王都アルザハ-1-
相変わらず薄暗い森のなかを、二人は歩いている。ジュゼッカの半歩後ろを明人がついていっている構図で、森の地図を持っているジュゼッカが先導せねばならないのが理由なのだが、見る人によっては違う感想を抱くことだろう。たとえば、ちらちらと後ろを確認しながら歩くジュゼッカとか。
心のどこかで、明人に怯えられているのではないか、という思いがジュゼッカにはある。それは火種としては小さなものだったが、確実にジュゼッカの心のなかで明かりとして灯されているのだ。それに不安とか猜疑心とか、畏怖や脅威といった感情をくべると、一気に燃え上がる。それらはなにもジュゼッカ自身がくべる必要はない。明人の視線が、無形の燃料となってジュゼッカに注がれているのである。
「アーキット殿は、斬り合いは初めてですか」
立ち合いにおいて先手必勝を心がけているジュゼッカは、こういったことにも先攻を優先する。明人はためらいがちに答えた。
「ああ」
「魔法による戦いも?」
「ああ」
明人の反応はむしろそっけない。疲労によって問答が億劫になっているものと言い聞かせて、ジュゼッカは続ける。
「やはり疲労は相当なものでしょう。アルザハに到着したら、少し休みましょう。大きな都ですから、捜索されていてもそうそう見つかることはないはずです」
隠れ家にうってつけの場所がある、そこはやはりフィルブランドに縁のある者が経営している酒場で、人種、身分さまざまな人間がいるのでいい隠れ蓑になるだろう――ジュゼッカがそう説明するのを遮って、明人は質問した。
「君は人を斬ったことはあるのか?」
ジュゼッカは憮然とした。明人の質問はつまるところ、人を殺したことがあるかということだ。
答えはノーだった。
「所詮、私は単なる警備部隊の一兵士にすぎません。戦などこの数年起きていませんし、あったとしても我々が狩りだされることはありえません」
淡々と語るジュゼッカの横顔は疲労のためか、色素が薄く見えた。
ジュゼッカは確信した。明人は自分を恐れている。多少の寂しさと、理不尽さを感じる。自分は彼を助けるために剣を振るっていたのであって、決して戦闘狂とか殺人快楽者とかいうわけではない。そのあたりのことをわかってくれてもいいのに、と思うのは仕方のない心の動きであるが、同族を傷つける行為を本能的に恐れるのもまた、仕方のないことであった。
ジュゼッカは顔色の悪い明人に向き直り、真摯な瞳で言う。
「誓ってこの剣は、血を吸うことを目的としません。弱き人を守り、その道を切り開く手段として振るうのです」
彼女は騎士の称号を得ていないが、それでも騎士道と呼ぶべきものは、彼女のなかに確かに存在する。剣を取ることを決めたとき、祖父は言った――剣は人を殺す。そして自分自身も傷つける。鞘があるのはそのためで、本来ならずっと鞘に収まっているべきものだ。それでも剣を取るというのなら、私は、お前の剣が生涯、外の世界を知ることのないよう祈っていよう……。
本当に抜くことがないとは、祖父も思っていまい。だがせめて志だけでも、知っていてほしかった。武器は弱い人間が持つもので、その本質は強きをくじくことにある。圧政や、理不尽な暴力から身を守り、解放するためのものだ。
ジュゼッカの直視は明人の無形の暗雲を、彼に自覚させた。自分が、ジュゼッカを無意識のうちに恐れていたことにようやく気付いたのである。自嘲気味の失笑が起きかけて、明人は慌てて背筋を正した。
「いや、ごめん。変なことを聞いた。許してほしい」
「いえ、アーキット殿。ですがどうか覚えていてほしいのです。戦うことは確実に人を傷つける行為であるということを」
明人は、はっとして自らを顧みた。魔道師と対峙したとき、自分は身を守るためとはいえ、剣を抜いて魔導師に斬りかかった。あのとき、もし斬りつけていたら。手加減を知らないだけ、殺していたかもしれない。
まったく、人のことを言えた義理ではないのだ。明人は額にいつの間にか浮かんでいた汗をぬぐった。
「……ごめん」
「いえ。私も、もしかしたらあなたに嫌われてしまったのではないかと、不安になったのです」
その不安が、明人に対して説教じみた台詞を吐きださせていたのである。むしろこの説教で、より萎縮させてしまったかもしれない。
「そんなこと、あるもんか」
