タイムマシン
この角度から眺めるのが大好きだった。
リビングの隅にあるギタースタンドに立てかけられたタバコサンバーストのフェンダーU.S.Aストラトキャスター。
ヴィンテージというほどてもないが、そこそこ古いモデルだ。
高校生の時に必死でアルバイトして貯めたお金で買ったギターだが、当時は身分不相応だと悪友たちに揶揄されたものだった。
あれから20年以上が経過しているというのに、いつ見てもこの角度から見る「ストラト」は素敵だった。
僕は自分が座るソファからお気に入りの角度で常にそれが見えるように置くことにしている。
そのソファに座りタバコに火をつける。
大きく煙を吸い込んでゆっくりと吐き出しながら、僕はそのストラトを愛でるように眺めた。
やっぱり、いつ見てもいい。
そんなふわふわとした時間を切り裂くようにキッチンのタイマーがけたたましい音をたてて鳴りだした。
火にかけた鍋の湯が沸いたか。
火をつけたばかりでまだ長いタバコの先を突つくようにして消した。そして、そのタバコを灰皿のくぼみに差し込んだ。
キッチンに向かい予め用意しておいた乾麺のパスタを手に取ると、扇子を開くようにしてそれを鍋の湯の中に広げた。
鍋の中で放射状に広がるパスタはちょっとした芸術だ。
今日は上手くいった。
今日の夕飯のメニューは…
■ホウレン草とベーコンのペペロンチーノ
■サーモンマリネ
■昨日の残りの豚汁
■最近お気に入りのシャルドネ1本
出来上がった料理を順番にリビングのテーブルに並べた。
長年愛用している僕のギターも巻き込んで、部屋は一気に夕飯の香りに包まれた。
個人的に編集したオムニバスアルバムのコンパクトディスクを部屋のPCにセットして再生アイコンをクリックする。
外付けのスピーカーからリチャード・ロジャース作曲の「マイ・フェイバリット・シング」が流れ出した。
これは、ジョン・コルトレーンのバージョンだ。
ソファに座り、まずは、最近お気に入りの白ワインをほんの少しグラスに注ぎ、一口喉に流し込んだ。
それを合図に今夜の「一人晩餐」が始まる。
麺の茹で具合である「アルデンテ」と音楽用語である速度記号の「アンダンテ」は似ているなと、取るに足りないことを考えながらフォークでパスタの麺をくるくると丸めた。
ここのところ毎日自炊しているため、自分で作る食事にはうんざりしていた。
自分の味はいつも可も不可もない。
無心で食べているのか何かを思い巡らせながら食べているのかは分からないが、何れにしても僕は食事にはあまり時間をかけない。
食べてはシャルドネで流し込む。
それを1サイクルとして僕はその料理を一気にたいらげた。
食後にアレンジの譜面を書かなければならなかった。
しかも2曲分だ。
あまり気乗りしないものだったが、今日も昼過ぎにレコード会社の奴から譜面の催促の電話があったばかりだ。
今のうちにやっておかないとまた面倒なことになる。
僕は重い腰を上げた。
今回僕がアレンジを手掛けるものは、なんでも来年デビュー予定の新人アイドルグループだそうだ。
そのアイドルグループのデビューシングルのアレンジャーとして僕に白羽の矢が立ったらしい。
大きなタイアップがどうだとか、集客はデビュー前から千人単位だとか、グラビアありきとは考えていない「実力派を目指すアイドル」だとか、レコード会社の若い奴からそんな説明を受けた。
だか、その話のどれもが僕にとってはまるで興味の無いものだった。
というのも、こういう鳴り物入りで華々しくデビューを飾ったはいいが、竜頭蛇尾に終わる許多のケースを僕は長年の仕事の中で嫌という程見てきている。
それだけにこの手の「お仕事」は極力断るようにしているのだが、今回は昔世話になった恩師に直々頼まれたので断ることが出来なかった。
テーブル脇に置いておいた「参考資料」としてのそのアイドルグループの写真集。
レコード会社から送られてきたそれに僕は一瞥をくれた。
表紙では、まだ「あどけない」という言葉が似つかわしい数人の少女たちがこちらを見つめている。
「そんなにね、見つめられてもね」
前にぽろりと落ちるような声で僕は独り言を呟いた。
少しにやついていたかもしれない。
レコード会社としてはイメージを掴んで欲しいという意味で送ってきたのだろうが、僕がこれから書こうとしている譜面の役にはおおよそ立ちそうになかった。
何故ならこのグループのアレンジをする上で最も厄介なのは、その歌の音域がひどく狭いということだ。
この狭いレンジではイメージどころではない。
それにこんな狭いレンジで「実力派を目指す」も何もあったものではないだろう。
第一、「実力派を目指す」とはどういうことなのだろうか。
既に実力を兼ね備えているから「実力派」なのであって、この段階で「目指す」はないだろう。
そんなことを考えながら何かアレンジのヒントになるものはないだろうかと模索しているうちに、先日レコード会社から「アレンジの発注イメージ」というメールが来ていたことを思い出した。
そのメールをもらったときは、この依頼自体に気乗りしていない上に、別件の仕事に翻弄されていたので、一瞥をくれる程度で読み飛ばしていたのだ。
そうだ。
僕は携帯にある他の膨大なメールの中からそのメールを探すことにした。
携帯のメール画面の「受信」を開きスマートフォンのLCDディスプレイを人差し指でどんどんと下へと送っていった。
こういうときに限って「迷惑メール」が矢鱈と検索の邪魔をするなと思いながら探っていると、程なく問題のメールが見つかった。
