3.動き出したその日の事
目が覚めた時、視界の中に女性がいた。
ビクリと驚きに体が反応する。
一瞬誰だ? と思ってしまったが、すぐに記憶が昨日へと繋がる。
そこから彼女が神崎さんだとわかったのだが、無表情の美人侍女が傍に立っているというのはちょっと心臓に悪い目覚めだった。
「お、おはよう、神崎さ、神崎」
「おはよう御座います主様」
彼女はそんなこと気にしないとばかりに深く礼をする。
それがその日の始まりだった。
「さっそくですが、朝の準備をさせていただきます」
「うん、でもどうしようか、俺は動けないんだけど……」
昨日よりは僅かにましになった気がするが今も顔が僅かに動かせる程度だった。
「何も心配いりません。お世話させていただきます」
そう言うと彼女はこちらに近づき『失礼します』と一言断るとひざ裏と背中に手をまわして俺を軽々と抱き上げた。
「うわ!? 」
急に浮き上がる体に驚きで声が出る。
抱き上げられている。しかしこの体勢は……。
「お、お姫様抱っこ!?」
「はい、洗面所にお連れします、しばらくの間ご容赦ください」
「わかる、わかったけど、これは恥ずかしいよ!!」
自分が子供になっているのは理解したが、これは来るものがあった。
彼女の柔らかく大きな胸が左半身全面にあたっているし、顔は彼女の奇麗で白い顔の真横。
いろんな意味で頬が熱くなる。まともにいられない俺は運ばれるまま顔を赤くしてうつむくばかりだった。
その間にヒビの入った部屋を初めてでて、洗面所まで向かう。
羞恥でボロボロになった本能を無視して理性がなんとか駆動して廊下を眺めるが、そこも部屋と同じようなヒビだらけの通路だった。
廃墟の病院とでも言えばいいのか、基本白い壁にひびが入りポツリポツリと明かりが生き残っているが、それが逆に風景を寂しがらせていた。
そんな廊下を彼女は迷うことなく進み洗面所までやってきた。
自動ドアが開き鏡が並ぶそこに入る。
そこで初めて自分の顔を見るが、まさしく子供のままの外見。顔は前世と違い、ずいぶんと可愛らしい顔になっていた。年の頃は十歳くらいだろうか。明かりに照らされた髪は黒く輝き、顔は紅顔の美少年、さらに抱き上げられたままのせいで頬がさらに赤い。しかしその下の肌は白かった。
そんな鏡を見ている間に、彼女は椅子に俺を座らせて、朝の準備をしていった。
水を出して、丁寧にすくうと俺の顔をその細く柔らかな手で流し、歯を磨くのもしゃかしゃかと上を下をと一言づつ告げながら磨いてくれる。
全ての準備が終わったら恥ずかしながらトイレにも連れていかれて……彼女に手伝ってもらうしかなかった。
しかし、トイレに行くときもお姫様抱っこと言うのはさすがに……羞恥で死ねるかと思った。
そんな恥ずかし体験をしたのち部屋に戻り朝食となる。
今日の朝食もご飯に味噌汁、海苔に焼き魚と和が溢れる内容だった。
「いかがでしょうか?」
焼き魚の身をほぐしながら彼女が聞いてきた。
「うん、美味しい。絶妙な焼き加減だと思う」
ゆっくりと箸につままれたそれが口に運ばれる。
名前も知らない魚だけど、とても美味しかった。
そんなまったりとした朝食も終えた今、リハビリを開始する。
「ゆっくりとで構いません。どうぞお手の方をお預けください」
寝台に座ったまま彼女にむけて手を伸ばそうとするが、僅かに動く程度だった。
そんな腕を彼女が優しく持ち上げて動かしてくれる。
右手が終われば左手、順々に体を動かしていく。
彼女に触れられて動かされるたび、ちょっとずつだが、体が動き出していく。
「新しく生まれた体ではありますが、寝たきりだったというわけではありません。動かせばそれだけ反応してきます」
「なるほど」
丁寧に丁寧に、体が彼女に触れられるたびに暖かくなる。
足もぶらりぶらりと振れる度に力が入っていくのが分かった。
「なんだかもう歩けそうだ」
「ご注意を、お手をこちらに」
彼女に両手を預けたまま、俺は寝台から立ち上がろうとする。
