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美月と冬子

 クイン・マギサという名の少女の名が囁かれるようになったのは、今年に入ってからなのか、それとも昨年からなのか、定かではなかった。


 存外、学年が入れ替わるたびに受け継がれる類のたわいない都市伝説のひとつかも知れなかったし、あるいは昭和の時代より学生達の間に語り継がれるような由緒ある伝奇のひとつなのかもしれなかった。


 ただひとつ言えることは、木村美月が彼女の名を頻繁に耳にするようになったのは、この一ヶ月のことで、彼女の名が季節外れのインフルエンザのように、女子中学生の間に広まっているということだった。


 その日も、美月は級友たちから、まるで時候の挨拶のように彼女の名を聞いた。


「ねえねえ、美月ちゃん、クイン・マギサ様って知っている?」


 もちろん、答えはイエスだ。この数日、彼女の名を聞かない日はなかったし、第一、目の前の少女は三日前も寸分違わぬ台詞を美月の前で繰り返していた。


「あれ? そうだっけ? 色々な人に話してるから忘れちゃったよ。でも、美月はあまり興味を示してくれなかったよね? だから、また聞いてるンだと思う。うん、そうだそうだ」


 美月のことを友人だと思っている少女、桜子(さくらこ)は毎日のように繰り返している口上を飽きもせず繰り返した。


 いわく、マギサ様はすべてのJCの守護天使であり、守護聖人。

 道ならぬ恋に苦しむ少女、唯一の味方。


 彼女の不思議な力によって恋が成就したカップルの数は、一〇〇を下らないともっぱらの評判である。


「薔薇組のA子いるでしょ? あの子、T先生にお熱だったけど、一週間前についに告白したんだって」


 桜子は聞いてもいないのに「え? 告白が成功したかですって?」と独り掛け合いをする。


「もちろん、成功したに決まっているじゃない。彼女、何ヶ月も前からマギサ様の試練に耐えて、加護を受けられたんだもの。失敗するなんて有り得ないよ」


「それって加護ではなく、単にT先生もA子さんのことが好きだっただけじゃ……」


 美月は反論したことを後悔した。彼女の気を悪くさせたと後悔したのではなく、マギカ様に興味があると誤解されてしまうと思ったからだ。


 その杞憂は現実のものとなった。


「ふふーん、やっぱりそう反論すると思った。ですよねー、ピチピチのJCから告ってNOと言える男なんてそう多くないよね。つうか、Tって前の学校でも生徒に手を出して首になったって噂だし。でもさ――」


 桜子は続ける。


撫子(なでしこ)組のS子さんはどうかな? 彼女のお相手はなんと実のお兄さんだそうよ」


「実の……兄……?」


「あ、そういえば美月もお兄さんいたよね。それも格好いいお兄さん。あ、美月もまさかお兄様にホの字かー? このこのブラコンめ」


「……まさか、そんなわけないでしょう。漫画や小説じゃないのだから」


 美月は理性を総動員させ、やっとの思いで口を開く、ここで怒気を発するのも、沈黙するのも、肯定するようなものだったから。


「あらあらー、じゃあ、美月ちゃんはどんな恋をお望みかなー。若い教師とのアバンチュール? 妻子持ちのダンディなおじ様と燃え上がるような恋? イケメンテロリストと愛の逃避行というのも定番よね。あ、それとも女子校伝統の女同士の百合? きゃー、お嘆美」


「……別に」


 美月は興味なさげにそれだけ口にすると、歩調を早め、桜子に背を見せた。


 くだらない会話はここまでとの意思表示だが、今後、このような会話に発展しないよう最後に釘を刺すことにした。


「そういえば桜子さん、あなたには言っていなかったわね。実はわたし、レズなの。だからあまり同性愛を茶化したりしないで。それとわたし、ちゃんと相手もいるし、その娘とはうまくいっているから、そのナントカ様とやらに頼るつもりなんて、これっぽっちもないから」


 美月はぽかんと大口を開ける少女を尻目に、悠然と学園への門をくぐった。

 




 S女子学院は、いわゆる、お嬢様学校である。


 県下はもちろん、日本中から良家の御令嬢を集めているような私学で、資産だけではなく、家柄も入学基準のひとつに定められていると、もっぱらの評判だった。


 実際、美月のクラスはそれらしい少女で溢れている。


 政治家、官僚、経営者、地主、著名人、マルキスト風に言えばお金に働いて貰っている人たち、プロレタリア風に言えばブルジョワな人たち、その子女ばかりが、その制服に袖を通していた。