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【件名】アレンジの発注イメージ
【発信者】株式会社ヴィジョンアーツ 担当小杉
浦田様
株式会社ヴィジョンアーツの小杉です。
先日はお忙しい中、わざわざ弊社にお出向き頂き誠にありがとうございました。
さて、早速で大変恐縮ですが、今回の新人アイドルグループ「MAD on A(まっどんな!☆)」のシングル曲に関しまして、担当プロデューサーより楽曲の発注イメージとして以下のようなものが送られてきましたので、浦田先生にもご転送させて頂きます。
では、何卒ご査収下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
新人発掘部門 担当 小杉
【楽曲アレンジ発注イメージ】
作詞・作曲・アレンジの先生方各位
来春、センセーショナルなデビューを果たすであろうMAD on Aのイメージの統一を図るべく、楽曲コンセプトをまとめてみましたので、先生方の作品のご参考にして頂ければ幸いです。
◯楽曲コンセプト
前回打ち合わせでお聴き頂いたデモデモ曲「星空のミルキーウェイ☆(仮題)」のようなテンポ感のあるビートの効いたポップミュージックでありながら、どこか切なげで、80年代の歌謡曲の哀愁をも漂わせた楽曲。
あまり「歌謡」を意識しなくても構いませんが、どこか懐かしい香りのするイメージと近代的なエッジの効いたサウンドを兼ね備えた方向性でお願いします。
担当プロデューサー 松尾
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「ちょっと、何言ってるか分からない…」
前にぽろりと落ちるような声で僕はまた独り言を呟いた。
今度はにやついていなかった。
必死になって探した「参考資料」はほとんど参考にならなかった。
結局、今までの自分のキャリアを頼りにするほかなく、試行錯誤と模索を繰り返しながら数時間でなんとか一曲分を書き上げた。
「あー疲れた」
大きめの独り言は僕以外に誰もいないこのリビングにこだました。
そのディレイはあまりにも短いものだった。
ぐったりとソファにもたれるように身を預けて、僕は大きなあくびをした。夕飯時のシャルドネのせいか、突然激しい睡魔に襲われた。
そのままソファーに横になり、毛布に包まる…
学校帰りによく立ち寄ったその児童公園のベンチは僕らが幼い頃からその場所にあったはずだが、当時はこんなに立派なものではなかった。
きっと修復したんだな。
そんなことを思いながら、僕と美夏はそのベンチに並んで腰を下ろした。
右隣りに座る僕の初恋。
さりげなく彼女の方を見ると、美夏は真っ直ぐ正面を向いていた。
美夏の視線の先に目をやると、幼い男の子が危なっかしい手つきで何かを拾おうとしている。
まだヨチヨチといって差し支えないその子のそばには、年の頃なら三十前後であろう一人の女性が立っていた。恐らくこの女性がこの「ヨチヨチくん」の母親であることは想像に難くない。
その女性は心配そうにその子を見守っていた。
その日は少し汗ばむ陽気だったせいか、美夏は制服のブレザーを脱いで長袖のYシャツの袖を肘の少し下辺りまで折り返し、肩から紺のスクルカーディガンを羽織っていた。
僕はもう一度、美夏の方を見た。
彼女の鼻筋の通った横顔は緩やかな曲線を描き、その輪郭を春先の眩い光の中にくっきりと映し出していた。
美夏は自分の視線の先にいる幼い男の子を少し微笑みながら穏やかに見つめていた。
僕はこの角度から彼女を見るのが大好きだった。
それは僕の自慢のストラトだって勝てやしない。
しかし、バイトの30分はあんなにも長いのに、好きな人と話しているとどうしてこんなにもあっという間に時間が過ぎるのだろう。
僕はときどき「時間」とは「自感」と書く方が正しいんじゃないかとさえ思うことがある。
気がつくと辺りはすっかり夕暮れに包まれ、この児童公園もオレンジに染まっていた。
そしてこのときが、僕が「恋」というものに初めて正面から出くわした瞬間だった。
「お前、キスしたことあんの?」
僕が突如、切り出した。
「やだ、浦田君、何言い出すの」
美夏は一瞬何が起こったのか分からないという様子で、怒るというよりは寧ろ困惑した表情を僕に向けて言った。
「俺、お前が好きなんだ。」
人の肌の色とはこんなにも急変するものだろうかと思うほど、美夏の頬は瞬く間に紅潮していった。
「あたしも。」
彼女は少しうつむいて恥ずかしそうに答えた。
その声はあまりにも小さく頼りなかった。
僕は自信が持てず、もう一度聞き返した。
「え?」
すくっと立ち上がった美夏は僕の方に向き直り、柔らかく笑った。
そして、今度ははっきりとした口調で言った。
「あたしもよ、あたしも。」
僕はこの瞬間を生涯忘れないだろうと思った。
そのときだ。
救急車のサイレンがけたたましい音とともに公園の脇の道路をすり抜けていった。
その音に驚き、僕はふと目を開ける。
驚いて目を開けた僕の視線の先には、いつもの部屋のいつもの白い天井があった。
「なんだ、タイムマシンなんかいらないじゃないか」
僕はいつの間にかソファですっかり居眠りをしてしまったらしい。
救急車のサイレンはもうだいぶ遠退いていた。
そして、リビングの隅の方に視線をやると、ストラトはあの日と同じように僕の大好きな角度でそこにいた。
「もう一度タイムマシンに乗るか」
僕はもう一度目をつぶる。
瞼の裏はあの日の夕暮れと同じオレンジだった。
<完>