プロローグ
鏡の中に少女がいる――
年の頃は一六、七といったところだろうか。
見目は麗しい。
その白い手で頬を伸ばしたり、鼻の穴を広げたりしているが、それさえやめれば美少女と形容してもさして文句は来ないほどに容姿が整っていた。
ひょうきんな子なのだろうか。
否、それは違う。
少女は単に興味本位で、取れるパーツでもないか探しているにすぎない。
ならば可哀想な子なのだろうか。
否、それも違うはずである。
いや、可哀想なことは可哀想なのだが、ベクトルが違う。
多分に同情されてよいのはその奇行ではなく、状況であった。
ひるがえってみて彼女の周囲を見渡してみよう。
屋内である。
さして広くない。ただ狭くもない。日本人的感覚でいえばやや広いかもしれない。
映画でしか見ないような調度品に囲まれている。
小じゃれたチェストに、作りの良い椅子、天蓋付きのベッドなど、まさに映画のセットそのものである。
先ほどから少女が凝視している鏡からして、アンティークショップなどで売られているもので、ヘタをしたら新車が買えるほどお高いに違いない。
そんな御大層な部屋に滞在しておいて薄幸の少女を気取るなど千年早い、というお叱りを受けるかもしれないが、残念ながらこの部屋は少女の物ではない。借り物である。
借り物でも羨ましい、と、なおも食い下がる人がおられるかもしれない。
もしもそのようなことを言う人物がいたら、喜んで代わって貰いたいくらいだった。
さて、今度は視点を部屋全体から、部屋の中央に置かれたテーブルに移してみようか。
そこに少女の不幸を証明する三つの証拠のうちのひとつが置かれている。
招待状、と日本語で書かれた便箋。御丁寧にも蝋で封印された上にペーパーナイフまで置かれていた代物だ。まったく、しちめんどくさいことをする差出人である。
木村卓弥の妹よりと書かれた手紙には、どうしてここに招待されたか、聞いてもいないのに懇切丁寧に書かれており、少女がこのゲームから抜け出せない理由も同じくらいの分量を使って細かく記載されていた。
悪趣味であり、迷惑千万でもあるが、実はこの不幸の証明も残りふたつに比べたら、ほんのささやかなものでしかない。
どこの誰だか分からない人物に拉致され、部屋に閉じ込められる以上の不幸が、この部屋に内在しているのだ。
少女はゆっくりとふたつ目の証拠に目をやった。
正直、あえて今までその証拠を視界に入れないよう奮闘していたのだが、現実から逃避するにはあまりにもこの部屋は狭すぎた。
少女が立ちすくむ場所とは対極の位置、テーブルを挟んで丁度向かい側に、安楽椅子はあった。
彼は安楽椅子探偵でも気取っているのだろうか、先ほどから一言も発することはなく、美少女が同じ室内で過呼吸しているというのに、彼女が排出した二酸化炭素で肺を満たそうとはしない。それどころか視線をこちらに向けようともしないのだ。
「失礼しちゃうなあ」
少女はそう口を開きたかったが、結局口にはできなかった。口が渇ききっており、開くことさえかなわなかったからだ。テーブルには水差しが見えたが、口にする気にはならない。
それに例え口を開くことができたとしても、彼の耳には届かないのだ、そんな無駄なことをする気力は今の少女にはない。
有りていに言えば、安楽椅子の主には耳がなかった。さらに言えば目がなかった。とどめを言えば口がなかった。要は首から上がすっぽり抜け落ちていた。
おそらく、安楽椅子の男は死んでいるのだろう。首から上が無くても生きていられる人間など少女は知らない。
「……奇術師や手品師という可能性も」
そう考え、勇気を振り絞ろうとしたが、首の切断面のリアルさに気後れしたのは言うまでもない。
それに深く調べる必要もなく、少女はそれが本物であると確信していた。
なぜだか分からないが、そんな気がするのだ。
さて、ふたつ目の不幸の証明はいかがであったろうか? この現状を鑑みて少女の境遇を羨む人間など、もはや存在しないと思われるが、それでも代わっていただけるのなら、今すぐこの場に現れて欲しいものである。
え? 三つ目の証明は何かって? もちろん、お答えするのはやぶさかではないのだけど、それに答えるのはこの状況を代わってくれる人物が目の前に現れてからにしたいと思う。
死体より質の悪い秘密を内緒にして、交渉するのはアンフェア?
まったくもってその通りなのだけど、そんなことを言われたら、四つめの不幸が鎌首もたげて待ち構えていることを言い出しにくくなってしまうではないか。
先ほどから断続的に聞こえる悪魔と死に神の狂想曲は、どうやら少女の空耳ではなかったようである。
安楽椅子の後ろ側にある重厚な扉、最初は紳士的なノックと誰何だったが、少女が無視をすること三〇分、今では野獣の本性むき出しの打撃音へと変わっている。
扉の奥の声の主が明らかに女だったので、たかをくくっていたが、ドアノブを勢いよく回す音が、体当たりに変わった辺りから、少女の背中に冷たいものを走らせていた。
それでも女ごときにこの重厚な扉が破れるはずはない。
映画などでは丸太の棒などを複数人で抱えて、扉を打ち破るのだが、流石にそれは女の細腕には無理というものである。
「……ふふふ、女の身に生まれた不幸を呪うがいい」
現実逃避とはいえ、その台詞がよくなかったのかもしれない。
聞こえるはずもないその独語はなんらかの超常現象で室外に漏れ、扉の外の女にやる気を出させてしまう。
そんな非科学的な夢想をしてしまうほど、恐ろしい発言を耳にしてしまったのだ。
「どいて――さん、隣の部屋で――を見つけたんだ」
さて、ここで閑話休題――
マスターキーというものを御存知であろうか。
そう、よくホテルなどにある緊急用の鍵で普段は慎重に保管されている代物である。
この洋館と思われる建物にも実はそれがあったのだ。
この洋館にあるマスターキーはとても大きく、重さも二キロくらいあるであろうか、しかもとても高性能で、この建物だけではなく、ありとあらゆる扉を開けてしまう魔法の鍵といえた。
ちなみにこのマスターキーという言葉の語源は米軍や警察にあり、ショットガンでドアノブをぶち抜いて進入する比喩だと教わることになるのだが、それも少女が目を冷ましてからのことである。
扉が蹴破られるのと同時に、少女は気を失ってしまうからだ。
その炸裂音に驚いたのか、緊張の糸が途切れてしまったのかは分からない。
しかし、自分も女の子らしいところがあるのだな、少女は薄れいく意識の中でそう思い、少し微笑ましくなってしまった。