 もちろん、例外もある。


 医者や弁護士など、素人でも多忙を想像できる職種の保護者もいるし、中には中産階級の子供も散見される。この国は外国ほど階級が固定化されているわけでもないのだ。


 しかし、例外中の例外は木村美月その人ではないだろうか。

 実は彼女の父親も会社を経営している。


「まあ、美月さんのお父様は会社を経営されてるのね、どんなお仕事をされてるの?」


 ことあるごとにこんな質問をされる。彼女たちにとって親の職業は、クリスマスケーキの上に乗っているチョコレート菓子の有無よりも大切なことなのだ。


「フランチャイズ経営よ」


「すごいわ、飲食店かなにか?」


「いいえ、家族よ」


「……家族?」


「そう、家族。父はわたしが幼い頃に家族を残して出て行ったの。そして余所の街でまた家族を作って、また別れて、それを数年置きに繰り返して。ね、フランチャイズみたいでしょう?たぶん、四八都道府県を制覇するつもりじゃないかしら」

「………………」


 木村美月という少女は正直者であるが、利口ではないようだ。美月がこのクラスで、いや、学園で孤立している責任は本人に帰せられるべきであろう。


しかし、この学院に彼女のことを虐めるような生徒はひとりもいなかった。


 金持ち喧嘩せず、とは恐らく正しい格言であるが、虐めとはどんな組織にも自然発生する悪弊である。この閉鎖された学院でも例外なく発生していたが、不思議なことに美月がその標的になったことは一度もなかった。


 別段、美月自身が陰湿な生徒たちをはね除けて来たわけではない。

 また幸運に僥倖が重なったわけでもなかった。


 単に現生徒会長にして、学園の理事の孫娘でもある高梨冬子の従姉妹に手を出すほど愚かな生徒がこの学院にはいなかった、というだけのことだった。


 学院に多額の寄付をしている冬子の祖父の権力を恐れている、という側面も確かにあった。だが、生徒が冬子を畏怖するのは何も権力だけではない。


 彼女自身のカリスマが、生徒達に畏敬の念を抱かせるに十分なのだ。

 眉目秀麗、容姿端麗、冬子を褒め称える四文字熟語に悩むことなど有り得ない。


 冬子が制服の着こなしを少し変えれば、一週間後にはそれが全学年に伝搬したし、冬子が読んでいた小説が近隣の本屋で売り切れになるのは事実ではなく、もはや常識だった。


 別に見目の麗しさだけが彼女の人気の源泉ではない。


 才色兼備、つまり彼女の頭蓋骨の内側も尊敬を集めるのに一役買っている。


 冬子の学力に比肩しうるものは、特待生としてこの学院に入学したグループだけだろう、と言われている。実際、テストごとに張り出される上位者のリストの中に彼女の名が入っていなかったことは一度もない。


 花も恥じらう十代の少女が溜息を漏らしてしまう容姿、

 文武両道、学問にも運動にも優れ、

 凛とした面持ちで生徒会の仕事も完璧にこなす。

 そしてなにより、男との浮ついた噂がない、というのが決定打なのかもしれない。

 高梨冬子は女子校育ちの雛たちにとって、格好の偶像なのだ。

 その冬子お姉様が目を掛けている子羊を虐めてなんの特があろう。


「つまりわたしは冬子さんに守られているのかしら――」


 時折、そう考えてしまう。

 木村美月は高梨冬子のことが、嫌いではなかった。

 幼き頃、一緒に遊んで貰ったこともあるし、今現在も美月によくしてくれている。

 美月が冬子の従姉妹であると流布したのも冬子だった。

 当初、美月はそのことを誰にも話さなかった。


 真実みがなかったし、話す必要がなかったということもあるが、心のどこかで冬子に負担を掛けたくない、という気持ちがあったのかもしれない。


 高梨財閥の御令嬢と零細フランチャイズ店経営者の娘に血縁があるなど、世間の人間は知らないに越したことはない。その手の世界に無頓着な美月でも、それくらいの道理は理解できるのだ。


 だが冬子は、庶民の生活しか知らない異邦人の教室へやってくると、美月の髪に軽く触れ、こう宣言をした。


「この子は私の従姉妹、……いえ、妹なの。慣れない学院生活で不自由をしていると思うけど、皆さん、どうかよしなにしてあげて」


 そして深々と頭を下げる。

 この貴婦人に頭を垂れさせることができる人間が、この世に何人いようか。


 美月は他人事のようにその光景を見たが、クラスメイトたちは単純に憧れのお姉様の言葉に舞い上がっていた。


 不意に美月の頬が赤くなる。

 冬子との血縁を羨むクラスメイトの言葉に気をよくしたわけではない。

 単に昔、姉も欲しかったと母親にだだをこねたことを思い出しただけだった。

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