いささかむきになって否定するのを、ジュゼッカは微笑して見ていた。
よかった。この少年に嫌われたら、きっと気がくじけていただろう。なぜそう思ったかについてはわからなかったので、ジュゼッカは思考停止して気にしないようにしていた。
◇◇◇
薄暗い森を抜けて、アルザラッハの国民にとっては見慣れた風景が広がる。高さ七メートルからなる石壁は修理と補修を重ねていくうち、石の種類も、補修方法もまちまちなので、一体感というものがない。場所によっては一〇〇年以上経過したところや、この何ヶ月かで新造されたものもあって、堆積した地層を見ているような感覚にとらわれる。古参の兵士や将軍などは、この傷はいつのものだ、などと昔話に花を咲かせることもあるのだ。
石壁が存在しているということは、やはりアルザラッハも外敵に悩まされていた、ということである。どうにか現在進行形ではなくなりつつあるものの、王制特有の頑なさが、隣国との衝突を招いているのも事実である。
世界地図によれば、主要大陸は五つ。アルザラッハ、ヴェンデ、ストーチカ、セレネ、ヴォル・サル。それぞれに大陸の名を冠した主要国家があって、統一国家であったり、大陸のうちの比較級的代表国家にすぎなかったりする。アルザラッハは王家がこれを管理していて、大陸はすべてアルザラッハ王家の征服のもと支配されているということであり、領土は大貴族たちの領地として統治させている。コールブランド、ベイブランド、スミソール、サドニア、ゾンバーブルッツ、ニルスハイファー、ディミトリが名を連ねている。ジュゼッカらがいたコールブランドは、なかでも領土面積は広いものの、ほぼ荒れ地であり、大貴族ながら恵まれているとは決して言えない。この冷遇に関しては過去の失敗がコールブランドに試練を与えているのだ。
アルザラッハ王国、王都アルザハ。二〇万八〇〇〇人が生活するこの都市は、都市にあるものがすべてある。農耕、水産、工業、港湾、医療、学校、上下水道、娯楽などなど、活気は他の大陸に勝るとも劣らない。王家が生活するのはフィルプス城といい、これはアルザラッハの地を平定した英雄の名を冠していて、議会があり、行政、立法、司法のすべてがアルザラッハ王のもとに行われる。
また、フィルプス騎士団を擁している。これは軍事行動を起こすためだけでなく、王室の権威を示すほかにも一種の特権階級として設けているのだ。今日、我々の世界で言う騎士団とは騎士修道会を指しており、どちらかというと宗教的な意味合いが大きいが、こちらは軍隊としての意味合いのほうが濃い。
宗教はエレスという唯一神を信仰している。これは他の大陸の国々も同一であり、この世界における唯一絶対の創造神であるとされているが、宗派というものは存在し、教義もそれぞれ異なる。それがときに衝突を引き起こし、戦が人々の血を吸っていくのだ。唯一絶対の創造神エレスが、被創造物である人間が殺し合うことを是とするかは、さだかではない。たとえ異世界においてさえ、人は思想によって食い違い、体系化された宗教によって対立し、異論を受け入れられない非寛容によって滅びる。
ケレンの森のアルザハ方面入口から石壁にある関所を観察していたジュゼッカは、安堵したように吐息した。
「関所を守る兵士は若い。どうやらこの許可証で通りそうですね」
石壁には関所があって、人々の往来を監視、制御している。これはアルザハにある役所から発行される許可証か、各領主が発行しているものであれば、難なく通れる。ジュゼッカが持っているのはフィルブランドがコールブランドから私的に発行されたもので、約五〇年前のものとなる。純銀でできたメダルにはアルザラッハ王家の紋章である弓矢に模した宿り木と、コールブランド家の紋章である剣と盾の組み合わせ、フィルプス紀元三八五年と刻印されている。裏には当時の王、ガレリアの印が刻まれていて、ガレリアの信頼が厚かったコールブランド特有の特別製だ。
現在のものは二〇年前に現在の王ルドウィンが即位したときに新しく作られた。純銀のメダルにはルドウィンの印と、裏に発行されたフィルプス紀元が刻まれる。メダルの形の許可証は貴族か、騎士団、魔導師に限り、他の者は紙で書かれた許可証や大貴族の推薦状などで通行を許される。
「とはいえ、アーキット殿。胸当てと剣はお捨てください。私はコールブランドの使いの者、と身分を偽ります」