軽く彼女に引いてもらった手のおかげで立ち上がることが出来た。
「やった! 」
「さすがです主様」
まだ小鹿のように足がプルプルと震えているが確かに立った。
そして一歩、また一歩と足が動き出す。が。
「ありゃ!? 」
唐突に足がもつれる。
「主様! 」
倒れる! そう思った瞬間彼女に受け止められた。
抱きすくめられるように彼女の腕の中に倒れ込む。
ぼふりと顔が柔らかな胸に埋もれ体全体が彼女の腕の中に収まった。
「う、……あ、ありがとう」
とりあえず冷静に礼をいうが、柔らかで甘い匂い。
そんな胸に包まれ埋まった顔からはぐぐもった声しか出なかった。
「当然の処置です、お怪我はございませんか? 」
それでも彼女は普段通り聞き分け、その声音を変えることなく返答する。
「だ、大丈夫、神崎は大丈夫? 」
「何も問題ありません」
優しく肩を押されて立たされる。
ちょっと惜しいと思いながらも素直に足を踏ん張る。
「まだ、早いみたいだね」
「それでも一日でこれだけ動けるようになったのはすばらしいことです」
「そう? ありがとう」
「礼は不要です。侍女ですので、これからもお手伝いいたします」
「うん、お願い」
そういって手をつかんでもらって歩行訓練に勤しんだのだった。
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人は動くと汗をかく。
いや、人間生きていれば汗をかくわけで。
「今日はこのくらいに致しましょう」
「うん、そうだね、結構疲れたよ。思った以上に汗もかいたし……」
「それではお風呂に入りましょう、準備をして参ります」
「うん、お願い……うん? 」
俺はいたって普通に返事をした。
それを聞いて頷く彼女、そして楚々として一礼すると部屋を後にした。
何か間違っているだろうか?間違っていない。いないはずだが脳内を警告音が緩やかに鳴り出していた。
そんな俺が待つことほんの二、三分、彼女は戻って来た。何も変わらない、和服にエプロンすがたという侍女服で。
しかし警告音はどんどんひどくなっていた。もしくは……。
「それではお連れします」
「お、お願い……」
いくら歩行訓練をしたと言ってもまだこの体は自分で歩き続けることはできなかった。
ゆえに当然のように抱き上げられてお風呂場へと連れて行かれる。
そしてほんの一分ほどで到着した脱衣所。
そこは木製の棚が並ぶ銭湯じみた脱衣所であった。
俺はそこの椅子に座らされ服を脱がされていく。
「えっと……」
顔がどんどんと赤くなっていく。万歳をして上着を脱がされ、肌が丸見えになり、足を伸ばしてはズボンを引き抜かれ、そしてパンツを……。
「ちょ、! ちょっと待って!! 」
「どうか致しましたか? 」
俺は慌ててパンツを押さえる。
「自分で! 自分でするから!! 」
「それは難しいと判断しますが? 」
事実無理だった。中途半端に体を浮かせるほど力は戻っておらす、コテンと椅子から倒れそうになる体を神崎さんが支える。
そんな様子に察したかのように、神崎さんは口を開いた。
「なるほど、私は魔法人形、女性ではありませんので何も問題ないかと」
「おおお、大ありだよ、見ないで、っていうか、まさか風呂まで全部!? 」
「もちろんお手伝いします」
「あばばば!!!! 」
意味不明な言葉が俺の口から漏れる。羞恥心が爆発し、しかしどうしようもないのも事実で。
「こういった場合、私から準備すべきでしょうね」
さらりと爆弾発言をする神崎さん。
俺から少しだけ離れると、エプロンの紐を解き、しゅるりと音を立ててそれが落ちる、さらに着物の帯を解き、それを開いて……。
目を瞑る。
せめてもの抵抗だった。もしくは男の意地だろうか。
「お目を瞑る必要はございません、所詮魔法人形、ご覧になったところでなにも問題ないかと」
何度かの衣擦れの音、すべてを脱ぎ終わった彼女はそう言うとこちらに近づいてきたのがわかった。
もしかして、顔と手以外は案外メカメカしい体なのだろうか?
