ってもいいかな」
と、軽い気持ちで言ってみた。
美月は冗談に笑うでもなく、簡潔に一言で切り捨てた。
「駄目です」
その日、美月は一言も口を聞いてくれなくなったが、その後、一華と美月は友人と言えるようになるまで仲良くなることができた。スマートフォンのアドレス帳に友人という項目を初めて埋めることができたのだ。