もし脱走を手引きしたことが知られていた場合のことを考慮して、身分は偽る必要がある。コールブランドに縁のある者だと分かれば、その領地内で脱走された情報も含めて聞き出すことが可能だ。ただ、似顔絵を含めた手配書が回っていると厄介なので、最低限の変装はする必要がある。
明人の服装は一見して異様なので一般男性が着用する服装に着替えてもらい、ジュゼッカ自身は髪をまとめる程度にしている。
「わかった。俺はどうする?」
「私の世話係、ということで」
明人は吹き出してしまった。
「俺がお世話されてるんだけどな」
「申し訳ありません。言いくるめるにはコールブランドに明るい私が適任だと思ったのですが……」
「いや、是非頼むよ。俺は口があんまりうまく回らないんだ。ではお嬢様、参りましょうか」
「……よくお回りですよ」
東門にあたる、ケレンの森方面の石壁は目立った傷がそれほど見当たらない。修復されているわけではなく、あまり外敵にさらされていないのだ。内戦が頻発していたころは、この森が防衛線を築き上げてくれていて、自然の要害というところだ。外敵、つまり外国による脅威はむしろ海からやってきて、海岸を絶対防衛線にしていた。
関所の兵士は二人、門を左右で挟んでいる。商人や旅芸人の類はほとんど通っていない。ここを通るのは森の動物を狩って生業としている者か、さもなくばお尋ね者だ。
「なんだこれは。ずいぶん古いな」
若い兵士は骨董品ものの許可証を興味深げに見ている。現在の形とはまったく違うが、表にアルザラッハ王家と大貴族のコールブランド家の紋章が見て取れるため、本物だろうと判断した。
「私はエリシュ・ルノー・コールブランド様より遣わされた。通してもらえないだろうか」
「そんな話は聞いていませんが……」
明人に緊張の糸がはりつめた。体が熱を持ったように、首筋に汗が滴る。
「内密に、とのことだ。疑うならその旨、確認してもよいが、表ざたになって困るのは私とお前たちだぞ。なにせ四つの首が飛ぶことになるのだから」
明人まで数に入っていたことはともかく、兵士は顔を見合わせた。明らかに狼狽の色が見える。
「その男は?」
「女一人はなにかと不便だ。不審な点が?」
兵士たちはなにやらぼそぼそと話し合っていたが、ジュゼッカがなにかを握らせると、おとなしく引き下がった。通ってよい、ということだ。
開かれた門を悠然と歩いていくジュゼッカを小走りに追いかけながら、明人は確信した。要するに賄賂を渡したのだ。金色の輝きの誘惑に勝る義務感は、末端の兵士にあるわけがなかった。この東門の警備がその程度、ということを示してもいる。
若い男と甲冑姿の女の二人連れが、手配されていないということもこれで証明された。兵士たちは彼らになんの不審も抱かず、手配書を確認しようともしなかった。あるいはこの東門に限ったことかもしれないが、入ってしまえばあとはこちらの思うがままだろう。
「アルザハは広い。ひとたび入ってしまえば身を隠す場所はいくらでもあります。手配されるのも時間の問題かもしれませんが、その前にあのお方にお目にかかりましょう」
固有名詞を言わなかったのは、用心のためであろう。このアルザラッハでツキミという名前は忌避されているのだ。熱心な者は、うっかり口にしたときに教会へ赴いてエレスへ許しを乞う。
ジュゼッカはふと、明人の顔色を見て形のいい眉をひそませた。
「どうしたのですか。そんなに汗をかいて」
明人は言われて、額や首の汗をぬぐった。
「はは、通れるかと緊張していたのかな」
「そうですね。私もこれほどすんなり通れるとは思っていませんでした」
なにしろ兵士が若くて助かりました、もし年齢が高ければコールブランドの名を出しただけで通してもらえるかわかりませんでしたから……。
ジュゼッカの言葉がやけに遠く感じる。はりつめていた緊張の糸が切れてしまったのだろうか。いや、そんな簡単なものではない。後ろに引っ張られるような、そして左右に揺さぶられるような、船に乗っている感覚だ。前を歩いているだろうジュゼッカの美しい金髪が、次第に風景に溶け込んでゆく。風景すらも焦点があわなくなっていき、白いもやがかかる。
「アーキット殿!?」
彼の記憶は、地面にしたたか打ちつけられた体の痛みで途切れた。