そんな疑問が頭をよぎった。なら安全のため、そう安全のため見ても何も問題ないと俺の男が囁く。
そうやって納得した俺はゆっくりと目を開ける。
視界に入ってきたのは神崎さんの美しい顔、そして白い首筋に膨らんでいく柔らかそうなむ……。
慌てて目を瞑ることができたのは、自分の体が子供だからだろうか。
心臓がバクバクと音を鳴らす。
元の自分ならじっくりと観察したはずだったそれが頭をよぎるが必死に口を開く。
「普通の体じゃないか!? 」
いったい何の抗議か、ともかく口に出さなければやってられなかった。
「なにか問題がございましたか? 」
「問題ないのが問題だよ!! 」
ロボットめいた継ぎ目もない美しい白い肌が目に焼き付いて離れない。
「何をおっしゃりたいのか理解できませんが、ともかくお風呂に入りましょう。そのままではお風邪を召してしまいます」
「わかった、君が何一つ理解してないのがわかった。もう目を瞑っているから全部任せる!! 」
ヤケクソめいた俺はもうそういうことで済ますことにした。
その後のことはあまり口にしたくない。
子供に戻ったように、優しく頭を洗われたことも。全身、裏も表もきっちり余すことなく丸洗いされたことも。まったりとお風呂に使ったのが気持ちよかったことも。お姫様抱っこで運ばれるたびに当たった……。
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何かが、満たされていく。
神崎は彼の手を引き歩行訓練を行いながら、それが何かを調べ続けていた。
もちろん主様のことをないがしろにすることはなかった。彼女の思考は主様を手伝いながらも十分に余力を残していたからだ。
しかし、わからなかった。魔力炉は正常稼働し全身に魔力は満たされていた。
でもそれとは違う何かが、どんどんと満たされていくのを確かに感じ取っていた。
触れている手から、主様が倒れ込んできた胸から、抱きしめた腕から。
それは満たされていった。
しかし神崎はそれが何かわからなかった。
もっと必要だと、データが必要だとそう判断しながらそれに注力し続けたのだった。
そうしてお風呂にお連れした際も必死に目を瞑る主様を観察しながらデータ収集を続けた。
そんな調べ続けた一週間だったが、結局何かは何かのままであったが。
しかし、それが満たされれば満たされるほど、体は、魔法人形の体はなめらかに動くのだった。
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「神崎、その……外に出たいんだけど……駄目かな? 」
一週間が瞬く間に過ぎていった。
朝起きて、お世話されながら朝の準備、朝食をゆっくりと食べさせてもらう。
そして運動訓練を一緒に行って、時間が来たら昼食をのんびりと頂く。
そしてまた運動訓練を行い、汗をかいたらお風呂へと連れて行かれて……丸洗い。
その後は夕食を頂いて、寝台へと潜り、彼女に見つめられたまま、安らかに眠る。
繰り返されて七日。気がつけば七日も過ぎていた。
それ故にだろう、動き出した体に合わせて、僅かに余裕と暇が出てきてきた。
代わり映えのなかった日々、部屋を出ても行くのは、廊下と洗面所、それと風呂場だけだった。
もともと引きこもりの気があった自分だが、さすがにちょっと思うところが出てきた。
そんな俺のお願いに神崎は僅かに首を傾けて答える。
「外ですか……周囲環境を観測する各機器が示すのは正常な値ですが、映像機器は破損していまして……」
「何か問題が? 」
「周囲の安全確認が済んでいないのです、もし不用意に外に出て主様にもしものことがあれば重大な問題となります」
「そっか……でもいつまでもここにいるわけには行かないんだよね? 」
「そうでしょうか? 衣食住ともに確保はできています。問題ないかと」
彼女は何でも無いことのようにそう言った。
確かにその三つは確保されているのだろうが、俺には耐えられなかった。
「いや、そろそろ暇になってきた。人間にとって退屈は死に至る病だよ。パンはあってもサーカスがないと」
「そうなのですか? 私は……」
初めて彼女は言いよどむ。
そういえば今までに無いそれだった。
俺が改めて話しかけようとした、ほんの僅かな時間で、彼女は口を開いた。
「そうですね、主様がそうおっしゃるのであれば、確認に行って参ります」
「えっと、自分で言っておきながらだけど、大丈夫? 」
それはそれで不安だった、もし彼女に何かあれば同じく取り返しがつかない。
「大丈夫です。私は侍女です。何事にも対応可能に作られていますので心配は不要です」
「うん、侍女だからってのが理解できないけど、なんか説得力があった」
「一時間ほど時間を頂きたく思います」
「うん、気をつけてね」
「はい」
そう言って彼女は一礼すると外に出て行った。
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俺は不安に押しつぶされそうだった。
時計が無いから余計にだろう、こんなことなら無理にでも一緒に行けばよかった。
何もわからないなか、ごろごろと寝台で待つことしばらく。
部屋がノックされて扉が開いた。
唐突の音に、僅かに警戒したが入ってきたのが神崎で安心の息をはく。
「ふぅ、よかった。お帰り、大丈夫だった? 」
「はい、周囲状況問題ありません。大気の環境も再度観測しましたが主様が外に出ても問題ないかと」
「そっか、それはよかった。それじゃ外に行こう。戦争で終わった世界。そして俺が見る初めての異世界だ」
「はい、時間がかかりますので、お抱きしてお連れしますね」
「うん、お願い」
そう言うと彼女は俺を抱き上げて外へと向かった。
初めて進むひび割れた通路。何度も通路を曲がりながら階段をあがり複雑な道を歩む。
「道に迷いそうだ」
「破損の少ないもっとも安全な道を通っています。他は崩れているか、侵入者迎撃用設備が駆動しておりますので決して一人でお出かけにならないで下さい」
「うっわ、了解」
そんな会話をしながら運ばれることしばらく、彼女が一時間で往復した距離を時間をかけて進む。
もっとも崩壊が少ないという話だったが、階段を上に上がれば上がるほどヒビは大きくなり崩れている箇所を散見するようになった。
明かりも少なくなり、どんどんと深く危険地帯に向かっている印象を受けた。
「大丈夫なの?」
「大丈夫です。あとしばらくすれば外につながるハッチに到着します」
それから数分だろう。
横開きの扉に到着した。
ハンドルが飛び出したそれは電源が通っていないようだった。
「手動で開きますので、申し訳ありませんが」
「うん」
俺は慎重に下ろされ、彼女が扉に取り付くのを見守る。
くるくると彼女がハンドルを回すと、それはギリギリと音を立てて開いていった。
光が、赤い光が差し込む、急な眩しさに目を細め手で庇う。
しかしすぐにそれにはなれて、俺は導かれるように外へと歩み始めた。
扉の外に踏み出す。
そしてそこに広がっていたのは、初めて見る風景だった。
まるで絵画の世界。
神秘的な風景という題で書かれたイラストのような美しい、ためらいなく美しいと言える世界が広がっていた。
夕焼けが迫った世界。
空を見上げればどこまでも高く澄んだ赤く染まっていく空。
今まで見たことも無い綺麗な綿あめのような雲が空に浮かび陽に照らされ白と黒と赤い色に染まっている。
それと同じ高さには、遙か遠くに島が、空に浮く森と地面が幾つも浮かんでいた。
空中を行く大地はそこから流れ落ちる川を幾つも見せて、霧を作りだし小さな虹を描いていた。
そんな空に負けないくらい美しいのは地上世界だった。
初めて見た遥かな地平線。どこまでも続く緑、森一面が広がっていると思うとその先には僅かに雪を乗せて見せる雄大な山が覗いていた。
そんな森には綺麗な川が幾つもの青い線をひき、大地を潤していた。
言葉が出ない。
山の中腹から見るその景色、扉は高台と呼べる場所に開いておりそれは展望台のごとく世界を臨める景色だった。
これだけ綺麗なものは自分は見たことが無い。
自然だけの世界。戦争で終わってしまった世界だというのに、その圧倒的な命の世界に俺は感動し……。
「主様」
静かにかけられた声。
神崎が手を差し出す。そこにあったハンカチを見て初めて自分が涙を流していると気がついた。
「ありがとう……」
「お気に召されましたか?」
「……うん、うん!」
静かに涙をぬぐい、また世界を眺める。
俺は彼女の手を握る。
心の震えは止まらない。
その日、俺は、俺たちは陽が完全に落ちる時、満点の星空が瞬き、大地を照らすそのときまでその景色を眺め続けた。